異世界から戻ってきた
平成の最後の日に、異世界を旅立って、令和最初の日に、こちらへ戻ってきた。
夜の八時頃に家に着くと、夕飯は終わり、両親はテレビを見ていた。何か複雑な顔をしながらも、涙ぐんで長男の帰宅を迎えてくれるかもしれないという期待は、泡のごとく消え、テレビの中の白々しい笑い声と、新人芸人らしき上滑りの罵声だけが響いた。
「ちょっと、夕飯用意してないんだけど。千円あげるから、弁当を買うかどうにかしなさい」
ソファに座ったまま、テレビから目線を移さずに、母はそういった。父はスマホから顔を上げて、僕を一瞥すると、またスマホに視線を落とした。
「何だ。随分早かったな。イキりたって、異世界行くっていいだしたから、そのまま向こうでやるだろうと思ってたよ」
その方が楽だったのにといいたげに、ため息を漏らした。
「で、就職活動すんのか」
僕は猫の毛が落ちていた絨毯を見下ろし、しばらく黙っていたが、何とか口を開く。
「……うん、少しずつ始めようと思う……」
そのとき、ようやく母が僕の顔を見た。その目が少し輝いていた。
「今日はもう寝るよ」
「お風呂入ったら?」
「……いいよ」
自室に戻り、ベッドの上に寝転がると、意識と身体が一気に溶けていった。
就職活動を始めると、面接で「美しくない」履歴書を見せることになった。就職の参考書で読んだことをいっても、面接官は分かりきった小学生の算数の答えを聞いているような顔をしていた。
「最近まで旅行してたらしいけれど、どこに行ってたんですか」
アメリカ、中国、韓国、ヨーロッパといろんな地区が浮かんだけれど、突っ込まれたら万事休すだ。僕は正直にいうことにした。
「……異世界へ、行ってました……」
頭おかしいよなと、下を俯いた。
「……ふうん、異世界へ。そこに何しに行ったんですか?」
面接官の顔を見ると、嘲笑を口の端でかろうじて止めている。
「ヒーローになろうとしました。自分のやるべきことがあるかもと思っていました」
向こうに行ったら、ヒーローになれるというか、とにかく自信を持ってもいい理由が見つかると思っていた。何かの王になって、ハーレムを作って、何かを倒していく。こっちでモブでしかない僕を、誰もが持ち上げてくれる。運よくチケットを手に入れた異世界行きの夜行列車の中で、解放感と希望で居ても立っても居られなかったのを覚えている。
「……なれたんですか、ヒーローに」
「……ええ」
「じゃあ、何で、こっちに戻って来て、就職活動しているんですか?」
なったよ、ヒーローに。王様に。ハーレムには関心がないからやめたけど。
「……救えなかった人がいたからです」
「……それは誰か聞いてもいいですか」
「……僕自身です」
王になるとか、何かを倒すとか、最初はそれでいいんだけれども、自分には合わないことに気づいた。もっと楽に暮らしたかった。別にヒーローじゃなくて、些細な楽しみが毎日少しずつ続いてくれればよかっただけだった。ときどき、ヒーローになれればそれで満足だ。
だけど、ヒーローになって輝こう!ヒーローになって世界を救おう!ヒーローになって自分は存在証明できる!と言われ続けるのが辛い。ヒーローになれば夢は叶う!とか、ヒーローになってまで叶えなければなれない夢って何なんだろう。
「……ヒーローではない人間に、居場所がないんです」
「……それで?」
「僕は、モブになることを志願して、ヒーローのために殺されました」
ヒーローに疲れた僕は、モブになった。ヒーローを引き立てるために殺される名もないモブ。死ぬと、こちらの世界へ戻って来られる。
死ぬとき痛かった?と聞かれて、よく覚えていないと答えた。
「異世界もあんまこっちと変わんないね。仕事しなきゃ居場所ないからね」
面接官が何を思ったかは分からなかった。僕に医者に行けとか、嘘をつくなとはいわなかった。他にいくつかの質問をされて、結果は後日に連絡するといわれた。
帰りにコンビニに行って、店内を歩いていると、見切り品のコーナーに、売れ残ったウエハースチョコレートが並んでいた。パッケージにはアニメのヒーローが描かれている。
「令和おめでとう!」と書かれた駄菓子もたくさんあった。おめでとうって、何を祝っているんだろう。だって、何も変わらないのに。
何も変わらないのに。
何も変わらないのに。
何も変わらないのに。
僕は、コンビニで弁当だけを買った。それから、新しい履歴書を買いに、書店へ向かった。