第11章
ゆっくりと瞼を開く。最初に目に入ったのは、見慣れた天井だった。
それから数秒間、二呼吸ほどする間に、自分が置かれている現状を正しく認識する。
牢獄のような狭い部屋。天井まで聳える背の高い本棚に、両側から見下ろされている形になっているが、不思議と圧迫感はない。五年も自室として過ごしているため、狭苦しいことにはすでに慣れてしまっていた。
そう、ここは自分の部屋――村井研究室の倉庫だった。
鈍い頭に電源を入れるかのように、新堂はこめかみを抓った。それからゆっくりと上半身を起こす。ひどく頭が痛んだ。まるで頭蓋骨の中に大きな金属球でも入っているかのように、動くたびに頭が揺さぶられた。
「一体……なんだってんだ……」
額を押さえながら、睨むように目覚まし時計を確認した。しかし暗くてよく見えない。嵌め殺しの窓からは、太陽らしき明かりは差し込んでいないので、今が夜であることは間違いないのだが……。
そんな中、学生服のまま床に伏していたことを認識し、新堂はすべてを思い出した。
ただ思い出しても、理解はできなかった。
「倒れたのか……俺は。何で自分の部屋にいる?」
呟き、布団から立ち上がる。しかし極度の立ち眩みが襲ったため、一度だけ起立に失敗し、結局本棚や壁を支えにしなければ歩くこともできそうになかった。
揺れる足取りで、ドアに向かう。隙間からは、明かりが漏れていた。
「先生……」
「おや、起きたのかい。光太郎君」
ドアを開けると、甘い匂いが鼻腔を刺激した。匂いの根源を探るように研究室を見回すと、デスク前に座っている村井準教授と目が合った。
「お疲れのようだね。君も一杯どうだい?」
いつもの調子で、準教授は新堂にコーヒーを勧める。
だが新堂は鼻の頭に皺を寄せて、彼女を睨んだ。そして近くにあった椅子を引き寄せて、腰を深く埋めた。
「いや、いらない」
「珍しいね。光太郎君がコーヒーを断るなんて」
普段通りの軽口を漏らす準教授が、今はとても憎らしかった。
呻くように、新堂は苦しそうな声で問う。
「俺はどうなった? 何が起こった? 『夜魔』を倒して、蜉蝣が来て……それからどうなった?」
「その前に身体を拭いた方がいい。すごい汗だよ」
「あぁ……」
準教授が取り出したタオルを、新堂は素直に受け取る。ただ額に当てただけで、全身の汗を拭おうとはしなかった。
「自分が倒れる前のことは記憶にあるかい?」
「まぁ、一応はな」
「それから日向井君からの電話で、私が駆けつけた。それで君をこの研究室まで運んだ。矢野君も日向井君も心配そうにしていたけど、二人は早々に帰したよ。あの時点でもう夜も遅かったし。そして現在は午前三時過ぎ。君のことが心配で心配で、私も自宅には帰らず、ずっとここで起きていたんだよ。あー、眠い」
そう嘯きながら、準教授は大げさに欠伸をしてみせた。
ずっと起きていたことは間違いなさそうではあるが、心配していたかどうかは嘘っぽく聞こえた。彼女は新堂の親でもなければ、正式な保護者でもない。生活を支えてくれるだけの赤の他人であり、五年前からも、もっぱら放任主義だった。
だから準教授が新堂が起きるのを待っていたのは、他に理由があるに違いない。
たぶん、新堂も疑問を抱いている、彼の身に起こった異変を話すために。
「きっと今まで溜めこんでいた疲れが、いっぺんに出たんだろう。最近は特に寝ていなかったようだし。それに複数の『夜魔』が襲ってきた緊張が解けて、気が抜けてしまったのかもしれないね」
「そんな説明で、俺が納得するとでも思ってんのか?」
「疲労ってのも、君が倒れた要因の一つであると思うよ」
やれやれといった感じで、準教授は首を横に振った。
「とんだイレギュラー、といえばいいのかな」
「イレギュラー? 何が?」
「矢野君のことさ」
さらに新堂は困惑する。どうして新堂が倒れた原因に、美代子が出てくるのか分からなかった。
「今時、あれだけ純粋な子は珍しいって意味でね。……矢野君の根本を構成する色が、純白だって話はこの前したよね? 彼女と接することで、君の魂が引っ張られたんだよ。単純に、影響を受けたと思ってもらっても構わない。それで結果、君は急激に精神を揺さぶられ、昏倒するまでに至ってしまった」
「待てよ。昨日も一昨日も、そんな影響は出なかったぞ」
「そうだね。けどあの場には、日向井君もいたから」
「蜉蝣が?」
思わぬ名前が出て、新堂は訝しむ。
「私の口から言えることではないが、日向井君はね、君よりもずっと深い『闇』を所有しているんだ。それこそ光の届かない、マリアナ海溝くらいの深さの『闇』をね」
そこまで聞いて、新堂は意識が途切れる前のことを薄っすらと思い出す。
蜉蝣は、大型の『夜魔』を蹴り一つで滅していた。やはり家族を殺された新堂の復讐心以上に、蜉蝣の中には濃く重い『闇』が蔓延っているのだろう。
だが、それでもまだ、自分が昏倒した理由には至らなかった。
「ちょうど磁石のようなものさ。光太郎君が何の変哲もない金属片だとすると、超強力な磁石に両側を挟まれたんだ。どっちつかずの君は結局、真ん中から分断された。もちろん肉体的にではなくて、君の魂が、だけどね」
「それで精神が耐えられなくなって、意識を失った……のか?」
「ま、私の推察ではそんなところかな」
タオルの下から、驚きの眼で準教授を見やる。
全然、納得ができなかった。彼女が述べた磁石の理屈が、ではなく、そもそも前提として、新堂の魂が動くに至った理由が。
心外だと言わんばかりに、新堂は呻く。
「俺は、『闇』の人間だ。いくら蜉蝣の『闇』の方が深かろうが……いくら両側を挟まれようが、今さら『光』方面へ俺が引き寄せられるわけがないだろ」
「本当にそうかな?」
一蹴された。
自らの主張が真正面から否定され、新堂は虚をつかれた。
「『ウロボロスの牙』を操る君は、確かに『黒』だ。それは誰にも否定することのできない事実だし、私も認める。けれどそれは五年前からのことだろう? あの事件があってから約三年、君は復讐心を糧に、心の中で『闇』を生成し続けていた。そして復讐を誓ってから今日まで『夜魔』を殺し続け、さらに『闇』の増幅に励んだ。つまり、だ」
準教授の指先が、ビシッと新堂を差した。
「君の心に巣食う『闇』は、君自身が作り上げたものに過ぎない。材料を外からかき集めて、外張りだけを立派な『闇』に染めた、砂上の楼閣でしかない」
「つまり……何が言いたいんだよ……」
「君の根源は、本当は何色だい?」
「俺の……根源?」
今は偽りの物となった、自らの手の平に目を落とす。
作り上げた……上塗りだけの『闇』であるということは、元の色があったということ。その色こそ、本来の自分を表す真実。
具体的に言えば、五年前……事件が起こるよりも前。
自分は、どんな子供だったか。
…………。
少なくとも、今のような他人を突き放す性格ではなかった。
「そのため、君の魂が混乱しているのだよ。『闇』の方向を示す日向井君の方に歩み寄ればいいのか、もしくは『光』の差す矢野君の方へ身を寄せればいいのか」
「俺は……」
剃刀が如く目つきを凄めた新堂が、ドンッと机を叩いた。歯を食いしばり、悲痛な声とともに準教授を威嚇する。
「俺の根源がなんであろうと関係ない。俺は『光』なんかに屈しない。復讐を果たすまで、一生この身を『闇』に染め続けるつもりだ」
「そう言うと思ったよ。『闇』を保ち続けたければ、その気持ちを忘れないことだ。『復讐心』が、君の『闇』を脈動させる原動力だからね」
額に当てていたタオルを投げ付けた新堂が、立ち上がった。
「俺はまだ、この力を失うわけにはいかないんだ……」
「お、おい、光太郎君。どこへ行くつもりだい?」
突然の彼の行動に、さすがの準教授も困惑する。
ただ、新堂の足元はおぼつかなかった。支えがなければ立っていられないほど震え、しかも視点が合っていない。もしかしたら意識が朦朧としているのかもしれない。そんな状態で、新堂は廊下へ向かう扉に手を掛けた。
「この力で、絶対に、必ずあの『夜魔』を……」
「やめときなさい、光太郎君。今の君では、まともに歩くことすら……」
準教授が言い終わる前に、新堂は大きな音を立ててその場に伏してしまった。
「ほうら、言わんこっちゃない」
呆れ果てた準教授が、新堂の元へと寄る。
顔を近づけると、彼は静かな寝息を立てて寝入っていた。
「なるほど。今度は離ればなれになった精神が、徐々に元の位置に戻り始めているわけだな。人間の精神が揺れ動くことは、思っている以上に身体への負担が大きいんだよ、光太郎君。……って、もう聞いていないか」
倒れた新堂の肩の辺りを、準教授が掴む。さすがに担ぐことはできないため、引きずったまま、隣の倉庫へと運び込む。
その途中、彼女は誰へともなく呟いた。
「新堂先生。やはり私のしたことは、間違っていたのでしょうか?」
今は亡き恩師の息子の顔を見て、準教授は悲しげに目を伏せた。