23 【変わらない、でもかけがえのない朝】
「さぁさぁ、起きて! 起きて、謙!」
朝の光がカーテンの隙間から差し込む中、元気な声が部屋中に響き渡った。
まいが布団の端をめくりながら、身を乗り出すようにして俺の顔をのぞき込んでくる。
「……うぅ……」
俺は重たいまぶたを無理やり開き、ぼんやりとした視界の中でまいの顔をとらえた。
その目は、ぱっちりと覚醒していて、少しだけ睨んでいるようにも見えた。
「謙、今日、純一さんたちが来るんでしょ! 早く起きて、支度しなきゃ!」
その声に、ようやく“今日”という現実が少しずつ頭に入り込んでくる。
「あぁ……そうだった……」
俺は半分寝ぼけたまま、体を起こすと、まいに背中を押されるようにして洗面所へ向かった。
「いいから、まず顔洗ってきなさいっ!」
背後からは、朝から全開のまいの声。
寝起きの頭にはちょっと強すぎるぐらいだったが、不思議と嫌な気分にはならなかった。
蛇口をひねり、水の冷たさでようやく目が覚めていく。
鏡に映る自分の顔は、まだ少しぼんやりとしていて、髪も跳ねたままだった。
昨夜──
急に純一から電話がかかってきた。
「明日、ちゃんと話そう。4人で、これからのことを」
あの声は真剣で、どこか温かくて、それを聞いた瞬間、俺の胸の奥にほんの少しだけ希望の光が差した気がした。
そんな電話のことを思い出していると、後ろから再び声が飛んできた。
「もぉ〜〜謙!! 何ダラダラしてるの! まだパジャマじゃん! ほんとに子どもみたい!」
まいの声が洗面所まで届いてくる。
その声は呆れ半分、でもどこか楽しそうだった。
俺はタオルで顔を拭きながら、苦笑いをこぼした。
眠気はまだ完全には抜けていないけれど、こうして朝から怒鳴られていると、なんだか元気も湧いてくる気がする。
──俺の隣には、今、まいがいる。
当たり前のようで、決して当たり前じゃないこの朝が、なんだか少しだけ、特別な気がしていた。
洗面所から戻った俺は、まだ少し頭がぼんやりしていた。
朝の冷たい水で目は覚めたものの、どこか気の抜けたような気分のまま、リビングのソファにどっかりと腰を下ろした。
「ふぅ……」
ため息ともつかない息を吐きながら背もたれに寄りかかる。
そのままもう少しゆっくりしていたい――そんな甘えが、つい顔に出ていたんだろう。
すると、すぐさまキッチンの方から声が飛んできた。
「謙っ! なにのんびり座ってるのっ! 着替えは!?」
その声には、明らかに焦りと苛立ちが混じっていた。
「早く着替えてって言ったよね!? 聞いてたよね!?
まさか……謙、私が言ってること理解してなぁ〜い!?!?」
ちょっと怒り気味のまいの声が、部屋の中に響き渡る。
俺は、咄嗟に顔を上げてまいの方を見る。
エプロン姿でキッチンに立つ彼女は、手を止めてこちらをじっと睨んでいた。
「……ごめん、ごめん!」
俺は慌てて立ち上がり、照れ笑いを浮かべながら両手をひらひらと振る。
「今、着替える! 本当に今!」
まいの口元が、少しだけ和らいだように見えた。
俺はそのすきに、軽く頭を下げて部屋の奥へ向かう。
後ろからは、まだブツブツと文句を言っている声が聞こえてきた。
「ほんっとにもう……人がバタバタしてるのにさぁ……」
でもその声は、どこかあたたかくて、俺の背中を押すようだった。
シャツを選びながら、俺はふと笑みをこぼす。
朝からまいに小言を言われているというのに――いや、むしろ、だからこそだろうか。
“まいの声がある朝”というのは、
今朝は慌ただしいけれど、それが今の俺たちの“日常”になってくんだなぁ〜
そしてそれが、どれだけ幸せなことか……少しずつ、俺は実感していた
鏡に映る自分に「しゃんとしろ」と言い聞かせて、俺はシャツのボタンを留め始めた。
ようやく着替えを済ませてリビングに戻ると、まいがちょうどキッチンから顔をのぞかせた。
「おっ、やっと出てきたね~。
……って、遅っっっ!!」
両手にトレーを持ったまま、まいが怖い目で俺をにらむ。
口調は呆れたようでいて、どこか楽しんでいるようにも聞こえた。
「いいから、早く!……まったく、もぉ〜
早く座って!」
母親の説教みたいに、でもまいの目は少しだけ柔らかかった。
彼女はトレーをダイニングテーブルに置き、コップに注いだ温かい紅茶と、トーストと目玉焼きの載った朝食プレートをそっと並べる。
「はい、これ食べて。急がなきゃ、もうすぐ純一さんたち来ちゃうんだからね」
「はい……ありがとう」
俺はテーブルに腰を下ろしながら、まいが目の前に置いてくれた朝食をじっと見つめた。
目玉焼きは半熟で、黄身がちょうどよくとろけている。
トーストには、バターがほんのり溶けて香ばしい匂いを立てていた。
「……これ、もしかして俺の好みに合わせた?」
ふとそんなことを尋ねると、まいはちょっとだけ目をそらして、そっけなく答えた。
「別にぃ〜……たまたまだし。そんなの普通でしょ〜」
「ふぅん……そうか。ありがとな、まい
それにしても……たまたまにしては、ちょっと出来すぎてる気がするけどなぁ〜」
謙が意地悪そうに笑いながらからかうと、まいは小さく肩をすくめた。
「……ほんとにもう、うるさいなぁ〜〜」
その言い方は呆れたようでいて、どこかくすぐったそうで、照れくさい気持ちを必死で隠しているのが伝わってきた。
「ありがとう。」
素直にそう言うと、まいはようやく振り返って、ふいに目をそらしながらも小さな声で
「……だったら、黙って食べてよ」
頬がほんのり赤く染まっていた。
その照れ隠しの言葉に、謙の笑みが少しだけ深くなる。
「うまい!」そう言うとまいは優しく俺を見て微笑んでいた……
何気ない朝の食卓に、小さな優しさと、確かな絆の気配が、そっと漂っていた。
「ねぇ、謙」
「ん?」
まいが、湯気の立ちのぼるカップを両手で包み込みながら、そっと口を開いた。
「今日は、ちゃんと伝えようね。……私たちの気持ち……」
その言葉はとても静かだったけれど、まいの中で何度も反芻された末に絞り出されたのが伝わってきた。
迷いや不安は、きっとまだ消えていない。
それでも、逃げずに“伝えたい”とまいは思ってくれている──
それが、俺には何より嬉しかった。
「……そうだな」
俺は紅茶をひと口飲んでから、カップをそっとテーブルに置いた。
「この生活を……続けていくためにも。
純一と、ちゃんと話さないとな」
うなずいたまいの表情は、ほんの少しだけ引き締まって見えた。
でもその瞳には、揺るぎないものが宿っていた。
「うん……」
それだけ言うと、まいは視線をカップに落とし、少し紅茶をすする。
俺も続くように、黙ってカップに口をつけた。
ふたりの間に会話はなくなったけれど、不思議と静寂は心地よかった。
言葉がなくても伝わるものがある。
それはきっと、同じ方向を見ようとしているふたりだからこそだ。
テーブルの上には、朝の光がやさしく差し込み、カップの縁をほのかに照らしていた。
紅茶の香りがほんのり漂い、まるで時間がゆっくりと流れているように感じる。
過去の重さも、これからの不安も、すぐそこにある。
けれど、この瞬間だけはそれらに縛られずに、ふたりで深呼吸をするように、静かに時を分け合っていた。
謙とまい──
誰に説明するわけでもなく、ただ互いの心を少しずつ確認し合うように。
この短い、けれど確かな“朝の約束”が、ふたりの絆をそっと確かめる時間になっていた。




