悪魔の甘言
ヴァンは捕食が終わるまでは様子見に徹するつもりだった。
にも関わらず、今こうしてここに立つその理由は二つ。
一つは目の前の雑魚が、自身の誉れでもある魔王軍の幹部を自称したこと。
これは許し難い大罪だ。
魔王軍は敬愛すべき魔王様の率いる、精鋭部隊。
属する者は一定レベル以上の強大な悪魔で、その幹部ともなるとその強さは、当然悪魔の中でも最高位。別格の強さを誇る。
実際、ヴァンを除いた他の幹部は皆、悪魔すらも超越する邪神の域にも達している。
そんな魔王軍の幹部を目の前の低級悪魔風情が名乗るなど、許せるはずもないだろう。
そして、もうひとつの理由。
それは今後ろに息も絶え絶えに倒れ伏す女の子にある。
強い人間だ、と彼は思った。
幼き身なのに全身の至る所を切り裂かれ、足が吹き飛ばされてなお生きようと足掻き、足掻いて、自身より遥かに格上の存在であるあの悪魔へと木の棒を振るった。
死の直前の最期の抵抗かと思ったが、そんなものではない。
あれは生き残る為に振るった一撃だった。
勿論あの悪魔にはダメージこそはなかったが、その生への強い執着に彼は興味を示した。
(面白い人間だ。ここで消えるのは惜しい)
そんなことを思いながらヴァンは、すぐ目の前まで迫る悪魔の鋭い爪の切っ先を呆然と眺める。
特に回避するわけでも、防御するわけでもなく、ただ呆然と。
避けるまでもない。
防御するまでもない。
そう言うかのように余裕な表情で、彼は悪魔の一撃を受け入れる。
ザッと虚空を抜けて刃のように爪が彼の体に刻み込まれたーーかのように思えた。
だが、実際は違う。
「っ!」
その爪はヴァンの体を引き裂くこともなく、彼の体に触れる直前で停止していた。
「……所詮は低級。俺の元に攻撃を届けることすらできないか」
「こ、れは……、『魔力の断層』だと……」
「ああ、そうだ。お前と俺との間にある乗り越えることが叶わない、次元の差だ」
魔力の断層というのは一定レベル以上の悪魔ならばデフォルトで備わっている、一種の自動防御機能のようなもので、その強度は悪魔の有する力によっても違ってくる。
「は、はは、魔王様と同じ、高位の悪魔というわけか」
ぼそりと悪魔は呟いた。
その言葉にぴくりと彼は反応する。
「魔王様、ね。くく」
憤怒に身を焼かれてしまいそうだ。
あのお方を、唯一無二の存在でもあるあのお方の名を、名乗るなど。
やはり許せない。
「もういい。お前は疾く去ね」
とんと彼は目の前の悪魔の頭を指先で軽く突く。と、たったそれだけで悪魔のその黒い身が、風船のように弾け飛んだ。
「……魔王を騙るなど許さない。あのお方はこの天上天下に唯一無二の存在だ」
朽ち果てた悪魔の残骸を眺めてぼそりとヴァンは呟いた。
「その名を騙るなど、魔王様の忠臣たるこの俺に宣戦を布告しているのも同義」
ぐしゃりと彼は悪魔の血肉を踏み付けて、くくくと笑い、そこで満足したのかゆっくりと彼は後ろを向く。
「よかった、まだ辛うじて生きているな」
彼は倒れる女の子の元までゆっくりと歩み寄る。と、彼の歩みに対するように女の子の体が強ばる。
「怖がる必要はないよ。別に君を取って食おうってわけじゃない」
女の子の手前まで近寄るとその場にしゃがみこむ。
「君は実に興味深い。どうだ、俺のものにならないか?」
「ぁ、……ぅ」
苦痛の声が漏れる。
「俺のものになるなら悪いようにはしないよ。今直ぐにその苦痛から解放してあげるし、君の望むものを与えよう」
悪魔の甘言をヴァンは女の子の耳元で囁くように言う。
「さあ、どうする?」
◆
全身から血が抜かれたかのように寒い。
本当にまだ自分は生きているのだろうか。
とくんとくんと微かに刻まれる鼓動の音だけが彼女に生を実感させる唯一の要素だが、それも刻一刻と弱まっている。
ああ、自分は死に向かっているのだろう。
(……死にたく、ない)
全身を蝕む死の感触から抗うように彼女は、懸命に喪失しつつある意識の綱を自身の元へと手繰り寄せる。
だが、所詮は人間。
彼女がどれだけ生への執着を見せたところで死を超越することは物理的に不可能。
段々と意識に闇が降り注いでくる。
(まだ、何もしてないのに……、それなのに……嫌だ、死にたくない)
ぐっと握り拳を作り、女の子の脳裏に走馬灯の駆け抜けた。
それは血だらけの記憶。
血の海の中に佇む一人の男。
男は笑っていた。
足元に散らばる肉塊を踏み締めて、天を仰ぐように男は大笑していた。
(あいつを、殺すまでは……絶対に……死ぬわけには)
ギリッと女の子は奥歯を噛み締める。
が、もう限界だ。
女の子の意識は死の闇に閉じつつあった。
そんな時だ。
その声を彼女の意識が拾い取ったのは。
「ーーよかった。まだ辛うじて生きているな」
びくりと彼女の体が反射的に強ばった。
何だ。この声は。
聴かされている。
強制的に聴かされている。
喪失しつつある意識の中でも、血のように全身を駆け抜けるその声は、甘く蕩けるような声色を放つ。
「ーー怖がる必要はないよ。別に君を取って食おうというわけではない」
幻聴か。
いや、それにしては鮮明に聴こえてくる。
「ーー君は実に興味深い。どうだ、俺のものにならないか」
何を言っているんだろう。
言ってる意味が分からずに彼女は口を開く。が、発することができるのは「ぁ、……ぅ」という喘ぎ声だけ。
上手く言葉を紡ぐほどの余力は、今の彼女にはない。
「ーー俺のものになるなら悪いようにはしないよ。今直ぐにその苦痛から解放してあげるし、君の望むものを与えよう」
ぴくりと彼女は眉を動かす。
私の望むもの。
それを与えるとこの声は言った。
「ーーさあ、どうする?」
この声が何かまでは分からない。意識が鮮明だったら警戒し、熟考した果てに答えを示すかもしれない。
だが、死の淵に追いやられた今の彼女には、その声のことを深く考える思考能力はなく、まるで蜘蛛の糸を垂らされた咎人のようにその齎された好機を彼女は獣のように掴み取る。
(いい、よ。私の全てをあげる)
にこりと彼女は笑った。
(だから代わりに、私に力を)
笑い、それでいてその目に憎悪の焔を宿す。
(奴らを殺せるだけの力を……)
それが彼女のーーレイリス・アルルガンダの願いだった。
「ふふ、契約は成立だ。我が眷属として汝には新たな理を与える」
「……え! っっっ!」
な、にこれは。
どくんと体が跳ねて、全身の寒気がグツグツ燃えたぎるような熱気に包み込まれた。
(あ、つい、あつい熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱いーーーー)
全身を炙られているような激痛だ。
「あががががーーー」
悶え苦しみ、そこで彼女の意識が暗転し、次に目覚めた時には全ての苦痛から解放されていた。