5話
「恋とは、認知の偏りである」
鯖波理比人は、図書館の哲学書コーナーでそう呟いた。
棚に並ぶ『愛と自由』『恋愛心理学入門』を眺めながら、彼は思っていた。
——俺は、恋をしているのかもしれない。
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きっかけは、クイズ研究会の先輩だった。
2年生の女性。名前は、小野寺ひかり。
早押しのスピードはもちろん、解説の簡潔さ、そして何より“人に伝える力”がすごかった。
「“カレーの語源は?”」という問題に、彼女はこう答えた。
「タミル語の“カリ”。南インドの煮込み料理が語源です」
——それだけ。
それだけなのに、部室が「へえ〜」とざわついた。
理比人は、震えた。
「俺の解説、もっと長かったのに……なぜ……?」
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それ以来、理比人は彼女を意識するようになった。
彼女の発言にメモを取り、彼女の服装に“知的要素”を探し、
彼女の笑い声に“意味論的構造”を見出そうとした。
「これは……恋か?」
彼は、スマホのメモ帳に書いた。
——“恋=伝達欲求の拡張形態(仮説)”
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ある日、部室で彼女が言った。
「来週、初心者向けのクイズ講座やるんだけど、理比人くんも何か話してみる?」
理比人は、即答した。
「はい。僕、話します。“憲法とクイズの親和性”について」
「……え?」
「クイズとは、知識の断片を問うもの。憲法とは、社会の根幹を定めるもの。つまり——」
「うん、ありがとう。じゃあ、5分くらいでお願いね」
理比人は、心の中でガッツポーズをした。
——“俺の知識、彼女に届くチャンスだ”
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講座当日。
理比人は、スライドを用意していた。
タイトルは「憲法第13条とクイズの倫理性」。
内容は、“クイズにおける個人尊重とは何か”という壮大なテーマだった。
彼は、語った。
「クイズとは、競技であると同時に、知識の共有である。
その根底には、憲法第13条——“すべて国民は、個人として尊重される”という理念がある。
つまり、早押しの速さよりも、答えの意味を伝えることが——」
「……理比人くん、あと1分ね」
「はい。まとめます。つまり、僕は——“知識で人を尊重したい”のです」
部室は、静かだった。
誰も笑っていなかった。
でも、誰も馬鹿にしていなかった。
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講座後、彼女が声をかけてきた。
「理比人くん、すごいね。なんか……熱かった」
「ありがとうございます。僕は、知識で世界を変えたいと思ってます」
「……うん。面白かったよ」
その“面白かった”が、彼には“心に届いた”と感じられた。
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帰り道。
理比人は、スマホのメモ帳に今日の“成果”を記録していた。
• 講座:完遂
• スライド:思想的成功
• 彼女の反応:“面白かった”=感銘(推定)
「ふふ……俺の知識、ついに彼女に届いたな」
その顔は、どこか誇らしげで、どこか寂しげだった。
でも、彼は満足していた。
誰にも気づかれなくても、俺は俺を知っている。
彼は今、威張っている。恋の定義を更新しながら。
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ちなみに、小野寺ひかりは、後輩にこう言っていた。
「理比人くん、すごいよね。なんか……一途で、かわいい」
「え、あの条文の人?」
「うん。でも、ああいう子って、なんか放っておけないよね」
理比人は知らない。
自分が、少しずつ“かわいい枠”に移行しつつあることを。
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こうして、鯖波理比人の“威張りサバイバル”は、また一歩進んだ。
彼の知識は、まだ誰にも届いていない。
でも、彼は信じている。
いつか、世界が俺に追いつく日が来ると。
彼は今、威張っている。誰よりも静かに、誰よりも強く。




