第二話 ベクシンスキーとは?
山田太郎氏が事務所を後にしても、しばらくは応接のソファーに座ったまま、置かれていった画集のページをめくって眺めた。なかには少しゾッとするような、長く観ていたいとは思えないようなものもあった。
今回はなんとも風変わりな依頼だと思った。
たいていの場合、探し物ならば、なんとしてでも見つけてほしいといわれるのが常だが、「わずかなことだけでもいいから」と言われるのは多くなかった。それに連絡手段についてはなんと、私書箱に手紙を送ってほしいとのことであった。今の時代、電話どころかメールまで使わないとは……。あるいは、それなりの理由があるのかもしれないが。料金についても、普通はどのくらいの額なのかと気にする人が多いものだし、人によっては具体的な予算額を提示されて、これで何とかなりませんかと言われることもあった。
私は今一度、山田太郎氏が渡してきた百万を手に取ってみた。少なくとも偽札ではないことは確かだ。それに入れてある封筒も地元銀行のものだった。あるいは依頼人は風変わりな金持ちで、道楽半分でこの依頼を持ち掛けてきたのだろうか?
まあ、依頼人についての詮索は、これ以上はやめだ。これまでもずっと、そういう方針でやってきた。相変わらず、心の奥底では気乗りしない感じがしていたが、受けてしまった以上は仕方がない。私は重い腰をあげて仕事にかかることにした。
手始めにウェブで、ベクシンスキとやらの画家について情報を漁った。とはいってもウィキペディアくらいにしか、詳しい情報は載っていなかった。
ズジスワフ・ベクシンスキ、あるいはポーランド語に近い発音でゾディソワフ・ベクシンスキー。一九二九年の二月二十四日生まれ、二〇〇五年の二月に没している。ポーランド南東部サノクという地域の出身で、少年時代はナチスドイツのポーランド侵攻を経験。
どうやらその生い立ちは、絵画制作にも影響を与えていたらしかった。
「ええと、主に死、絶望、破損、退廃、廃墟、終焉などをモチーフに扱い、不気味さや残酷さと同時に荘厳な美しさを感じさせる画風、か……」
ウェブ上で見ることができる、ベクシンスキ本人の写真は、気さくそうに親しみのある笑みを見せる姿が写っていた。
少し内向的だが、人当たりがよく、会話も楽しんでいたとのこと。だが、政治不信やマスコミ嫌いで、普段はまるで隠遁生活。作品の制作時は、大音量のクラシックをかけていた。彼の作品は全てタイトルが無く、理論付や詮索を嫌っていた。作品はバロックとゴシックの技法を使い分け、九〇年代からはコンピュータグラフィックスによる写真加工の作品も手掛けていたとのこと。他の芸術に触れることは嫌っていて、ポーランドから出ることもなかったとされる。
とはいえコンピュータグラフィックも手掛けるとは、最先端技術には関心があったようだ。いずれにせよ、ベクシンスキは精力的に制作活動にいそしんでいた、というわけらしかった。
九八年には妻が亡くなり、九九年には息子が薬物の過剰摂取で自殺。そして彼自身の最後は、なんとも悲劇的なものだ。刺殺されたという。しかもその犯人は、友人の息子とその従弟。さらには、その二人とも犯行当時は十代で、動機は借金の頼みを断わられたとみられる、とのことである。
遠い異国の見ず知らずの人物ではあるが、こういったことを知ると、なんともやりきれない気分になる。悲劇的な最後だ。ただ、彼の作品が後世に残り、マニアの間でも語り継がれているというのは、それでも慰みなのかもしれないな。
他にもウェブ上の情報のなかには、都市伝説の一つとして三回見たら死ぬといわれている絵のモデルになっているものもあった。まあ……荒野を背景に、まるで生首が化粧台の上に載せてあるような絵ではしょうがないかもしれない。もちろん、三回以上は目にしたが、私が死ぬことはなかった。
さらに調べていると、行方不明の五十九作品のうち、一点が国内の美術オークションに出品されたという情報が出てきた。だが、個人ブログの記事しかなく、詳しい出典もなかった。その美術オークションとやらも、検索をかけただけでは情報は得られなかった。一応は記録しておくべきことだが、真偽のほどは怪しい感じがした。
一方、その五十九点が展示されていたという日本の東欧美術館は一九九〇年頃に閉館とのことであった。
ひとまずは大阪だ。かつての東欧美術館とやらの跡地、あるいは周辺で聞き込みをしてみようか。ついでに大阪で活動している同業の知人も頼ってみることにした。なにか些細な情報でも、手に入れば御の字かもしれなかった。
翌日、準備を整えて新横浜から新大阪へ向かった。
まっすぐと現地へ向かったが、美術館だった建物は現存していなかった。まあ、想定の範囲内のことである。ともかく、当時を知りそうな年齢層に絞って聞き込みをした。が、あまり結果は芳しくなかった。
「美術館? はあ、知りませんねぇ」
「なんか聞いたことはあるけどね。知らんな」
「さあ、美術にはさっぱり興味がないので、分かりませんわ」
範囲を広げていろいろと当たってみたが、似たような返答ばかりだった。聞いたことがあるという人はいるものの、行ったことがあるという人にはなかなか出会えなかった。
一週間が過ぎたが、得られたものは少なかった。なんだかまるで、人々の記憶からは忘れ去られてしまった、そんなふうにも思えた。もっとも、四半世紀近く前に行方不明となった絵画だ。部外者が詳細を知らなかったり、そう易々と見つからないのは当然のことだ。
もしかすると所有者は、絵を秘匿しているのだろうか? なんのために? 一番考えられるのは金銭がらみだ。行方をくらましていた絵画が出てくれば、高値はつくだろう。しかし、あまりに気の長くなるような話でもあった。あるいは、所有者がすでに亡くなっているとしたら、それこそ絵が処分されてしまった可能性だって大いにあり得るだろう。
最後に、連絡を入れておいた同業の知人である、中林の元へ向かった。
「よう、津田クン、ご無沙汰で久しぶりやな。そっちはどないなん?」
「まあ、それなりだよ」
どうやらこちらは、私と違って忙しそうな雰囲気だった。
「それよか、早速本題やな」そう言って知人は、薄茶の封筒を差し出した。中身はクリアフォルダに入った新聞のコピーだった。
「東欧美術館っちゅうとこの情報が、欲しいんやったね。だけども、それくらいしか見つからんかったわ。すまんな」
それは美術館の開業当初のことを扱った、地元紙の小さな記事のコピーだった。
「いや、忙しいのに助かるよ」
「困ったときはお互い様やからな。その代り、今度会うときは飯と酒を奢ってくれや」
「もちろんだ、約束するよ」
「にしても、また、変わったもんを調べとるな」
「まあ、そういう依頼だからね」
知人は面白そうに笑った。「そうや。このご時世、仕事があるだけマシかもな」
「不景気なのはどこも一緒かい?」
「どうかねぇ。それでも関西人は、気楽に構える者が多いけんな。関東よりはギスギスしとらんと思うよ」
私は小さく笑って答えた「まあ、そんなものかもね」
それから中林とは、多少の世間話をして別れた。
横浜に戻った翌日、まるでタイミングを合わせたかのように、依頼人である山田太郎氏が事務所を訪れた。
「ご無沙汰しております。少しばかり様子を見に来ました」
「どうぞ、ソファーにおかけください」
「はい、では……」
「ちょうど、途中経過を少しまとめていたところです。しかしながら、調査の進捗は正直なところ、芳しくありません」
「いえ、決して急かしに来たわけではありませんので。そこは安心してください」
それを聞いて、思わず安堵のため息が出てしまった。これまでの経験上、仕事の進捗はまだかまだかとせっつくような依頼人も、少なくはなかった。
「ただ具体的に、進捗はいかがなものでしょうか?」
「ええ、先日まで、大阪に行っていました。例の、東欧美術館に関して何か情報が得られるかと思ったのですが……」
「わざわざ大阪まで行かれていたのですね」
「とはいいましても、得られたのは当時のことを扱った地元の新聞記事だけでした。ご要望でしたらコピーをお渡しします」
「ぜひ、お願いします」
依頼人は新聞記事のコピーを受け取ると、つぶやくように言った。
「あるいは絵画自身が、見つかりたくないとでも思っているのかもしれませんね」
「面白い表現をされますね」
「世の中には不思議なこともあるものです。例えば、ヨーロッパのとある田舎で、有名な画家の作品が発見された時のこと。すっかり使われなくなった大きな納屋だったそうですが、見つけたのは、たまたまその土地を訪れた人だったそうです」
「その人は、どうしてそれが分かったんですか?」
「発見者は、なにか呼び止められたような気がした、というのです」
「興味深いですね。絵画になにか念と言いますか、そういうものがあるのでしょうか?」
「そうですね……あり得ると思いますよ」
「ほんとうですか?」
「いわば、虫の知らせ、とでもいうものでしょうね」
それから山田太郎氏は、新聞記事のコピーを受け取ると「では、失礼します」とだけ言い残し、事務所を後にした。




