OL桑原さんの言い返し ー言い返せない人ー
自分の弱さが嫌いだ。
言いたいことも言えずに、周りの空気を読んで我慢ばかりする。
周りに優しくしても、優しさが返ってくることは無い。利用されてポイ。
そんな扱いをされる度に、自分はゴミなのではないかと思わせられる。悲しくて、悔しくて、私を傷つけた人達に怒りが湧いてくる。それでも、言い返すことなんて出来なかった。
「桑原さん! どういうことなの!? この資料、全く出来てないじゃない!」
田中さんのヒステリックな声が職場内に響き渡る。周りが気まずい顔をする中、桑原さんは席を立ち上がり、田中さんのデスク前まで移動した。
「何か不備がありましたか?」
「何で三ヶ月分のデータしか載せてないの!? 半年分をまとめておかないといけないのに、バカじゃないの!?」
田中さんが手でバシバシと資料を叩きながら、桑原さんを責め立てる。私も周りも苦い顔をして黙ったまま状況を見守っていた。
「本当に役立たずね! 今までどういう生き方をしてきたんだか!」
田中さんは「作り直し」と言って、桑原さんの足元に資料を投げ捨てた。桑原さんは俯いて、散らばった資料を拾い集める。田中さんは意地の悪い笑みを浮かべて桑原さんを見下ろしていた。
田中さんは、この職場のお局様だ。
新人を虐めて楽しむ悪癖があり、この人のせいで今まで多くの社員が辞めてしまった。田中さんを辞めさせるように上に言う人もいたが、会社は「簡単に辞めさせられないから我慢してくれ」と言う。我慢するか、辞めるかの二択しかなかった。
桑原さんも泣くかと思いきや、立ち上がって強い眼差しで田中さんを睨みつけた。
「どういう生き方をしてきたのかは、私があなたにお聞きしたいですね」
「……は?」
「私は事前に、何ヶ月分のデータをまとめる必要があるのかを田中さんに確認しましたよね? 私は指示通りに仕事をしました。覚えていらっしゃらないんですか?」
言外に”頭大丈夫ですか?”と仄めかしているように聞こえた。今まで言い返されたことのなかった田中さんは狼狽える。田中さんがターゲットにするのは、大人しくて弱そうな人だけだから。
それに、桑原さんの言っていることは本当だった。私もそう指示されていたのを聞いていたから。引き下がると思いきや、田中さんのメンタルは流石に強かった。
「指示通りにしか仕事が出来ないの!? 普通、考えたらわかるでしょ!?」
馬鹿を言うな。
多分、田中さん以外の全員が思っているだろう。必要なデータを簡潔にまとめなければいけない資料だ。余剰な物を載せて情報量を増やすべきではない。
「この前だって、あんたが出来てるって言ってた請求書の作成、全く出来ていなかったわよね!? そのせいで、この私が雑用仕事をしたんだからね! 私みたいに出来る人間の時間を奪っておいて、何様のつもり!?」
「締切日までに提出された分の仕事は終わらせていました。田中さんが仰っている”出来ていない分”は、あなたが遅れて提出した物をご自分で処理しただけでしょう? それに、私がやりましょうかと尋ねた際、あなたは自分がやるからいいと言って断りましたよね? それで私を責めるのは意味がわかりません」
田中さんの暴論に、桑原さんが即座に正論で返す。
「何よ! あんた、この前入ってきたばかりなのに生意気なのよ!! 大人しく、上の言うことを聞いていればいいのよ!!」
「私は、あなたの言いなりになる為に存在しているわけではありませんから。私が何かおかしいことを言っていますか? 怒りたいが為に、言いがかりをつけて怒ってきてるのはあなたでしょう?」
田中さんの顔が憤怒で真っ赤に染まった。田中さんはデスクをバンと叩いて立ち上がる。流石にこれ以上は不味いと感じ、私も慌てて立ち上がった。
「く、桑原さん。午後一で仕事を頼みたいから、少し早いけど今から休憩に行って来てくれる?」
私が震えながらも少しだけ声を張り上げて言うと、桑原さんは振り返って「はい」と返事をした。田中さんは桑原さんをギロリと睨んだ後、ドカリと椅子に座る。
「あんたなんかクビね」
「あなたにその権限はないでしょう?」
捨て台詞を拾われた上に言い返されて、田中さんの顔がこれ以上にない程に醜く歪む。私は心の中で悲鳴を上げて、ヒヤヒヤしながら桑原さんに早く出て行くように目で訴えた。
桑原さんが退場したが、職場内の雰囲気は悪いままだ。辟易としながらも業務を再開しようとした時、田中さんの大袈裟な溜め息が聞こえた。
「あんな新人をのさばらせているのも、課長が不甲斐ないからよ。上下関係の大切さを、一言ガツンって言ってわからせてやれば良いのに!」
隣の席の人に愚痴をこぼしたつもりなのだろうが、本人にまで聞こえている。田中さんが言う課長は私のことだ。私は田中さんより四年遅く入社したのに課長を任されている。それを目の敵にしているようで、事あるごとに私のことを言葉と態度で攻撃してくるのだ。
昼休憩の時間になり、私は痛む胃をさすりながら会社内にある食堂へ向かう。
胃に優しそうなうどんを注文した後、良い席が空いていないかと食堂内を見渡す。隅の方の窓際の席に桑原さんがいた。桑原さんは持参したお弁当を食べ終えているようで、のんびりと本を読んでいる。
(あの恐ろしい田中さんの怒り顔を見ていながら、平然と休憩しているなんて……。メンタル超合金で出来ているの?)
私の視線に気づいたのか、桑原さんが顔を上げてこちらを見る。ぺこりと会釈されて、私も会釈を返した。
(……田中さんの言うように、ここで私が桑原さんに一言言っておくべきなのかな?)
業務が円滑に進むように、桑原さんに我慢するように言うべきか。
桑原さんは何も間違っていないとわかっている。だが、田中さんが不機嫌になるのは怖い。
私は重たい気持ちを抱えたまま、桑原さんがいる席まで移動する。
「桑原さん。ここいいですか?」
「はい。大丈夫ですよ」
私は桑原さんの向かいの席に座る。座ったものの、どう話せばいいのかわからない。手に持った箸をうどんのつゆの中で泳がせながら考えていると、桑原さんが先に口を開いた。
「課長、先程はありがとうございました」
「え?」
「私が作り出してしまった険悪な雰囲気を変えようとしてくださいましたよね。すみません。お心遣い、ありがとうございます」
桑原さんは丁寧に謝罪とお礼の気持ちを込めて頭を下げる。
先程のやり取りだけを見ると、桑原さんは傍若無人に見えるが、そんなことはない。
二ヶ月前に異動してきたばかりだが、仕事の習得も早く、即戦力になってくれて助かった。真面目で丁寧に仕事をするので、私も他の人達も良い印象しかない。田中さんは、それが面白くなかったのだろう。
「こちらこそ、庇えずに申し訳ないです」
私は情けない気持ちになった。
上司だというのに、田中さんに言い返せたことは一度も無い。理不尽なことに耐えて、毎日田中さんのご機嫌を伺って媚びへつらっている。そんなことで自分を守ることしかできなかった。
「桑原さんは強いですね。あの田中さんに言い返すなんて。……その、怖くないんですか?」
「怖いですよ。人に喧嘩を売るんです。怖くないわけがないです」
桑原さんは苦笑しながら言った。予想外の言葉に私はポカンとする。
「それなら、どうして……」
「怖くても、私は我慢したくないんです。言葉の暴力で殴られたら、言葉の暴力で殴り返す。周りの方には申し訳ないですが、私は私の為に言い返すことを決めたんです」
(何それカッコイイ)
私なんかには到底言えないセリフだ。ドラマで例えると、桑原さんは田中さんという悪役に立ち向かう主人公のように思えた。
「いいな……」
桑原さんが羨ましい。私はただの脇役だ。いや、もしかしたら取るに足らない背景の一部なのかもしれない。
あまりの情けなさに堪えきれず、私は心情を吐露する。
「私、いつも嫌なことを我慢してばかりで言い返せなくて。田中さんにも、他の人にも。いつも周りの空気ばかり気にしてしまって。本当、ダメですよね……」
「そんなことはないと思います」
「いいんですよ。私、わかっているんです。こんな弱気な人間だから、ダメダメなんですよね」
桑原さんが同情してくれたのに跳ね除けてしまう。
人との衝突を避ける為に、妬まれない為に、自分を卑下する癖がついたのはいつからだっただろう?
自分を卑下すればするほど情けない気持ちになって、周りから見下されるのに、立ち向かうのが怖くてやめることができなかった。
「ダメな人間ではないです。ただ、酷い人だとは思いますね」
「え?」
予想外のことを言われて、私は言葉を失う。酷い人なんて、今までの人生で一度も言われたことがなかった。何かそう思われることをしたのかと、小心者の心臓がドクドクと騒ぎ出す。
「自分自身を貶めるのは、一番酷い行為だと思います。謙遜だとしても、今まで一生懸命生きてきた自分を否定するのは、ご自身に対してとても失礼です」
私はギュッと唇を噛み締めて拳を握る。桑原さんの言葉は、とても綺麗で優しい。それ故に腹立たしくもあった。
「私は、桑原さんみたいに強くないんです。桑原さんにはわかりませんよ。弱い私は、言い返すことができないんです。我慢することでしか生きられない」
強いなら反抗できただろうが、私は弱い。
反抗して返り討ちにあって、ますますボロボロにされたらと思うと怖い。
「別に言い返せなくてもいいと思いますよ。それに、課長の選択が悪い手段だとは言えません」
一体何を言っているんだと、私は桑原さんを睨みつける。我慢するのが悪い手段ではないと、どうして言えるのか。桑原さんは苦笑する。
「課長は、いつも職場内が平和であるように気を配ってくださいますよね。私にも他の人にもいつも優しくしてくれて。揉め事が起きたら、場を収めようと働きかけてくださいますし。課長が我慢したのは、ご自分や周りを守るためなのではありませんか?」
「それは……。そんなことしかできないからで……」
「私は凄いことだと思います。それに、言い返すことが正しい訳でも、我慢することが間違いでもないんです。そんなものは、ただの選択肢でしかありません」
「選択肢?」
「はい。やり返すのも選択の一つ。狂人のような笑顔で相手に恐怖を与えたり、用意周到に周りを味方につけたり、時には一目散に逃げることも自由です。皆、自分ができる最良の選択をしているだけですよ」
私の中にあった桑原さんへの苛立ちがキュッと萎み、代わりに自己嫌悪の気持ちが心に覆い被さってきた。
「……私は自分の選択が最良だとは思えません。生きづらさを感じますし、後悔ばかりしています」
「自分の選択を自分が否定してばかりいたら、生きづらくなるのは当然だと思います。人から攻撃された上に、自分を攻撃しているようなものです。後悔するのが嫌なら、自分がした選択が最良だったのだと、自分が肯定し続けていればいいです」
桑原さんは言い切った後、「うどん伸びちゃいますよ」と言う。私は放置していたうどんを口に運ぶ。程よい温かさが胃に優しく沁みた。
うどんを食べ進めていると、桑原さんがトートバッグを手に持って席を立つ。
「私はお先に失礼しますね」
「はい。急にすみませんでした。お昼休みなのに、人生相談みたいなことをしてしまって……」
思い返せば、かなり恥ずかしい。いきなり弱音を吐いて、桑原さんにカウンセラーみたいなことをさせてしまった。
「いえ。大丈夫ですよ。私もご迷惑をおかけしていますし」
「でも、悪いことを」
「それでは、お互い様ということで」
桑原さんは優しく微笑む。
「自分が生きやすいように生きたらいいと思います。人生に絶対的な正解も間違いもないですから」
桑原さんは一礼して食堂を去っていった。
その背を見送った後、私は食堂の窓へ目を向ける。よく晴れた青い空が広がる景色の中に、疲れた顔をした自分の姿が映っていた。
優しさも気配りも自分が勝手にした事とはいえ、私を傷つけてきた人たちのことを許せなかった。でも、本当に許せなかったのは、そんな酷い扱いに甘んじている自分自身だった。
どうして自分だけが空回っているのか。嫌な役割を押し付けられても断らずに、笑ってやり過ごそうとしているのか。
弱い自分を責めてばかりで、認めたことは一度もなかった。人には優しくするのに、自分のことはいつも厳しく責め立てていた。
(私、頑張っていたんだな……)
理想とは程遠いが、自分が出来る中で一番良いと思う選択をしてきたのだ。
私はこれからも言い返すことは出来ないかもしれない。
ドラマの登場人物のように、今までの生き方を劇的に変えることは難しい。でも、今までの自分の弱さや頑張りを少しずつ認めてあげたいと思った。