第一話 依頼人
エアコンの調子が悪かった。そのせいで、広いとは言えない事務所の中は、少々暑かった。しかたがないので、入り口のドアと窓は全開にしていた。外から、遠くで鳴いているセミの声がよく聞こえていた。それでも午後は、通りに面した窓から日差しが直接当たらないだけ、マシといえる感じだった。ビルの管理組合には、前々から話をしているはずだが、修理業者がやってく来る気配はなかった。
私の名前は津田敏之、津田探偵事務所と名前を出して探偵業を営んでいる。とは言っても、ドラマや映画にあるような大事件の真相を暴く! みたいなことはやってない。そもそも、それに関しては警察の仕事だ。あるいは、物好きなジャーナリストにでも任せておくのがいい。地味と言ってしまえばそれまでだが、堅実なところではある、という感じだろう。
ちなみに、事務所を構えているのは横浜。ただし、より詳しく言えばその場所は緑区だ。横浜駅や元町繁華街、山下埠頭近辺の都市部などと比べたら、華やかさとは縁遠い場所である。それに、少々さびれた雑居ビルの三階。一人商売でやっているから、あまりパッとしない。だが、やりがいがないわけじゃないし、依頼人から感謝もされる。
普段は浮気調査だとか人探しだとか、それと、他にも結構あるのが、行方をくらましたペット探し。犬猫とか小鳥とか、だいたいはそういうのばかりだ。さらに言ってしまえば、なぜか知らないが探し物専門の探偵という評判が広まってしまっているようであった。まあ、不評が立つよりは断然いいに決まっている。それでも少々、猫アレルギー持ちなのが悩みの種だった。
悩みといえばもう一つ、こっちはかなり深刻だ。最近は仕事の依頼が、めっきり減ってしまった。なんたって世は不況。情勢とあってはしょうがない。個人の努力にも限界というものがある。年内はまだなんとかやり繰りできるだろうが、パソコンの画面に開いた帳簿を見ていると、思わずため息が出る。これまで細々とやってきたが、そろそろ仕事の鞍替えでもするか? そんなくだらないことを考えるこもあった。
そんななか、一人の依頼人が事務所を訪ねてきた。
「こんにちは」
そう言って入り口に現れたのは、スーツ姿で中肉中背の男性。黒い革製の手さげのカバンを一つ持っていた。最初は若者にも思えたが、着ているスーツの雰囲気からすると、中年より上にも見えた。いかんせん、具体的な年齢が分かりかねた。その童顔っぽい顔のせいもあるのだろう。
どこか柔らかな印象を与えるその表情は、絵画のモナ・リザ、あるいは七福神の大黒様を連想せるような気がしないでもなかった。だが、それでいて、なんとなく能面のような、無表情でもあるように思えた。いずれにせよ、依頼を受けるうえでは、それらはさして重要なことでもなかった。
その男性はやや遠慮がちなふうで、落ち着いた様子だった。
「あの、こちらは探し物専門に探偵業をされていると伺ったのですが……」
「ようこそ、いっらしゃいました」
私はデスクから立ち上がり、来客用の応接ソファーを進めた。「どうぞ、そちらにおかけになってください」
「はい、失礼いたします」
「どうです? コーヒーなどはお飲みになりますか?」
「よろしいですか? では、お願いします」
依頼人がソファーに腰を落ち着けたのを確かめ、私はいったん、つい立ての向こう側に移動した。
もちろんながら、狭い事務所内にとはいえ、流し台やコンロも備え付けられている。冷蔵庫からパック入りのコーヒーを取り出し、氷も入れてガラスコップに注いだ。
自分の分も用意して、応接に向かった。
「暑い中、申し訳ありません」
「何がですか?」
依頼人はすぐに聞き返してきた。
「エアコンですよ、調子が悪くて。外もけっこうな暑さではないですか?」
「いえいえ、構いません。慣れてますので」
早くも結露をまといはじめたガラスコップをテーブルに置き、依頼人と向き合った。
「どうぞ、アイスコーヒーです」
「はい、ありがとうございます。ええと……」
「津田探偵事務所の、私が津田です。といいましても、もともと私だけですけどね」
「そうですか、よろしくお願いいたします。私は山田太郎といいます」
私は、彼の名前があまりにも単純なことに思わず、ぽかんとしてしまった。
「皆さん、私が自己紹介をすると、そんな顔で驚かれるんですよ」
依頼人の山田太郎氏は、苦笑交じりに言った。
「いえ、これは失礼しました」
「お気になさらず。私は慣れていますので」
「では、早速ですが、お話をおうかがいましょう。どのようなご依頼でしょうか?」
すると山田太郎氏は、黙ったまま目の前のアイスコーヒーが入ったコップを横へ動かし、なにやらカバンから取り出した。そうしてテーブルの上に置かれたのは、A4サイズくらいのハードカバーの分厚い本だった。
「これは、ベクシンスキの作品集です」
「ほう、つまり画集かなにかですか?」
「そうです。とはいえ、ベクシンスキという名前はご存じないでしょう。あまり一般に有名でもありませんから」
「確かに、初めて聞く名前です。それでも多少は、絵画に関して常識程度の知識はあると自負していますが……」
いずれにせよ、絵画関係の探し物であろうことはおおよそ見当がついた。
依頼人の山田太郎氏は、画集のページを開いてこちらに向けた。
「画集はしばらく、お貸しいたしますから。どうぞ、自由にご覧になってください」
私は何ページかめくってみた。作品をぱっと見るには、全体的に暗い印象で、おどろおどろしい雰囲気を感じるものが多いように思えた。ただ、よくよく見ると、色使いというのか色彩というか、なんとなく美しいと感じるものも見受けられた。
「それで、この画家の描いた絵画を、お探しということでしょうか?」
「はい。そういうことです」
もちろん、仕事として依頼が来るのは嬉しいものだし、こなせば稼ぎにもありつける、というものだ。たが今回は、どうにも、あまり気乗りがしないような感じがした。こういう気分になるのは初めてだった。
「ですが、絵画でしたら、その専門の方々……画廊ですとか、まずはそういった場所へ当たられてみてはどうです? あるいは私がそういった専門家を探して、ご紹介できなくもありませんよ」
すると、山田太郎氏は苦笑いを浮かべた。
「いえ、僕の方でもいろいろと、当たってみたのです……」と言って、首を振った。
つまり、依頼人もそれなりに心当たりをあたってみて、最終的に私のとこへやって来たということらしかった。となれば、引き受けないわけにもいかないような気もした。ともかく、さらに詳しい話を聞く必要があった。
「それで、この画集に載ってる絵画をお探しという訳ですか?」
画集のページをめくりながら、訊いてみた。
「いいえ。一枚や二枚の絵を探すのとは違います。五十九枚です」
私は何か、聞き間違いをしたのかと思って、画集から顔を上げ依頼人に聞き返した。
「何枚とおっしゃいました?」
「探しているのは、五十九枚です」
ベクシンスキ……その画家はポーランド出身で、絵画に描かれるモチーフから終末の画家とも呼ばれていた。現地には彼の名をとった美術館も存在するとのことである。そして日本とも大きな関りがあるようで、彼の描いた絵画のうち五十九点もの作品は数名の日本人男女によって購入され、しばらくは東欧美術館と銘打ったところで展示されていたという。
しかし、いつのまにか美術館は閉館となった。現在、その所有者は消息不明となっているらしかった。日本国内に持ち込まれた作品群も、全て行方不明とのことである。
つまり、山田太郎氏の依頼は、その国内に持ち込まれた作品、五十九点全てを探してほしいということなのであった。
話を聞き終えて、私は軽く顎をさすった。
「それで、その美術館の関係者についても調査を含めて、というわけですね?」
「そういうことになります。それと、資金でしたら十分な用意をしています」
そう言って山田太郎氏は、カバンの中から分厚く膨らんだ、白い縦長の封筒を一つを取り出した。受け取って中身をあらためると、そこには現金の束が入っていた。帯が付いたままで、おそらく銀行窓口で下ろしてきたばかりの百万円と思われた。
流石の私も、いきなり現ナマをぽんと、手渡されたことに少々戸惑った。
「これは、百万円ですか……」
「そうです。ほんの手付金です」
山田太郎氏は、なんでもないというかのように平然とした口調だった。おそらく依頼の費用に糸目をつけないということだろうが、額はともかくとして、依頼が難題であることに変わりはなかった。
「ご依頼をいただけるというのは、こちらとしても歓迎すべきことなのですが、依頼を受ける上で期限や最終目標をしっかりと定めておく必要があります。それに、」
「ええ、分かります」
依頼人は落ち着いた様子だったが、こちらの言葉を制するように話した。
「貴方のおっしゃりたいことは、僕も分かります。なにせ、五十九枚の絵画です。全部が見つかるとも分かりません。仮にもし、海外のコレクターの手にでも渡っていたら、取り戻すのは大変な困難なことでしょう。そもそも、絵画がきちんと現存しているかどうかも怪しい……価値の分からない人の手によって処分されてしまっている。そのような可能性も、あり得るわけです」
どうやら山田太郎氏自身も、相当の難題であることをきちんと自覚しているようだった。
「もちろん行方不明の絵画が、全部見つかることに越したことはありません。ですが……難しいでしょうね。見つからないとしても、せめて、その経緯や関係者の証言、わずかなものでもいいです。あるいは、どうして行方が分からなくなってしまったのか、その理由や背景といったものが少しだけでも分かるなら知りたいのです」
依頼の言葉からは、絵画に対するかなりの思い入れが感じられた。
「分かりました。正直に言いますと、かなりの難題です。結果は保証できませんし、調査費用はそれなりにかかかると思われます。よろしいでしょうか?」
「それは覚悟の上です。連絡をくだされば、必要経費は全て用意いたしますので」
その口調からも、迷いは感じられなかった。結局、私は引き受けるしかなった。