地を這う獣
足を止めるな。前に進め。呼吸しろ。呼吸に合わせて足を出せ。
ユーナ・ハナムラは、朦朧とした意識の中で自分にそう言い聞かせ続けていた。タカヤマから車両に乗って移動しはじめたまではよかったが、慣れない運転のせいで半分も進まないうちに地面の起伏に乗り上げてしまったのである。
動けなくなった車両を捨てて、ユーナは自分の足で走りはじめた。しかし、起伏を繰り返す土地を走ることは想像以上に困難で、ユーナの体力はみるみる消耗していったのである。車を乗り捨ててから一時間もすると汗が出なくなり、ユーナは自分が脱水症状になっていることに気づいた。しかし、手元には水などない。
ユーナはそれでも足を前に踏み出し続けていた。かすんだ目に見えている投光器の明かりだけが、ユーナの心の支えである。
あの光まで行けばいい。あと少しだ。なのに、さっきからちっとも近づかない。こんなに頑張っているのに——。
地面のくぼみに足をとられて、ユーナは転倒した。立ち上がろうとしても、体が言うことをきいてくれない。とっくに限界は超えていた。
もう無理。立てない。
ユーナはあきらめて地面に横たわる。頬に触れた地面は、ひんやりとして心地よかった。
もう、いいよね。すごくがんばったから。三時間、四時間、いや、もっと? これだけがんばったんだから、もうこれでおしまいにしても、誰も責めたりしないよね……。
ユーナは目を閉じる。
脳裏に、タカヤマで死んだエマの顔が浮かんできた。けわしい表情をしたエマが、きっぱりと言う。
『放り出して逃げるなんてできるか』
そんな言いかたしないで。わたしはもう歩けないの。
『行動しろ。残念ながら、わたしたちはまだ生きている。生きている以上は、行動しなければならない』
エマの姿は、いつの間にかミキに変わっていた。
『行動しろ。まだ生きている』
ミキ隊長……。そう、わたしはまだ生きているんだ。手も足も動く。
ユーナは食いしばった歯の間から獣のような声を絞り出して、立ち上がった。二歩進み、また倒れる。
それでもユーナは地面を這うようにして、前に進み続けた。
コーキ・ホシは、全体の指揮をとることの重圧に押しつぶされそうだった。
ミキが倒れたことで急きょ指揮を引き継ぐことになったのだが、気を配らなければいけない範囲が広すぎるのだ。そのくせ、判断ミスは味方の生死に直結する。
ミキババアめ、こんな重圧の中でいつも平気な顔をしてやがったのかよ。
右腕を吹き飛ばされても平然と指揮をとっていたことと合わせて、コーキはミキに畏敬の念を抱いた。
「とんでもねえ化け物だぜ、あのババアは……いや、ババアなんて呼んじゃあ失礼だな」
思わずコーキの口をついて言葉が出た。となりにいた若い兵士が首をかしげる。
「なにかおっしゃいましたか?」
「いや、なんでもない。第三、第四小隊からの連絡はまだないのか?」
「ありません」
コーキは考えこんだ。
工場内に突入した部隊は、定期的に本隊への連絡をすることになっている。しかしそれは建前で、工場の奥深くに入りこむと本隊への連絡がままならなくなるのが常だった。
第三、第四小隊が窮地にあって連絡できないのか、奥まで入りこんで連絡が遅れているだけなのか、コーキには判断がつかない。窮地にあるなら増援を送ってやるべきだったが、兵力はぎりぎりだった。
まわせるとしたら、ポイントE2の見張りをしている第二小隊か。しかし、第二小隊を動かすと、万一E2から敵が出てきた時の備えが手薄になる。どうする?
決断できずに悩んでいたコーキの耳に、獣のような声が聞こえた。
コーキはふり返り、肩にかけていた小銃を構える。周囲にいた部下たちも、小銃を構えていた。
荒い呼吸音となにかをひきずるような音が、夜の闇の中を近づいてくる。それは地面をのろのろと這っていた。
「ああぁっ」
それは吠えた。コーキの耳には、苦しそうな女の声に聞こえた。
「待て! みんな撃つな! それは人間だぞ!」
地を這う獣のような動きで投光器の明かりの下に入ってきたのは、小柄な女兵士だった。体も顔も土まみれだったが、目だけはぎらぎらとした強い光を放っている。
コーキは彼女に見覚えがあった。たしか、タカヤマの警備のために残してきた班のメンバーだったはずだ。たしか、名前はユーナと呼ばれていた。
コーキはユーナに駆け寄る。
「おい、あんた、ユーナだろう? どうしたんだ? タカヤマでなにがあった?」
陸上で、空で、ぎりぎりの戦いは続く。
戦士たちの心が試される状況の中、戦いの次なる焦点は……。
次回、『ポイントE2』にご期待ください。




