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おはようなどといういたって普通のあいさつは俺の口を飛び出たはいいものの、誰の耳にも届かず虚空に霧散した。先ほどまで俺の目の前にいたキーナーに呼びかけたのだが、キーナーが俺の声を聞くと同時にどこかへ去ってしまったからだ。遠く離れていた佐々川さんはキーナーの後に慌ててついていく。何やら話している様子だ。キーナーの後姿はどこか寂莫としていて、佐々川さんの焦り姿もなぜか上の空のように感じたが、そんなことは俺の気のせい、気にしすぎのせいだという命題が措定された俺の心中では反措定、反駁、あるいは反論がなされる間もなく真理へと変換されそんな些末なクオリアなど心の奥底に没した。或いはアンビバレンスとでもいうべき状況に陥った、つまり気のせいと断言する俺と、何かが違うという俺との二律背反に業を煮やした第三者の俺が性急に結論を求めたのかもしれない。まあとりあえず、俺はこの時はまだ気にも留めていなかった、いや、気にはしていたが知覚的に気にしていたというだけで認識的に気にはしていなかった。
何かがおかしい。そう思い始めたのは初期の記憶、そう、キーナーが挨拶をしなくなったということが薄れてきた時だった。それまではあいつら、つまり佐々川さんとキーナーの予定が俺と会わないからと合点していたのだが、それもここまで続くと不自然である。そこで俺はその原因を本人たちに聞いてみようとするのだが、キーナーは相変わらず俺から逃げるし、佐々川さんはどこかよそよそしく、そして当たり障りのないことしか答えないため原因究明とはいかなかった。逼迫した俺はキーナーを無理やり捕まえて話を聞こうとした。しかし、つかんだ手を振りほどかれ、さらに空中まで逃げられたのでそれ以上追うのはやめておいた。確かに俺も空中魔法は使えるし、何ならキーナーにすぐに追いつくことができただろう。しかし、俺にはそれができなかった。寂莫としたキーナー、彼女の背中を負うことはできなかった。なぜか。そこには確かに拒絶があったからである。飛び去って行くキーナーに、いや、キーナーの背中に拒絶を感じた。それは今まで交友してきて初めてだったので戸惑った。いや、そんなのは嘘だ。俺はその拒絶から諦念を得たのだった。俺には前世がある。その中には当然交友関係なんてものもある。そしてその交友関係の中には決裂も。俺は今回そんな決裂に似たようなものを感じた。今までの人生の中で拒絶を受けた後の帰結は決まってそれだった。だから俺の中には諦観が渦巻いていた。
あいつら本当にどうしちまったんだ。そう呻くようにつぶやいたのは俺だった。隣には西蔭智春がいた。西蔭智春は、それを聞いていたらしい、こんなことを言った。
「あいつらって?」
ん?ああ、聞かれてたか。いや実はな、……
俺は現状を詳らかに話した。
「なるほど……。ということは、そろそろ潮時だね」
潮時?何が――
「この関係だよ」
な、なぜ――
「マイケル君ももう気付いているだろ?私たちがこの関係になってからキーナーさんたちがおかしくなったのを」
ま、まあ時期的にはそうだが――
「そもそもマイケル君の作戦自体、だめだと思うな。最初からうまくいきっこないよ」
な、なぜ。
「気づかない?キーナーさんを見ていて」
キーナーを見ていて?何を。
「うーん、鈍感だなぁ」
西蔭智春は考え込むようなしぐさをする。
刹那、西蔭智春は俺の耳元に寄ってきた。
「それはね、キーナーさんが、ううん、佐々川さんもマイケル君が好きだってことだよ」
好き!?好きというのはつまり、俺のことを愛しているということだろうか!つまりあいつらは俺のことを愛しているがゆえに一緒にいて!一緒に遊んで!意地悪して!時には手伝って!……いや、ないな。
俺は、いや、俺の脳内はファンタジーから覚めた。
そもそもそうなるには前提が間違っている。それは、俺が平凡ということだ。なぜ平凡な俺に恋をする?なぜ平凡な俺を愛することができる?ありきたりな恋愛なんてのもあるが、それはいつだって男からの一方通行、あるいは虚構だ。
そうだったらいいな。
俺は仮面のほほえみを西蔭智春に見せ、そう言った。




