晩鐘
炎天下、アスファルトの上。歩きながらフライパンで炒られる食材の気分をよくよく理解した、そんな日。
毛穴という毛穴から汗が吹き出す感覚を煩わしく思いながら、乱暴にTシャツの首元で顔の汗を拭う彼女、杉崎尊は徒歩十五分程度のコンビニエンスストアへ黙々と足を進める。
現在住んでいるアパートの、長ったらしい不動産屋の話を適当にハイハイと頷いて済ませたツケによる公共料金の支払いをするためだ。前日に金を下ろしそびれていたこと、日が落ちてから引き出すと手数料がかかることなどの諸々の理由により、彼女の通っている大学が夏休みに入ってから珍しく日の高いうちに出かける次第となったのである。
自転車は先日パンクして修理に出していたので徒歩で外をうろつくのは久しぶりなのだが、これがまた暑い。昼を過ぎてからかなり時間は経っているが、この日はたまたま風もなく、ひたすらにじわじわと燻されるような暑さに苦しめられていた。サイズの小さいリュックを背負い直すと、ベルトのあたっていた位置に汗が滲んでいた。目の前では幻で作られた水たまりが近付く度に逃げていく。挙げ句の果てには種族の違う蝉の大合唱が聴覚を目一杯に刺激してくる。何の苦行だ、これは。
「(絶対アイス買う。太るとか知らない。絶対アイス食べながら帰る。死ぬ)」
このように彼女が氷菓子業界の戦略に乗せられてやるのも、夏至を過ぎてから今日まででとっくに二桁を超えている。暑さにやられた頭でそんな事を繰り返し念仏のように唱えていれば、視界の先にあったその光景にはたりと足が止まった。
目的のコンビニ、そのスタッフ専用駐車場に止められたワゴンのそばにしゃがみ込んでいる人影。
……不審者?
それにしては車の下を覗き込んだまま動こうとしない。だとすれば捜し物だろうか。彼女は自分に対してはものぐさなくせをして、他人を構わずにはいられない人種であった。
「何か探してるんですか?」
声をかけるとしゃがみ込んでいた──近付いて見たら随分と良い体格をしている──その男性が顔を上げる。これまた人の良さそうな風貌をした彼と目が合えば、ぎくりと体が強張る気配がして、それから首元を摩る仕草をしつつへらりと笑われた。
「探してないよ。車の下に猫が入っていくのが見えて、覗いてただけ」
ほら、と彼がワゴンの下を指差すのに釣られて彼女が彼の右側にしゃがみこめば、ふと匂ったのは汗と太陽に乾いた日焼け止めの甘い匂い。珍しい、と思った。思わず顔を覗き込みそうになって、慌てて車の下へ視線を向けた。
たしかに日差しを避けるために集まったらしいぶちと三毛と黒猫が、横になってくつろいでいた。人に慣れているのか、目が合っても逃げる素振りもない。成る程。見ているだけでも彼女の暑さに苛ついていた気持ちがいくらか癒された。ふと彼女は猫から視線を外し、改めて、尚も微笑ましく猫を見守る彼の様子を窺った。
襟にラインの入った卵色のポロシャツに卸したてらしい濃い色合いのジーンズという格好をした彼は、大学生である彼女よりも年上に見えた。三十代、くらいだろうか。おそらく年上なのだろうが、猫を相手に相好を崩しているせいで少し若く見える。まさか猫を見るためにこの炎天下に居座るような純朴な大人がいるなんて。
つう、と彼のこめかみを汗が伝う。茶色い革ベルトの腕時計をしている左手の甲が、それを拭っていく。彼女の視線に気付いた彼が、ぱたぱたと手のひらで自分の顔を扇いでなけなしの風を送りながら笑う。
「にしても暑いね」
「そうですね」
「ところでさ、コンビニに何か用でもあったんじゃないの」
「ああ、そうでした」
そう言いながら立ち上がる。
水道光熱費の振り込み。この短時間で吹き飛んでいた当初の目的を思い出す。そして立ち上がって、自分の姿が白Tシャツにグレーのスエットにクロックスという、女を捨てた格好だということもついでに思い出し、何とも言えない気分になる。
その何とも言えない気分のままでもいいから、冷房の効いたオアシスに飛び込んでしまえばよかった。気付けば蝉の声が遠い。しかし座り込んだまま首を傾げる彼を見下ろしながらほんの少しだけ、勿体無いな、と。そう思ったらもう口は滑り出していた。
「アイス、食べませんか」
***
口を滑らせた彼女に躊躇いなく頷いた男の名前は、タキザワと言った。
「タキはさんずいに龍で瀧、それから難しい方の澤で、瀧澤」
「この辺じゃあんまり聞かない字ですね」
「そうかな。俺の地元ならクラスに二人は絶対いたんだけど」
板チョコの挟まったモナカアイスにかぶりつきながら瀧澤は笑う。
二人はコンビニのすぐそばの道路、そこの街路樹で影が出来た縁石に腰を下ろしていた。間隔にして三十センチ、その間には充電器に繋がれたスマートフォンがあった。
彼は、東京の実家から帰って来たのだと言った。バスでここまで来たのは良かったが、迎えを呼ぶためのスマートフォンの充電が切れて困っていたそうだ。運悪く旅先向けの充電器は売り切れ、コンビニの店員に聞けば不幸にもこの近くには公衆電話がない。猫を見つけたのはその矢先で、眺めていたのは現実逃避の意味合いもあったという。そこで君に声をかけられて驚いた、と彼はまた首を摩りながら笑った。
涼しいコンビニの中へと場所を移してそんな話を聞き、彼女がリュックに常備しているモバイルバッテリーを貸すことになり、お礼という形でアイスを奢られて今に至る。
少しだけ風が出てきたせいで、むわりと喉の奥まで乾くような熱波が肌を舐めてきたけれど、アイスと彼の話に意識が向いていたからか、歩いていた時より彼女に気にした様子はなかった。
「ミコトちゃんはこの近くに住んでるの?」
「そうですよ」
「実家?」
「一人暮らしです。実家もそこまで遠くはないんですけど、大学に通うには不便なので」
「…そっか」
また、彼は首を摩っていた。
特定の感情による癖なのだろうか。彼女は最後の一口を放り込んで思案する。その仕草を注意深く見ていれば、気付いた。
「手、すごい荒れてますね」
「ん?…ああ、元々肌とか弱いんだ。それと仕事場が工場だからどうしてもね」
「へえ、」
彼は両手を開いてよく見せてくれた。
黒ずんで硬くなる、仕事をしている男の人のゴツゴツした手。実家が車の部品の下請けをしている彼女には不思議と見慣れていた。その手に触ってみれば、これまた慣れ親しんだカサついた感触がして。
…ハンドクリームとか、ちゃんと塗ればいいのに。
その時、必然と近くなった距離のせいであの日焼け止めの甘い匂いがした。数年前にセーラー服を脱いで以来、とんと色恋に無縁な日々を過ごしてきた彼女の胸が不意に疼く。会ったばかりの、それも年上の男に。
目眩がしそうだった。しかし汗で濡れた襟足に張り付く髪の気持ち悪さが、まるで漫画のような出来事と自分の乙女腐った思考回路の全てが現実だと知らしめている。
「ミコトちゃん?」
我に返る。
弾かれるように手を離した。その時ちょうど、彼のスマートフォンから充電が完了した旨を告げる甲高い音が響く。
うん、と確認して頷いた彼は立ち上がる。うんと伸びをした彼の背に広がる空は、いつの間にか青から赤へと階調している。
「帰るんですか」
絞り出した声は寂しさを隠せてすらいなくて、自分で聞いていて吐きそうなほど甘ったるい気がした。なんだこれ。なんだこれ。制御出来ない感情に困惑する。彼女を振り返った彼は困ったように笑いながらまた首を摩る。
「そうだね。帰らないとそろそろまずいかもしれない」
そうですよね。こんな時間ですし。
そんなありきたりな返しすらも声にならない。どうした、動けよ私の声帯。そう思うのに、喉奥の深いところに飴玉くらいの何かが詰まってしまっている。息も上手くできない。もう暑いどころか背筋が冷えていた。彼女自身とあっという間に移ろうその心に、理解が及ばなくて。
その姿を見て彼は少しだけ迷いながらも口を開いた。
「ミコトちゃん。あー……君はこの後、二つ先のバス停でもう一度俺に会うよ。そこで俺は自宅の鍵を失くしていて、君は探すのを手伝ってくれるんだ」
「…え?」
二つ先のバス停。彼女がこのコンビニに来る時に通った場所だ。
いったい何を言い出すんだろう。今度は楽しそうに彼はわらっている。そして首元を弄ると、チェーンに通されたシンプルなシルバーの指輪が現れる。それが何を意味しているのか分からないほど、彼女は子供ではなかった。
「俺さ、婿入りしたんだよね。今働いてるとこも、奥さんの親の会社なんだ」
だから今の俺の苗字は、
告げられた文字に、彼女の頭は一気に真っ白になった。だってそんなまさか、こんなの、ありえない。二の句も継げない彼女の様子を見て彼も頷いた。
「何がどうなってるのか俺にもよく分かってないよ。そもそも、君に会うつもりはなかった」
「でもコンビニで今日の日付を聞いて、まさかなって思ってたら、君が来ちゃったんだ。ついでに喋ってみたら、なんかもう駄目だったね。色々」
「困ってる人を放っておけないようなところとか。…君が、あんまり今と変わらないもんだからさ」
とろり、と「私」を映す彼の瞳が情愛に溶けた。さっきまでとはまるで違うその熱量を向けられて、思わず顔が火照る。熱い。そんな顔をするなんて聞いてない。
今にも破裂しそうなこの心臓は本当に私のものなんだろうか?未来の彼に恋している、未来の私のものなんだろうか?それすら曖昧だけれど一つだけ分かるのは、私は、もう既に彼に。
カラカラに乾いてしまった喉が言葉を紡ごうと震える。
「また、会えますか」
「嫌でも会えるよ。今の君が、目の前にいる俺を少しでも好きになってくれているなら」
嗚呼、それなら行かなくちゃ。
二つ先のバス停に。私が出会わなければいけない彼に会って話して、それから。
足は動く。立てる。走れる。
いてもたってもいられずに、夏の気怠さが飽和した空気を貫いて駆け出そうとして、私は辛うじて足を止めた。
「瀧澤さん」
「なに?」
「下の名前、教えてもらえませんか」
私の言葉に、私の好きだと思ったあの柔らかい笑顔で彼が告げる。咀嚼、咀嚼、咀嚼、脳みそのありとあらゆるところにその名前をしっかりと刻み込んでから頷き、彼に頭を下げて走り出した。振り返ったらきっと、彼はもうそこにいないだろう。
夢中で走る。
ダサい服だって何だって、全部全部格好つかないけど、運命なんて言葉を、突然現れたあの夏の幻を、私は信じたいと思うんだ。
二つ先のバス停。その手前で足が止まる。気管に絡みつく熱気と腹部の痛みのせいだ。夕焼けと薄暗くなってきた町の中、息を整えながら目を凝らしてバス停を見つめる。辛うじて雨がしのげる程度の屋根と、ベンチと、そこに膝をついて何かを探す青年が一人。その横顔はついぞ一緒にアイスを食べた彼と、とてもとてもよく似ていて。
少しの緊張と、期待がない交ぜになった不思議な気持ちだった。深呼吸、一歩踏み出して、圧倒的に既視感を持つその言葉を舌に乗せて吐き出す。
「何か探してるんですか?」
彼が振り返る。驚いて目を見開いた彼は、首元を摩った。
ああ、彼だ。つい笑みが零れる。
そして、この数奇で不可解な夏と出会うことはもう二度とないだろう、という確信だけが胸に残っていた。
○お題
「東京から誰かがやってきた」
○起
「炎天下、アスファルトの上。歩きながらフライパンで炒られる食材の気分をよくよく理解した、そんな日。」
○結
「この数奇で不可解な夏と出会うことはもう二度とないだろう、という確信だけが胸に残っていた。」
○指定セリフ(ニュアンス変化可)
「帰るの?」
「君に会うつもりはなかった」