1月11日木曜日
登場人物
藤田 一之(35) 男。前内閣総理大臣。現在無職。
桜坂 ことり(31) 女。新警察大臣。
飯塚 昭夫(46) 男。前内閣副官房長官。現在はヒラ議員。
目が覚めたらスーツだった。疲れと良いと安堵が身体じゅうを回り、ジャケットを脱いだだけで、そのまま寝入ったらしい。
キッチンにはグラスと食器が逆さに置かれ、窓から差し込む光が流し台の淀みをキラキラ光らせている。昨夜は大久保の就任祝いと私の送別会ということで、ことりや、大久保、政権幹部、各団体の代表が我が家に集まり、あることないこと語り合った。はっきり言って何を話したか覚えていない。大久保が輪を描いて踊りだし、ことりが瓶を片手に真っ赤な顔で新警察大臣としての大演説をし、突然号泣したことくらいは覚えている。皆もう仕事に行ってしまったのだろう。つけっぱなしのテレビでは今朝の大久保の仕事始めが映し出されている。
8時42分。まずい、ぎりぎりだ。ひとまずこのままでも出勤はできる。官邸まで走れば間に合いはする。玄関までの廊下を小走りし、靴ベラをもつ。はたと気づく。
いや待て。何をしているんだ私は。今思い返したばかりじゃないか。もし出勤したとしてどこに行くというんだ。昨日の会は何への送別だったんだ。テレビ見たばかりじゃないか。じゃあ総理を名乗るあいつは誰なんだ。ゆっくりとリビングに戻る。そうだ、もう行かなくていいのだ。
とりあえず着替えよう。
民放の通販に飽きてたまたま回した教育チャンネルが面白い。人形劇のクオリティは高いし、月の満ち欠けを取り上げた理科の番組は録画してしまった。
画面の左上に目を遣る。11時30分。遅い。あまりにも遅い。
仕事中心の日々と落差がありすぎて、違和感が体の小刻みな揺れへと変換されていく。暇だ。ここまで立派に趣味といえるものを作ってこなかったせいだ。外国の首脳とゴルフやクルージングをやったことはあったが、少なくとも今日はそんなことする気がしない。物理的にも無理だ。というか、そう思っておいて外に出ようとも思わない。面倒くさいと思われるだろうが、実際そうなんだから仕方がない。ワイシャツ、黒ジーンズ、ジャケットというさも出かけるかのような装いをしておいてあれだが。そうだ、本でも読もう。買って積み上げたのがたくさんある。一冊丸々読めば日が傾くだろう。その前に昼でも食べるか。皆は何がいいだろう。
「なあ」
いるはずのないスタッフに声をかけてしまった。皆って何だ。一人だろ。とりあえず冷蔵庫のもやしを炒める。香味ペーストの味付けで大体上手くいくものだ。
総合チャンネルに変えると大久保の所信表明演説が中継されていた。今回は時期の関係上、首班指名の特別国会からスライドして通常国会が開かれる。新政権は就任早々来年度予算案の審議、野党からの質問責めという内閣の洗礼を受けることになる。
大久保の演説はすらすらと進んでいくが、どこか違和感がある。賛成討論で声を張り上げ、独擅場を作り上げていた議員時代の面影がない。よく見れば表情に若干の蒼白さを感じる。出馬していきなり首相となった私に議員時代とのギャップというものは理解しかねる。だが、総理大臣、それも「ポスト藤田」という飾りつきの称号からくる圧力が恐らく彼に面しているのだろう。いや、考えすぎか。ただ単純に昨日の酒が残っているだけかもしれない。
食事を済ませ、国会中継も終わり、いよいよ読書を始める。本日のメインイベントだ。「これがニッポンの資本主義」なんてどう見ても300ページ以上あるタイトルだ。これで今日は「充実した一日だった」と胸を張って言える。どうだまいったか。
13時12分、開始。15時04分、読了。
時計を見て戦慄が走った。まだおやつの時間じゃないか。
総理時代、大量の書類にハンコを押すために、書類の斜め読みを練習した時があった。勇退直前には1分間に100部押印、2部差戻にまでできるようになった。今回もその癖が出てしまった。内容は一字一句暗記している。いま白紙に完コピしたっていい。
というか今思った。仮に陽が沈むまで読書をしたとしよう。そこから先はどうする。
夕飯を終えた後は何をすればいいのか。じゃあ寝ればいいとなるかもしれないが、それには早い。恐らく未明に目が覚め、余った時間を埋めるために同じ悩みにぶち当たるだろう。所詮は問題の先送りだ。
無情にも日は傾き始め、空が色付き始める。家の前を息切れしながらランニングする陸上部員さえうらやましく思う。することがあるんだから。ここにきて無趣味だということがボディーブローのように効き始め、為すすべなく時を浪費していく。とりあえず一回風呂に入って戦略を練ろう。まだ間に合う。
そう思った矢先。ラインが1件。送り主は飯塚昭夫。かつては内閣副官房長官として私を支えてくれ、昨日も真っ先に来てくれた。衆院選後は一議員として戻り、引継いだときから今日まで退屈な日々を過ごしているという。そういえば、さっきの中継、閉じかけた目に力を入れていた彼が映った気がする。トーク画面を開く。
『藤田さん、いま暇ですか?』
『すごく』
『本会議終わったんですけど、』
「けど、」?何だろうか。
『飯食いに行っていいですか?』
来た。流れが変わった。
『君がそう言わなければ俺が誘うところだったよ』
『笑 言われたもの買ってくるんで』
やはりそうか。ロスは私だけじゃなかったようだ。だがこれは前例を作った。今後何かあれば同じロスを抱える者と時間を共に過ごせばいい。何だ、簡単じゃないか。
よし、いずれにせよ風呂に入ろう。
ちなみにこの後飯塚が来たものの、これまでの感傷に浸ったせいか1時間くらい話題が見つからなかったことは別の話である。