005.黒い過去
▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
–––あの日、私は、私の日常は崩れた。
「ただいまーっ!」
「おかえりー」「おかえり」
私がただいまと言えば、両親かの温かい声が返ってくる、そんな日常が普通だと思っていた。いや、私だけじゃない、みんながそう思っているだろう。
朝起きたら家族がいる。
家に帰って来たら家族がいる。
毎日、美味しい–––かどうかは別問題だけど–––ご飯が用意されている。
1日が終わって、また新しい1日が始まっても、家族はずっと一緒–––––––––そう思っていた。
日常が狂ったのは、今から8年前、私がたしか小学校四年生の時。
その日は雨だった。
いつものように学校から帰って来た私はただいまーっ、と玄関に飛び込む。
「ただいまーっ!」
「はいはいおかえり、って、びちょびちょじゃない、髪乾かしてきなさい?手洗いも忘れずにね?」
「はーい!」
てくめくと洗面所に向かう。
この当時の私の家はボロボロとまではいかないけれど、かなり年季の入ったアパートだった。まあ、お風呂もトイレもしっかりしてるし、家族3人が暮らすのには十分な住まいだった。
「洗ってきたよー!ご飯ご飯、ご飯にしよー!」
「はいはい、食いしん坊さんですねぇ」
「むう…」
あれ、なんかいつもと違う…
「あ、おとーさんは?」
私の父はごくごく普通のサラリーマン。何もかも普通、金遣いはかなり荒いけど、とても優しい人だった。
そんな父には、ずっと守ってきた約束があった。
とってもとっても些細な、でもとっても大事なこと–––「夕飯は必ず家族揃って食べる」こと。
毎日殆ど同じ時間に我が家では夕食を取り、必ず父はその時間には家に帰って来る。
なのに、今日はその父がいない。
普段ならいるはずの父が。
「お父さんはね、すこーしお仕事が残っちゃって、夕飯に間に合わなくなっちゃったんだって」
「…ふーん…?」
「先に食べてていいよ、ってメールきたから、食べてよっか!」
母は、この辺りでは「主婦の鏡」と呼ばれるほどの母親だった。地域の取り組みにも熱心で、この地域に住む主婦で構成される演劇のグループにも参加していた。母の演技は、とても上手い。全てのセリフが、演技が、「本物」のように見えるような演技だった。
本音とセリフの見分けがつかないほど上手い母の演技。しかし、私にしかわからないであろうところで、それが本音かセリフかを見分ける–––いや、聞き分けることができる。
それは、話し方–––流暢さ、だ。
普段、母はよく喋る。いろんな話を一気にしようとして、よく話の流れが変になったり、同じ話を繰り返したりする。
しかし、セリフ–––演技をしている時、そんな母の特徴は全て消える。スラスラと、しかし所々で考え込むような動作を交え–––。外では母は常にこれ、「演技をしている」母でいて普段の姿を見せていないので、この「普段」と「演技」の違いを聞き分けられるのは私と父の2人しかいない。
そして、今。
母は、スラスラ喋っている。
一度も噛むことなく、あたかも台本でも読んでいるかのように。
「……あ、うがい忘れた!してくるね!」
「はいはい」
きっと、いや絶対、母は嘘をついている。
そう思って私は洗面所へ向かい–––向かうと見せかけ、玄関に向かう。
ぴっ、と電磁調理器のスイッチを押す音が聞こえる。母がこっちに来る可能性は限りなく低い。
「……」
玄関には、私と、母の靴。二足のみ。
「やっぱり」
そして、今日は雨。
足跡がついている。
一番小さい私の。
ハイヒールの特徴的な足跡–––母の。
そして、ひときわ大きい、父のもの。
蒸発しないで残っているのだから、父は私が帰ってくるちょっと前に帰って来たのだということが幼い私の頭でも分かった。
「ひよりー?」
私を呼ぶ声がする。
私は一旦、何事もなかったかのように夕飯を取ることにした。
「ごちそうさま!」
「ごちそうさまでした」
下らない話をしながら、あっという間の食事時間を終える。
「お片づけ手伝う!」
「偉い子ね〜」
食器を持ち、立ち上がる。
瞬間。
がらがらっ!と轟音が鳴り響く。
「ひより⁉︎お皿割っちゃった⁉︎大丈夫⁉︎」
「うん大丈夫、今の雷だよ」
「よかった…」
この時、私はおかしな影を見た。
雷が光った時。
ベランダの磨りガラスに、一着だけスーツが掛かっていたのだ。
こんな雷もなるような雨の日に外に洗濯物干すかなあ?というか一着だけ?
「おかーさん、洗濯物取らなくていいの?」
「陽依」
背筋が凍る。
「余計なこと気にしなくていいの。いい?」
「……!!」
私は頷くことしかできなかった。
そして、私は察してしまった。信じたくなかったけど、分かってしまった。
あの影–––あれは、お父さんだ。
膝が震え、手が冷たくなり、いやそれでもと、無理のある嘘で自分を納得させようとしていた。
–––あれは洗濯物だ、今日は昼間まで晴れていたからきっと取り忘れたんだ、そうだよね、うん、きっとそうだよ、う、ん…!
でも、そんなウソは儚く散った。
私が思っていたのとは少し違う現実を突きつけられた。
再びがらがらっと音がする–––今度は、ベランダの戸が開く音が。
「なつ……み……ッ!」
私の予想通り、首を吊った父がいた。
でも、少し安心した。
生きている。
首に巻かれたロープを、なんとか首が閉まらないように手で無理やり広げ、ぶらぶら宙に浮いた足でベランダの戸を開けたのであろう。(8年も経った今だからこんな風に説明できるが、この当時の私は当然だが父が首を吊っていたというじてんであまりにもショッキングだった)
苦しそうに、母の名を呼ぶ。
「なつみ……どうし、て、こん…なッこと…を…!ガッ…!」
体が風に揺れ、首が締まりかけたり緩んだりし、苦痛の表情を浮かべる父。
「……」
私は母が悪魔に見えた。
洗っていた包丁を右手に持ち、父を冷たい目で睨む。
「俺、が…ァッ!何を、したって、言うんだ…!あいでっ!」
突然強風が吹き、雑にベランダの天井に括り付けられていた縄が解ける。首には巻かさったままだが、吊った状態では無くなった。
「……あんた、邪魔なの」
「だから、答えろ!俺が何をした!」
「だから邪魔なの。消えて」
「待て!」
「煩い。煩い、煩い、煩い煩いうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさぁぁぁぁぁい!消えろっ、消えろっ、消えろ消えろ消えろ消えろッ!このクズ男が!邪魔なんだよ!死ね!死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!!」
「かはっ!」
近づいて来た父を殴り蹴り、首に残る縄を締め付け、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り。
逃げ出したかった。でも、恐怖と驚愕のあまり、腰が抜けて動けない。こんなの見たくない。こんなの夢だ、きっと夢だ、夢だ、ゆめ
「逃げ、ろ、ひより、今まで、ありが、とう、な…」
うつ伏せに倒され母に踏まれた父が弱々しく笑顔を私に向けてくる。
そして、
「死ねえええええええあああああっ!」
母の手–––包丁が振り下ろされ、父の首を切る、直前、
「止めてぇぇ–––––––––––––––っ!」
震える声で叫んだ。
「うるさいわねぇ!どいつもこいつも!」
「––––––––––––!」
父の首寸前で止まっていた包丁が、私に向かって投げつけられ、
「あっ……いや、きゃぁぁぁぁぁぁぁっ!」
左腕にあたり、鮮血が飛び散る。
「なつみ!お前何をし……あっ–––」
父は最後までその言葉を言えなかった。
母がポケットから出したカッターで、首を貫かれたから。
父は死んだ。
「陽依」
返り血を浴びた顔をこちらに向けてくる母–––いや、悪魔。
「見たわね……?見てたでしょ……?」
「シニナサイ?」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
無我夢中で走った。後ろからナイフが飛んできて、頰をかする。少し血が出る。
左腕の血は一向に止まる気配はない。
でも、走る。
家を出た。もう母が追ってこないとわかっても、走った。
怖い、恐い、こわい–––!
走って、走って、走って走って走って、力尽きて倒れた頃には左腕の血はもう、止まっていた。
「こわい……こわいよ…!だれか、助け、て…!」
ばたりと地面に倒れる。
空が見える。
雨は止んだ。
風も止み、雷はもうならない。
雲は一つもない。
でも、暗闇。
さっきのお母さんみたいに、黒い。
どこまでも、黒い。
––––––今日は、新月。