7話
「知識は、届かないのかもしれない」
鯖波理比人は、図書館の奥の席で、そっとノートを閉じた。
ゼミでの敗北から三日。
彼は、誰とも話していなかった。
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図書館は、静かだった。
ページをめくる音、鉛筆の走る音、遠くの時計の針の音。
そのすべてが、理比人には心地よかった。
「ここなら、威張らなくていい」
彼は、そう思っていた。
誰にも見られず、誰にも届かず、ただ黙々と知識を積み上げる。
それは、彼にとって“安全な場所”だった。
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その日、彼は『法思想史』を読んでいた。
ホッブズ、ロック、ルソー、カント、ミル。
ページの余白には、びっしりと書き込みがある。
——“ホッブズの“万人の万人に対する闘争”は、SNSの炎上構造に似ている(仮説)”
——“ミルの自由論=クイズ研究会の理念に応用可能?”
彼は、誰にも見せない“知の地図”を描いていた。
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「それ、面白いですね」
ふいに、声がした。
顔を上げると、隣の席に座っていた女子学生が、彼のノートを覗き込んでいた。
黒縁の眼鏡。静かな目。手には『沈黙の倫理学』。
「……え?」
「“SNSの炎上とホッブズ”って、ちょっと笑いました。
でも、たしかに“自然状態”っぽいかも」
理比人は、言葉を失った。
——“俺の知識が、届いた?”
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彼女の名前は、三谷しおり。
文学部の2年生。
「図書館が好きで、よくここにいるんです」と言った。
「鯖波くんは、法学部?」
「はい。憲法が好きです。あと、クイズも」
「クイズ?」
「はい。知識で世界を変えたいと思ってます」
「……ふふ。いいですね、それ」
彼女は、笑った。
理比人は、少しだけ頬が熱くなった。
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その日から、理比人は図書館で彼女とよく会うようになった。
会話は多くない。
でも、彼女は時々、彼のノートを覗いて「それ、面白い」と言ってくれた。
「知識って、誰かに届くと、ちょっと嬉しいですね」
ある日、彼女がそう言った。
理比人は、黙って頷いた。
その言葉が、胸に残った。
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帰り道。
理比人は、スマホのメモ帳に今日の“成果”を記録していた。
• 図書館:静寂の中の出会い
• 三谷しおり:文学部2年
• “知識は、届くと嬉しい”=名言(保存)
「ふふ……俺の知識、少しだけ誰かに届いたな」
その顔は、どこか誇らしげで、どこか柔らかかった。
でも、彼は満足していた。
誰にも気づかれなくても、俺は俺を知っている。
彼は今、威張っている。静かに、誰かと並んで。
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ちなみに、三谷しおりは、友人にこう言っていた。
「鯖波くん? うん、ちょっと変わってるけど、真面目で面白いよ」
「なんか、知識で世界を変えたいって言ってた」
「……そういうの、ちょっと好きかも」
理比人は知らない。
自分が、少しずつ“誰かの記憶”に残り始めていることを。
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こうして、鯖波理比人の“威張りサバイバル”は、また一歩進んだ。
彼の知識は、まだ誰にも届いていない。
でも、彼は信じている。
いつか、世界が俺に追いつく日が来ると。
彼は今、威張っている。誰よりも静かに、誰よりも優しく。




