◆熱を帯びる
「信じられません!!」
これでもか、とばかりに力任せにテーブルを叩く。じん、と手のひらに痛みと熱が伝わるけれど、そんなもの、シェリル様の心の痛みに比べたら。
シェリル様の気持ちを想像して、唇を噛んだ。
「……リーチェ。落ち着いてちょうだい」
「落ち着けません!」
「いいのよ。エレフィス様が他の婚約者候補の方と仲良くしていても、同じ候補者である私がとやかく言える権限はないわ」
私の手をそっと握ってくれるシェリル様は、目を細めて微笑んでいる。
でも、私には分かる。その薄紅色の瞳は、悲しげに揺れていた。
婚約者候補選抜の知らせを受け取ったとき、シェリル様は緊張した面持ちで何度も手紙に目を通していた。
そして手紙を伏せ、真剣な眼差しを私に向けたのだ。
―――『リーチェ、私はエレフィス様の婚約者となることを望んでいるわ』
凛とした声で、打ち明けてくれた恋心。
まさか教えてもらえるとは思わず、私は感激で静かに涙を流した。
そして、全力でシェリル様の力になることを誓った。
そう、誓ったのに!
先程の光景が脳裏に蘇り、拳を握る。
エレフィス殿下の腕に、ピッタリと体を寄せていた一人の女性。
婚約者候補だろうけど、候補者の段階であんなに近付くなんて、普通ならあり得ない。
固まったように動かなくなったシェリル様の後ろ姿を見て、私は慌てたようにこちらを見るエレフィス殿下と、その後ろでしまったと顔に書いてあったゼレン様に、全力で蔑む視線を送ったのだ。
そして近くの衛兵に声をかけ、シェリル様を護るように挨拶もせず立ち去り、今は部屋で荷解きをしている最中である。
「……やっぱり、挨拶せずに来てしまって失礼だったかしら…」
「いえ。あのベタベタくっついていた方を見たあとじゃ、私が横からとんでもない毒を吐く自信がありましたので。……それにシェリル様も、落ち着いて殿下に挨拶など出来なかったはずです」
「……ええ…そうね。ここまで連れてきてくれてありがとう、リーチェ」
弱々しく笑うシェリル様を見て、心が痛む。
口に出すと不敬になるので、心のなかでエレフィス殿下を盛大に罵った。
殿下も、腕を振りほどいてシェリル様の元へ来てくれれば良かったのに。……そんな特別な対応はまだ出来ないと、分かってはいるけれど。
不意に、扉を叩く音が聞こえ、シェリル様と顔を見合わせた。
はい、と私が返事をすると、扉の向こうから遠慮がちに声が掛かる。
「……エレフィス王太子殿下付きの護衛騎士、ゼレン・アーヴァーです」
「………」
ドキリ、と心臓が跳ねた。
シェリル様が小さく頷くのを見て、静かに扉を開ける。
灰色の瞳と視線が絡み、ゼレン様は悲しげに目を伏せた。そしてすぐにシェリル様へ向き直ると、片膝をつき頭を下げる。
「シェリル王女殿下、先程はご挨拶も出来ず、大変申し訳ございませんでした。王女殿下のご来訪、心より歓迎いたします」
「……ありがとうございます。どうか、お立ちになって下さい」
シェリル様は気持ちを既に切り替えたのか、王族としての立派な立ち居振る舞いで、ゼレン様へ言葉を返す。
「私は気にしていません、とエレフィス殿下へお伝え下さい。そして、三日後の試験は、精一杯努めさせて頂きます、とも」
「かしこまりました」
再び頭を下げたゼレン様は、そのまま背を向けようとして―――扉付近にいた私にだけ聞こえるような小さな声で、呟いた。
「……あとで、時間を下さい」
切なげに、絞り出すような声音に、私は目を丸くしてゼレン様の背中を見送った。
◆◆◆
ああもう、どうしてこんなに気になるのかしら。
『あとで』がいつのことなのか分からず、私はモヤモヤを抱えたまま部屋の整理を終えた。そして扉の外にいた護衛にシェリル様を任せ、一人見慣れない城内を歩いている。
長い廊下は、大きな窓から明るい日差しが注いでおり、吹き抜ける風が暑さを和らげてくれていた。
忙しなく衛兵たちが動き回っているのを見ながら、当てもなく足を進める。
あのままモヤモヤを抱えているよりは、とシェリル様の承諾を得て出てきたはいいものの、どうすればゼレン様に会えるのか。
恐らくエレフィス殿下の護衛をしているだろうけど…ただの侍女が一人で近付くわけにもいかないし。
黙々と考え事をしながら廊下の角を曲がったところで、誰かにぶつかった。
「も、申し訳ございませ―――…」
「リーチェ?」
慌ててぶつけた鼻を押さえながら顔を上げると、会いたかった人物がそこにいた。
「ゼ、レン…様……」
「どうして一人で……、でも都合が良かった。こちらに来て下さい」
スッと身を翻し、ゼレン様が周囲を気にしながら近くの部屋に入る。私も人の目が向いていない内に素早く部屋へ入り扉を閉めた。
そこは物置部屋のようだった。と言っても綺麗に整理整頓されており、不快感は無い。
ゼレン様は振り返ると同時に頭を下げた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
「………」
「言い訳がましいですが、アレは想定外の出来事でした。決して、エレフィス様が心変わりしたわけではありません」
綺麗なつむじを、じっと見つめる。
エレフィス殿下にそのつもりが無いことは、あの表情を見れば分かった。隣の女性は全く気付いていないようだったけれど。
でも、だからといってシェリル様を傷つけたことに変わりはない。
「……ゼレン様に謝っていただくことではありませんし、謝る相手も違います。頭を上げて下さい」
遠回しに、エレフィス殿下に直接シェリル様へ謝って欲しいと告げる。
言葉の真意に気付いたゼレン様は、頭を上げると困ったように微笑んだ。
「エレフィス様はすぐにシェリル王女殿下を追いかけようと致しました。……が、どうにも令嬢が腕を離してくれず…先に私が謝罪に向かったのです」
「あの女性は、婚約者候補の方ですよね?」
「はい。我が国の宰相の孫娘、ルイーゼ・ツェラー様です」
「………宰相の孫娘…」
あそこまでベタベタと近付くのだから、どこかの王女様かと思っていたら。何だかコネで婚約者候補を勝ち取ったとしか思えない。
荒んでいた心が、スッと凪いでいく。
彼女には悪いけれど、シェリル様の相手には取るに足らないわ。
「ゼレン様はお忙しいのに、シェリル様の為にこちらまで足を運んでくださってありがとうございます」
「……いえ。俺が来たのは、どちらかといえば自分の為です」
眉を下げ、ゼレン様が私を見る。
「あの時の、貴女の軽蔑した眼差しが…思った以上に刺さりまして」
「え……あ、あの。それはすみませんでした」
「貴女に嫌われたのではと、必死に弁解に来たのです」
情けないですね、と首を振るゼレン様の言葉に、体温がじわりと上がる。
私に、嫌われたくなくて、わざわざ?
「き、嫌ってなどいません」
「そうですか。……安心しました」
ちょっと待って、本当に嬉しそうに笑うのはやめて欲しい。ただでさえ顔が良いのに、直視出来なくなって困る。
思わず視線を逸らしながら、もうこの場を立ち去った方がいいのでは、と思い始めた。
それでも動けないのは、彼と……ゼレン様と、ようやく会えて話せたこの時間が、簡単には手放せないからだ。
前回アルテシア国の城下街で会った時、お互いの主を讃えていた時間は、私にとってとても有意義なもので。
それから何度も続いた手紙のやり取りは、いつの間にか欠かせない楽しみになっていた。
私がシェリル様の幼少期から仕えていたように、ゼレン様もエレフィス殿下が幼い頃から仕えていて。姉のような気持ちで、シェリル様の素晴らしさを語る手紙と同様に、彼の返事もまた、兄のような気持ちで殿下のことが綴られていたのが何だか嬉しかった。
ぽつりぽつりと、自分のことについて書き始めたのは、ゼレン様自身のことを、もっと知りたいと思ったからだった。
そんな風に思ったことに、少し驚いた。でもゼレン様は、今まで接したどの男性とも違うのは明確で。
―――シェリル様を敬愛する私を、決して否定したりしない。
視線を上げると、ゼレン様はじっと私を見ていた。その瞳に吸い込まれそうになり、また体温が上昇する。
「………」
「………リーチェ?」
「……ええと、……ゼレン様はお忙しいですよね?私もそろそろシェリル様のところへ…」
戻ります、と半ば無理やり背を向けると、扉に手が届く前に、腕を掴まれる。
驚いて振り返れば、焦った様子のゼレン様が目に映った。
「す、すみません急に腕を掴んだりして」
「……いえ…どうされましたか?」
「せっかく貴女に会えたのに、ちゃんと話せずにこのまま別れるのが……嫌で」
優しく掴まれた腕から、熱が伝わる。
顔が真っ赤になっている自信がある。でも、今度はその灰色の瞳から目が逸らせない。
「………わ、わ、私もゼレン様にお会いして、お話したかったです」
「……リーチェ、」
「ここここれ以上は私の身が持ちません!ではまた!失礼しますっ!!!」
ゼレン様の手を振りほどき、勢いよく部屋から飛び出した。両手で頬を押さえると、それはもう熱かった。
私の言葉に嬉しそうに目を細めていたゼレン様を思い出しながら、走り出したくなる気持ちを抑え、足早にシェリル様の元へと戻った。
私を見たシェリル様は、こてんと首を傾げる。
「あら、リーチェ。顔が真っ赤よ?」
じわじわと侵食してくる熱を逃すすべを、私は知らなかった。