第12章
新堂のたった一つの願いは、『夜魔』を滅ぼすことだ。
両腕を喰い千切った『夜魔』を……家族を殺したウロボロスを、その手で殺すこと。
しかし同時に考えてしまうことがある。
いや、できるだけ自覚しないようにはしているが、どうしても脳裏をよぎる。
もし復讐を果たしたのならば、その後の自分は、何を目標に生きたらいいのか。
すべてを失い、あらゆる目的を与えられてきた自分の、存在理由。
誰からも虐げられない自由な身であるはずなのに、何故か、身動きが取れなかった。
「先生……」
緩やかに覚醒した新堂が、小さく呟いた。
寝言……ではない。目を開けると、靄がかかる視界に、女性の顔が映ったのだ。
「先生。俺は、どれくらい眠っていた?」
問い掛けるも、相手からの反応は無い。
不思議に思い、何度か目を瞬く。すると女性の顔が崩れ、鮮明になる。
それは村井準教授ではなく、美代子だった。
「――ッ!?」
驚き飛び退いた。そして慌てて周りを見回してみる。ここはどう見ても、新堂の自室である倉庫だった。
目を細めた新堂が、居たたまれない表情の美代子を睨んだ。
「……なんでお前が俺の部屋にいるんだ?」
「ごめんなさい。新堂君のことが、心配で……」
帰ったんじゃなかったのか? しかも今は午前三時……いや、それは眠る前だったか。
そう思い起こし、新堂は頭を掻いた。
美代子の姿を見れば、セーラー服姿だ。きっと学校帰りに様子を見に来たといったところだろう。問題なのは、あれから何日後の学校帰りなのか、だ。
「村井先生に訊いたら、丸一日眠っているって言ってたよ」
「そうか……」
ということは、先ほど午前三時に起きてから、十二時間と少し眠っていたということになる。数字に置き換えると意外と短いような気がしないでもないが、何故か妙に長く夢を見ていたような感覚に襲われた。
ふと、昏倒する前のことを思い出す。
その原因を作った美代子の存在が、新堂を『闇』の中から引っ張り上げようとしていることを。
自然と、敵視するような目つきになってしまう。
しかし美代子は目を伏せたまま、新堂と目を合わせようとはしなかった。
そして短く紡ぐ。
「悪いとは思ったんだけど……私、村井先生から、新堂君の昔のことを、もっと詳しく聞いちゃった」
「だからなんだ?」
凄ませた声に、美代子は一度だけ息を呑む。決して機嫌の悪そうな新堂の態度を怖がっているようではなく、ただ単に、言ってもよいのか逡巡しているように目を泳がせていた。
「その……それで私が勝手に考えたことだけど……」
「言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」
重々しく頷いた美代子が、言った。
「新堂君の捜してる『夜魔』って、もう誰かに倒されちゃったり、この地域にはいないんじゃないかな?」
「な……に……?」
「だって、二年近く、毎日捜し続けてるんでしょ? それに突然変異した『夜魔』って、そんなにたくさんいるわけじゃないって。一晩のパトロールで、一匹出会うか出会わないかだって。なのに見つからないってことは、もういないんじゃ……」
「黙れ!!」
叫んだ新堂が突然、美代子の肩を突き飛ばした。短く悲鳴を上げた彼女は、勢い良く背中を床にぶつける。
勢いに任せて立ち上がった新堂が、咆哮した。
「お前に何が分かる! お前に、俺の気持ちが分かるものか!」
「ごめん……なさい……」
気を落とした美代子が、小さく謝った。
だがそんなことで、新堂の激昂は止まらない。
「ここから出ていけ! そして二度と俺に関わるな!」
「えっ……」
少しだけ沈痛な面持ちで新堂を見上げた美代子は、しかしすぐに頷いた。
目尻に溜まった涙を拭いながら、言われた通り、ドアに手を掛ける。
「うん。……新堂君、ごめんね」
「…………」
新堂は何も言わなかった。一度だけ振り返る美代子を、息を荒げながら睨むばかり。
悄然とした美代子が退室すると、やがて薄暗い暗闇が倉庫内を覆った。
耳鳴りがするほど静まり返った中で、新堂は床に膝をついて歯を食いしばる。
「くそっ……くそっ、くそっ!」
握った拳を、思い切り床に叩きつけた。義手なのに、とても痛かった。
そんなこと、言われずとも分かっていた。五年前、家族を襲ったウロボロスがすでにいないことなど、とっくの昔に感づいていた。
けど、それを肯定してどうなる?
自分の存在理由を否定してどうする?
認めたくはなかった。自らの行動目的を、無駄だと思いたくはなかった。
だから――、
「絶対に、見つけてやる。必ず、殺してやる!」
両腕が疼いた。妙な胸騒ぎがした。
ゆっくり時間を掛けて立ち上がると、自然と義手が落ちた。空となった両腕の先から、『闇』の瘴気が止めどなく溢れる。
真っ黒な目の下の隈を溜めた新堂は、月の臨める窓を見つめた。
***
意気消沈した美代子を迎えたのは、村井準教授だった。
彼女は普段通り自分専用のデスクの前で腰掛けながら、倉庫から出てきた美代子を一瞥した。
「その様子だと、光太郎君からひどいことを言われたようだね。彼の声が、ここまで聞こえてきたよ」
「えぇ、まぁ……」
「だから忠告したじゃないか。たとえ彼が目を覚ましたとしても、まともに会話なんてできないかもしれないって」
「いえ、新堂君の癇に触れるようなことを言ってしまったのは、私の方なので……」
非は自分の方にある、といった態度の美代子を、準教授はそれ以上言及しなかった。
「でも君は、別に後悔はしていないんだろう?」
「はい」
その返事だけは、力強かった。聞いた準教授は、満足げに頷く。
言いたいことは言えた。あとは新堂が美代子の言葉を受け入れ、『夜魔』退治を……復讐を諦めてくれれば大成功なのだが。
美代子は昨夜新堂が倒れたことを思い出し、胸を痛めた。
もしあんな化け物との戦いで新堂が疲弊しているのだとしたら、やめさせたい。そうでなくとも、できれば頻度を少なくしてほしい。美代子は、心の底から新堂の身を案じていた。
「一つ訊くが、矢野君はどうしてそこまで光太郎君のことを心配しているんだい? 普通に会話するようになったのは、たかだか三日前だろう?」
「どうしてって……友達だからに決まっているじゃないですか」
心外だと言わんばかりに、まるで重力が下向きに働いているほど当然の如く宣った。
答えを聞いた準教授は、最初こそ唖然としていたが、すぐにニヒルに笑いだす。
「ははは。なるほど、友達か。それはとても合理的だ」
「?」
準教授が笑っている意味が分からず、美代子はキョトンと首を傾げた。
と――、
ガッシャーーーン!
突然、ガラスのような堅いものが割れる轟音が空気を裂いた。音源は隣から。驚いた二人は、咄嗟に椅子から腰を浮かす。
「な……何の音ですか?」
「光太郎君の部屋の方からだ」
美代子よりも先に動いた準教授が、彼女を押しのけ、倉庫のドアに手を掛けた。
特に声はかけず、ゆっくりとドアを開く。
倉庫の中には、誰もいなかった。また人が隠れている気配もなく、代わりに冷たい夜風が舞い込んでくる。
嵌め殺しであるはずの窓が、開いていた。割られていたのだ。
「うっげぇ、やってくれたな。学長から叱られるのは私なのに……」
「えっと、新堂君は……」
後ろから顔を覗かせた美代子に、準教授は割られた窓を指で示した。
「窓を割って、たぶん飛び降りたんだろう」
「飛び降りたって、ここ五階ですよ!?」
「まぁ陽は沈んでいるし、光太郎君ならこれくらいの高さ、問題ないだろう。あぁ、頼むから近寄らないでくれ。これで君に怪我でもされたら、私の責任問題だ」
割られた窓ガラスに駆け寄ろうとした美代子を、準教授は引き留めた。
そして名残惜しむように窓ガラスを見つめる美代子を押しながら、研究室へと戻る。
「新堂君、どこに行ったか分かりますか?」
「追いかける気かい?」
「追いかけます」
その瞳は強かった。一切の歪みもないほど真っ直ぐ、準教授を見つめている。
村井準教授もまた、普段のつかみどころのない笑みを消し、美代子を見据える。
やがて先に折れたのは、準教授の方だった。
「まったく、本当に君はイレギュラー的存在だな。しかもこれだけ良い方向に転ぶイレギュラーというのも珍しい」
「えっと……」
「光太郎君がどこへ行ったかは、一概には分からない。彼が目指すであろう場所を、私は教えてあげられるだけだ。君はその足で、無駄足になるかもしれないのに、時間を掛けて彼を捜さなければならない。それでも追うかい?」
「はい!」
決意の籠った返事を聞いた準教授は重々に頷き、新堂が行きそうな場所のリストを上げた。
そして早速研究室から飛び出ていこうとする美代子を、一度だけ呼び止める。
「ねえ、矢野君。君がそれほどまでに真剣になれるのは、やっぱり光太郎君が友達だからかい?」
「もちろん、そうです」
友人のために一生懸命になれる健気な若者の背中を、準教授はしっかりと見送った。
独り残った研究室の中で、デスクの上に腰を預けた彼女は、軽い調子で呟いた。
「矢野君のアレは恋なのかなぁ? でも本当に友達だと思ってる、天然さんに見えなくもないしなぁ。ま、どちらにせよだ……」
首を傾け、窓の外で爛々と輝く月を仰いだ。
「私が余計なことをしなくても、君はもう大丈夫だろう。なぁ、光太郎君?」