1月21日 日曜日
登場人物
藤田 一之(35) 男。前内閣総理大臣。現在無職。
飯塚 昭夫(46) 男。前内閣副官房長官。現在はヒラ議員。
隠居生活10日目。比べようないほどやることがない日々も、感覚をつかめば意外と慣れるのはすぐだった。やっと一日が本来の速さを取り戻したように感じる。しかし、相変わらず手持無沙汰から来る空虚からは逃れ切れていない。家の外で出勤する人々やテレビで会見に臨むことりを見ていると謎の不安と罪悪感が襲ってくる。今日のような日曜日はその気も和らぐから好きだ。
11時00分。帽子をかぶり、メガネをかけ、コートを羽織って外へ出る。最近見つけたスリリングな暇つぶし「藤田さんみーつけた」の時間だ。
ルールは簡単。街中を軽い扮装で歩き、自分に気付いた人を数える。一週間で最も多く気づいた街を今後メインの外出先とする。暫定1位は金曜日の池袋で310人。トレンドにもなった。
やはり「前総理」というのはそれだけで勲章ということだろう。自分で言うのも変だが、これでも私は35歳で細身だ。顔もそこまで悪いとは思わない。若者にはそれなりに人気があるのだ。見つけた人は私を見て満足する。私は見つけられることで承認欲求を満たせる。ウィンウィンだ。なんて素晴らしいゲームなんだろうか。
総理の時は、「人気云々で一喜一憂するな」とかいう格好いいことをぬかしていた気もするが、その発言は、撤回する。人気、欲しい。ましてや日中誰もいない家にいる私にとって他者との接触は死活問題だ。もっと言おう。さみしいのだ。身を引いてからというもの、ここ最近は飯塚としか会っていない。私が友と呼べる者は今議事堂の中にいる。勇退の準備を続ける中で唯一の盲点だった。
故にこんな一見趣味の悪い遊びさえ欲してしまう。能書きはいいから向かうとしよう。カードケースとスマホを手にし、勢いよくドアを開け、一歩を踏み出す。
五歩目で止まる。鍵を忘れた。
有楽町駅から乗り込んだ山手線は20分強で渋谷駅へ着く。車内は手を動かすのもままならず、無言で耐え忍ぶ静かな地獄絵図だった。私のそばの席に限って誰も降りず、もう疲労がたまっている。しかも停止信号が出されて引き延ばされたがために、何の罪もない運転手に静かな怒りさえ覚えてしまった。今となっては申し訳ない。戦地に着くや否や車両は出征する兵士を無慈悲に吐き出した。
まあいいだろう。今回は許してやる。これから皆にちやほやされることを考えればとるに足らぬこと。休日だからか、駅前広場は思っていた以上に賑やかなようだ。出口が近づくにつれて音楽も聞こえてくるし、陽気なものだ。やりがいがある。
……ん? 音楽とはどういうことだ。嫌な予感がする。エスカレーターを降り、光のある方向へ進む。跳ねる音楽と少女たちの歌声、男衆の咆哮が耳をつんざいた。
そばの立て看板に目をやる。
<Witches結成1周年記念渋谷ライブ>
的中した。そして点と点が線になる。列車の異常なまでの混雑さ、駅前にごった返す人々……。全てはこのライブ故のものだ。曲が終わり、グループのキャプテンがMCを始める。
「皆さーん!今日は来ていただいて本当にありがとうございます!私たちのグループは今日、1歳のお誕生日を迎えましたー!!!」
「ウォォォォォォォォォォォォ!!!!!!」
大将の号令に足軽が鬨の声を上げる。
Witchesというのは聞いたことがある。大物プロデューサーによって結成された女性アイドルグループだ。絶妙なルックスと圧巻のパフォーマンスで爆発的な人気を誇っているらしい。確か政府内にもファンが多かった気がする。今日は彼女らの結成1周年ライブだそうだ。こういう世界で1年生き残ることがどれほど大変なのかは痛いほど分かる。政治の世界だって私が政権を獲るまでは「1年内閣」などざらだった。「シフト制じゃないんだから」とも揶揄されたくらいだ。競合を勝ち抜き、ここまで来れたのは彼女らの努力と実力あってこそだと思う。
だが、今そんなことははっきり言ってどうでもいい。彼女らのせいで目算が完全に崩れた。一糸乱れぬ大軍勢が私に目を向けるわけもないだろう。観衆の目的は目の前にある。その中を通ったところで気づかれないか視界を遮る邪魔者になるかだろう。
これは気づかれない。渋谷はワースト更新だろう。
私はいつの間にか手に力を込め、当たりようのない怒りのあまり目を見開き始めていた。
もう嫌いだ。渋谷は嫌いだ。Witchesも嫌いだ。そもそもあのポップすぎる曲調が気に食わない。二度と来てやるものか。後からいたと知って後悔しても知らないぞ。
そう思った時だ。メンバーの一人がキャプテンの話を遮った。
「ねえ、ちょっと待って……。あれ、藤田総理じゃない……?」
「え?」
え?
私は思わずステージを振り向く。同時に男衆が一斉にこちらを向いた。対面。
さらに斜め上の事態に私の表情は宙ぶらりんになった。まさか、知っているというのか。
「やっぱりそうだー!! 藤田総理だ!!」
「ほらほら、もう総理じゃないでしょ?」
「あれ、そうだっけ? ずっと藤田さんだと思ってたー笑」
「「藤田さーん!!」」
彼女らが私にゆっくり手を振る。私は考えるより先に振り返した。先ほどに引けを取らないほど大きな男衆の咆哮が私に向けられた。
「まじかよ! 本物じゃねえか!」
「藤田さんだー!!」
「おいおい、前総理Witchesオタかよ笑」
渋谷、一発逆転。決して抜かれない最高記録を更新したであろう。ここまでスマホを、カメラを向けられ、手を振って返してくれる者たちが多いのは久しぶりだ。目算だけでも3000人は超える。これは池袋どころか、衆院選の街頭演説以来だろう。総理を退いて池袋のレベルで満足してしまうとは、自分も鈍ってしまったものだ。というか彼女らも私を知っていたというのは嬉しい誤算だった。
メンバーに促され気づけば壇上へと上がっていた。帽子をとり、顔を見せる。先ほど以上の歓声が上がる。ただの通行人も集まってきており、先ほどよりも規模が大きくなっている。
「私、藤田さんの大ファンなんですよー」
「あ、それはどうも。すみません急に来ちゃって」
「いえいえそんなーありがとうございますー。もしかして私たちの曲、聞いていただけてるんですか?」
「え? ええ。まあ……ちょっとは」
「「ええ!? やったあ!!」」
対面して早々嘘をついてしまった。いや、スタッフが仕事中にかけているのが耳に入ってきたから間違いではない。
「でも藤田さんテレビで見るより格好良くないですか?」
「こんな若くて格好良かったら、ずっと総理でいてほしいな、なんて」
それは大久保だが可哀そうだろう。それに足軽の目の色がちょっと変わったのを感じる。
だが、ここまで言われたのだ。今日の一件だけで私の承認欲求は1週間ほど持つだろう。
「あの、今から新曲やるんですけど、聞いていただけますか?」
「あ、はい。ぜひ」
「「やったあ!!」」
「新曲」という言葉に男衆は再び鬨の声を上げる。スタッフがSPよりも慎重に私を袖へ誘導する。そして少しの間を置き、新曲が流れ始めた。
このポップな曲調が次代の音楽を担っていくのだろう。Witchesか、名前は覚えた。曲が進むにつれて喝采は大きくなっていく。ペンライトが揺れ、メンバーの名前が刻まれたタオルがたなびく。渋谷はライブを超えて、祭となった。
<藤田前首相、Witchesライブに出現>
見通しを遥かにしのぐ収穫に私は酔いしれた。ネットニュースのトップにものり、政治に関心のなかった彼女らのファンまで私を意識するようになった。良い傾向だ。もう一度出馬したらゼロ打ち当選は確実だろう。
橙色の光を背に浴び、私は紺のビニール袋を手に、軽い足取りで家の前の通りへ出た。
ちょうど向こうからレジ袋を提げた見慣れた男。飯塚だ。
「人気者ですね」
「思った以上だった」
「まだ藤田さんの威光は健在ですよ」
飯塚がレジ袋から銀色の缶を二つ取り出す。
「それを祝って、どうですか?」
「……いいね」
私がビニール袋からCDを一枚取り出す。
「肴なら、ある」