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人肌並みに調整された温水プールは、大きな口で人々を飲み込んでいた。人々は三三五五に各々で遊んでいる。俺は、リンダさんが先導するトレイシーちゃんのおっかなびっくりな泳ぎを遠くから、何をするわけでもなく、ただ只管に眺めている。そういえば今俺はプールに来ているわけか。前世では縁遠い場所だったなと、あたりを何ともなしに見渡してみる。そこには、確かにキラキラした人が大勢いて、本当にここにいていいんだろうかと不安になった。刹那、声が降ってきた。
「おいマイケル!何のんびりしているんだ!お前も泳げ!」
声の主はトレイシーちゃんだった。泳げるようになったのか胸を張って、鼻は息巻いている。
いえいえ、俺はこの木陰が一番楽しいのでね、ここにいさせてもらいますよ。
「そんな噓言ったってしょうがないぞ。どうせお前は泳げないからそこにいるに違いない!どうだ!当たっているだろう!」
トレイシーちゃんは再度胸を張る。
いえいえそういうことじゃありません。
「ほう、あくまでしらを切るか。だったら、あそこのプールで泳いでどっちが早いか対決だ!」
いやです。第一俺に得がありません。
「むむむ、そうか、物が欲しいか。……だったら……そうだ!もしお前が買ったらあそこのかき氷を奢ってやろう!もちろん私がな!」
さされたほうを見ると、大行列があった。
まあ、いいですけど負けたからって泣かないでくださいね。
俺はあまり乗り気ではなかった。かき氷だから?いいや違う。ただ単に水に入りたくなかっただけだ。ただ、トレイシーちゃんの爛々と輝く目を前にしての俺はそれほど無力だったということさ。
「うぅ、ヒッグヒッグ、負けっちゃったよー」
隣からむせび声が聞こえる。トレイシーちゃんのだ。トレイシーちゃんは、かわいそうなことに俺との勝負に負けて俺にかき氷を奢る羽目になったのだ。しかし、一向に泣き止む気配がない。俺はリンダさんに目配せする。
「とりあえずマイケルさんはかき氷を買ってきてください」
リンダさんはそうささやいた。何がとりあえずなのだろうか。まあ言われちまったもんはしょうがない。俺は大行列に、財布片手に並んだ。
かき氷を両手に持ってさっきまでトレイシーちゃんたちのいたほうに行くと、何やら数人の男がトレイシーちゃんを囲んでいた。
「おうおう嬢ちゃん、少しだけでいいんだぜ?」
「そうだぜ、泣いていないで俺たちと楽しいことをやろうぜ?」
語尾から判断するのは申し訳ないが、ガラの悪い男たちである。トレイシーちゃんは真ん中で顔を青くしている。俺はかき氷を近くの机に置き、その輪に近寄った。
何か、俺の連れに御用ですか?
「ああん?お前の連れか?こいつ、うんともすんとも言わねぇんだわ。お前からも何か言ってやれ」
それはあなた方に興味がないってことじゃないんですか?
「ああ?興味がないだぁ?こいつを泣かせたお前がそんなこと言えるのか?」
別に客観的事実に言う資格なんて必要ないですよね。
「いいや必要だね。お前はおせっかいなんだよ。ほら、今この場で非礼を詫びろ。もちろん土下座でな。そしたら許してやるよ」
男たちは下卑た笑みを見せる。
……いい加減にしてください。
俺は少しだけ力を開放してあたりを圧迫した。
途端、男たちの顔が青くなる。
「きょ、きょ、今日はこの辺にしといてやる。俺も他に用があるしな。じゃ、じゃあ俺はこれで」
そのあとに続いて俺も、俺もと帰っていった。
俺はトレイシーちゃんに向き直る。
ほら、終わりましたよ。けがはありませんか。
「あ、ああ、ありがとう」
トレイシーちゃんはなおも震えている。俺は一つため息をつくと、トレイシーちゃんに椅子に座るよう促した。
「私はどうしてこんなに頼りないんだろうか」
トレイシー、トレイシー・マーセルはつぶやくように言った。きっとさっきの件で震えることしかできなかったのを悔いているのだろう。
何、女性だったら誰でもああいう場合、委縮してしまいますよ。
「いいや、それだけじゃない。なんで私の体はこんなに小さくて、声は幼くて、勇気もなくて、何にもないんだろう」
あー、体の話ですか。それは確かにその通りですね。
「……うるさい」
トレイシー・マーセルは、たぶんその天性の小さな体躯、幼い声からいろいろな機会で苦労してきたのだろう。当然、その苦労の一部も俺にはわからないし、努力も知らない。ただ、と俺はこう思った。なぜ、天性のもので自分を卑下しなくてはならないのだろうかと。なぜ、生まれながらの才能で自分の限界を決めてしまうのだろうと。俺たちの生きるこの世界は確かに人間に無関心だ。時には大災害だって起こす。しかし、その分無限の、数えきれない可能性がある。数えきれないほどの人生の道がある。それをなぜ、あきらめてしまうのか。確かに限界はあるのかもしれない。人間は実存的であるのかもしれない。しかし、それを自分で決めるのは違うと思う。だが、とここで俺はこう思った。こんなことを伝えても、きっとトレイシー・マーセルは一時的な救済しかされない。そこで、ふと、西蔭智春のことを思い出した。そういえばあいつは、トラブルからキーナーたちと仲良くなったのだ。つまり、もしかしたら、一時的な救済から始まるトレイシー・マーセルの道もあるかもしれない。そこで、俺はおもむろに口を開いた。
「確かに先輩の体は小さくて、声は幼くて、いつもうじうじしていて、頼りありません。ですが、それの何が問題なんですか。それのどこが変なんですか。もちろん、体が大きくて、声はしっかりしていて、甲斐性のある人間だったらどんなに生きやすいでしょう。しかし、世界がいつ、先輩を失敗作だって決めたんですか。そんな先輩だからこそ、弱者に寄り添えて、弱者の声が聞けて、それをもし、先輩が強者と堂々と戦っていく覚悟ができたなら弱者の代弁者となれるじゃないですか。いいや、これだけじゃないでしょう。もしかしたら先輩であれば難民の心の癒しとなれたり、救出のときはその体躯をいかしてどんどんすすめたり、いろいろできます。可能性はいくらでもあるわけです。それを、ただ自分の天性の才能がこうだからとレッテルを張って限界を決めるのはもったいない。俺はそう思います」
「……ふん、生意気な」
しばらくの沈黙の後、トレイシーちゃんはそうつぶやいた。あたりにはしんみりとした空気が流れる。俺はそれを打ち破ろうと、トレイシーちゃんが前から言っていた「惚れないからな」という言葉をもじってこう言ってみた。
もしかして俺に惚れちゃいました?
「……たわけが。惚れてなどいない。……ただちょっと良いなと思っただけだ」
まだ書きたいことがあったのですが、この話にはまとめられませんでした。次の話で書きます。




