婚約破棄? いいえ今夜歯磨きですわ! ~空耳令嬢、王太子の断罪を聞き間違いまくっていたら、なぜか伝説の魔獣が召喚されました~
王宮の夜会会場。
その中央で、王太子アレクサンダーは婚約者の公爵令嬢リンネに向かって、声を荒げた。
「リンネ! お前の数々の悪行、もはや看過できぬ! 俺は貴様との『婚約』破棄を宣言する!」
静まり返る会場。
周囲の視線がリンネに集まる。
リンネはしょんぼりした顔をしていた。
「『混浴』破棄、ですか? あら、楽しみにしていた温泉旅行は、中止になってしまいましたの?」
「温泉旅行など計画しとらん! 『婚約破棄』だ!」
『アレクサンダー』は声を張り上げた。
リンネは納得したように深く頷く。
「ああ、『今夜歯磨き』ですのね。 お体に障る前に、お口を清潔にされるのはとても素晴らしい心がけだと思いますわ。 …ところで、先ほどからお声を荒らげていらっしゃいますが、お名前は…『荒れるサンダー』様、とお呼びした方がよろしいかしら?」
「俺の名前は『アレクサンダー』だ!」
「失礼いたしました、『歩くサンダル』様。 夏場には重宝する、非常にフットワークの軽いお名前ですわね」
「履物ではない! 俺は人間だ!」
『アレクサンダー』は拳を震わせた。
「あら、ごめんなさい。 『あれ、腐った?』様、ですのね。 ど、どちらの食材が傷んでしまいましたの…?」
「誰の頭が腐っとるか! ア・レ・ク・サ・ン・ダーだ!」
アレクサンダーは額を押さえながら、従者から巻物を受け取った。
「言い逃れはさせんぞ! これがお前の犯した罪の数々だ。 今ここで、盛大に『断罪』してやる!」
「『漫才』してやる? …ハッ、そういうことでしたのね! では、私がボケますわ。 殿下、ツッコミをお願いいたします」
「誰がセンターマイクを立てろと言った! 断罪だと言っているだろうが!」
「まあ、そんなにお声を荒らげなくとも。 …殿下がそちらの巻物を広げたということは、それが『ネタ帳』ということでよろしいかしら?」
「これはお前の『罪状』だ!」
アレクサンダーはすでに息が切れそうになっていた。
周囲の貴族たちは、深刻なはずの修羅場が、寄席のような空気に変わっていく様子に、ある疑問を抱き始めていた。
この令嬢は、本当に間違えているのか、それとも――?
「誰か! こいつの悪事をその目で見たという『証人』を呼べ! 証人だ!」
数秒後。
夜会会場の扉が厳かに開き、純白の法衣をまとった、後光が差さんばかりの老人が、従者に支えられながらゆっくりと入場してきた。
その佇まいはまさに、世界に数人しかいないと言われる聖者そのものであった。
アレクサンダーは目を点にした。
「なぜ教会で最も尊ばれる聖人様がこちらに…?」
リンネは深く納得したように頷いた。
「ほら、『歩くサンダル』様が『聖人』を呼べとおっしゃったから、おいでくださったのではないですか。 わざわざ夜会にいらしてくださるなんて、恐れ多いことですわね」
「私は証人を呼べと言ったんだ!! 誰だ聖人様を総本山から連れてきたやつは! 頼んでない!」
アレクサンダーはその場に膝をつきそうになったが、立て直す。
「もういい、お前のような不届き者と添い遂げるくらいなら、私は『廃嫡』されても構わぬ!!」
リンネは目を丸くし、アレクサンダーの元へ歩み寄ると、心配そうにその顔を覗き込んだ。
「殿下、どちらへ『配達』されるおつもりですの? 段ボール箱に入って、他国を訪問するのでしょうか? 王太子なのに、随分とアグレッシブな移動手段をお選びになりますのね」
「私が配達されるわけなかろう! 跡継ぎの権利を失う廃嫡だ!」
アレクサンダーは喉がちぎれんばかりに叫んだ。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
彼は巻物を高く掲げた。
「これを見ろ! お前が裏で画策していた陰謀の数々、『全部証拠』は揃っているのだ!」
「『全部消去』? まあ! なかなか大胆な隠蔽工作ですわね?」
「消してない! むしろ今からお前に突きつけるんだ! これは『王命』だぞ!」
「『亡命』!? 王太子自ら国を捨てるのですか!? なぜ殿下が国を出る準備をしていらっしゃるの?」
「誰が亡命するか! 私はここに残る!」
アレクサンダーはぜぃぜぃと荒い息を吐いた。
もはや何のために怒っていたのか分からなくなってきた。
「問答無用だ! お前をしかるべき場所に連行し、処刑にしてやる! この『国賊め』!」
「『黒酢飲め』? 急に健康のお話ですか?」
リンネは感心したように、ポンと手を打った。
「まあ…確かに『荒れるサンダー』様は少々血圧が高そうですものね」
「誰が高血圧だ! あと普通に名前を呼べ!!」
アレクサンダーは、リンネには何を言っても無駄だと悟った。
「おい、宮廷『魔導士』! あいつに少し大人しくなる魔術をかけてくれ!」
隣に控えていた、彼の側近であり宮廷魔導士でもある男に命令した。
「あら、『窓お掃除』のお方? ちょうど良かったですわ。 あちらの窓の汚れが気になっていましたの」
リンネは宮廷魔導士に微笑みかける。
「私は『魔導士』です!! 窓拭き業者ではありません!!」
「まあ、そんなに謙遜なさらなくても。 丁寧に磨けば、きっとピカピカになりますわよ? 頑張ってくださいね、『窓お掃除』さん」
「窓掃除言うなあああ! 私は、国で、いや、世界で! 一番の! 魔導士だぁぁ!! なんだその目は…我慢ならん! 魔導士のプライドにかけて、お前を絶対に許さんぞ!!!」
宮廷魔導士のプライドは神界の天井を突き抜けるほど高かった。
怒りのあまり理性を失い、呪文を唱え始める。
「俺の凄さをわからせてやる! 禁忌の召喚術を喰らえええ!!」
「おい、待て! 何を召喚しようとしてるんだ!?」
アレクサンダーは宮廷魔導士にも話が通じなくなったことを悟った。
そのため、早急な原因の排除を試みる。
力を振り絞り、護衛の兵士たちに指図した。
「おい! その女を今すぐ『牢屋』へ連れて行け!」
リンネは悲しそうに目を細め、アレクサンダーの顔をじっと見つめた。
「『老眼』? 殿下、まだお若いのに、もう近くの文字が見えにくくなってしまわれたのですか? だから、そんなに遠くへ巻物を突き出していらっしゃったのね。 お労しいことです」
「私の視力はマサイ族並みだ!! 牢屋だと言っている!」
アレクサンダーは頭をかきむしりながら叫ぶ。
会話が一度も成立しない。
彼が放った言葉は、すべてリンネの耳という名の宇宙で別の物質に変換され、ブーメランのように彼自身の精神を削り取っていった。
アレクサンダーは、がっくりと床に膝をついた。
手から巻物が滑り落ちる。
「…もう、いい」
彼は力なく呟いた。
「もういい。 話にならん。 私は匙を投げる…」
リンネは息を呑み、両手を口元に当てて怯えた表情を見せた。
「『猛威』!? 殿下、今『猛威』とおっしゃいましたの!?」
「あ? ああ、もう勝手にしろという意味だ…」
「大変ですわ! 何が猛威を振るうのでしょう!? 獰猛な野生生物ですか!?」
リンネがパニックを起こして周囲の貴族たちに叫んだ。
「皆様、お逃げになって! この会場に、猛威を振るう何かが入場してきますわ!!」
その瞬間、激高していた宮廷魔導士の呪文が完成してしまった。
「ハーーーハッハッハ! 窓の汚れと共に消え去るがいい!! 出でよ、世界の破壊者!!」
夜会会場の床に魔法陣が炸裂し、天井が破られた。
硝子と瓦礫が飛び散る中、もうもうと立ち込める煙の奥から現れたのは――。
筋骨隆々、全身に無数の傷跡を持つ、魔導士の怒りによって呼び出された伝説の巨大魔獣、ベヒモスであった。
「グルァァァァァオオオオオオン!!!」
地響きを立てて咆哮する魔獣。
悲鳴を上げて逃げ惑う貴族たち。
リンネだけが
「やはり猛威が振るわれてしまいましたわ。 窓お掃除さん、窓ではなく国のお掃除をなさるおつもりでしたのね?」
と納得の表情でうんうんとうなずいている。
床にへたり込んだまま、突如目の前に現れた大災害を見上げる王太子アレクサンダーは、涙目で喉の限りの絶叫を響かせた。
「国より前に、俺たちの人生が掃除されるぅぅぅ!!!」
こうして、婚約破棄のステージは、命がけのサバイバルステージへと移行したのであった。




