この理不尽な世界
おいおい、なんだよこれは……。
クリストファーは血で染まった自分の腹を見て、呆然とした。
一瞬遅れて、アウムに撃たれたのだということに気づき、自分の命はそう長くないことを悟った。出血量が多すぎる。
ちくしょう。
このことで、またオリオは自分自身を責めるんじゃないか。そんな必要もないのに。
オリオは最後までクリストファーを助けようとしてくれた。それだけで十分なのだ。わずかに及ばなかったが、オリオが全力を尽くしてくれたことには、疑う余地がない。
旋回して戻ってくるオリオ機に向かってクリストファーは手をふろうとしたが、体から急速に力が抜けていって思うように動かなくなっていた。クリストファーは残された力をふりしぼって、親指を立てた右手をオリオ機に向けて突き出す。
ありがとうよ、オリオ。初対面でいきなり殴ったおれと友だちでいてくれて。
過去を忘れろとは言わないが、未来を信じろ。未来には、無限の可能性がある。オリオ、過去の自分を責めるな、許すんだ。オリオ、今の自分に自信を持て。オリオ、おまえは最高の男だ。オリオ、おまえの友情に、心から感謝している。オリオ、できればもう一度、おまえと酒を酌み交わしたかったな……。オリオ……オリオ……これが終わったら、チノにいる妻のアリサと娘のニナに……愛していると……伝えて……。
クリストファーは自身が愛した人々とのやさしい記憶に包まれて、微笑みながら静かに息をひきとった。
「クリストファー!」
オリオはコクピットの中で絶叫した。
クリストファーはオリオに向かって親指を立ててみせたが、その腕からゆっくりと力が抜けていくのが見えた。オリオ機が最接近した時には、クリストファーの体からは完全に生気が失われていた。
パラシュートにぶらさがったクリストファーのなきがらの下を、オリオはなすすべなく通過する。オリオは風防ガラスに落ちてきたクリストファーの血を見上げた。血は赤い筋となって、後方へと流れ去っていく。
なぜだ。なぜクリストファーが死ななければならない? ケンカっぱやいけど人情家で、正直で飾らない魅力的な男が、なぜ?
「なぜおれじゃなく、クリストファーなんだ!」
オリオは吠えた。
そもそも、オリオがアウムを撃ちもらさなければ、クリストファーが死ぬことはなかったのだ。
おれの責任だ……。
オリオは歯を食いしばって、目を閉じた。
体の中では、激しい怒りがうずまいていた。クリストファーを救えなかった自分への怒りと、こんなところで死んでしまったクリストファーへの怒り。そしてなによりも、今の状況を生み出したこの理不尽な世界への怒りが、オリオの胸の内に満ちていた。
こんなことは、これで終わりにしなければならない。こんな怒りや悲しみに振り回されるのは、自分たちで最後にするべきだった。
オリオは目を見開いた。
空にはまだアウムがいて、味方は戦い続けている。この体はどうなってもいい。これ以上の不幸な死を避けるためにも、オリオはアウムを全力で叩きつぶさなければならない。
「おおおぉぉぁぁっ!」
オリオは言葉にならない叫びをあげると、アウムに向けて猛然とタコを加速させた。
アムリーシュ・カーンは、照明弾の弱い光の中でクリストファーのパラシュートが降下してくる様子を見ていた。
アウムはクリストファーを狙っていた。オリオ機がかけつけてアウムを撃墜したが、その救援が間に合ったのかどうかは遠目にはわからない。ただ、身動きせずにパラシュートにぶら下がったまま降りてくるクリストファーを見て、アムリーシュは悟った。
そうか、あのクリストファー・コーも逝ってしまったのか……。
愛すべき男の死に直面して、アムリーシュの胸は張り裂けそうだった。
アムリーシュは気持ちを落ち着けようと、深呼吸を繰り返す。一人で取り残されることが、ただただ悲しかった。どうしてこの世界に自分だけが取り残され続けるのか、その理由を誰かに教えてほしかった。
アムリーシュが悲嘆に暮れている間に、オリオ機が異常な加速を見せて上空のアウムに向かっていく。クリストファーを助けることができなかったオリオは、自分のへの怒りで頭がおかしくなりそうなのだろう。まるで、空の悪鬼と呼ばれていた頃の自暴自棄なオリオが戻ってきてしまったようだ。
「これは、わしが行かねばならんかのう……」
アムリーシュは、ため息まじりに言った。
アムリーシュが乗りこんでいる車両の運転手、ワカナ・エンドーが声をかけてくる。
「いつそうおっしゃるのかと思っていましたよ、アムリーシュ。降下した操翼士たちのタコの場所までお送りします」
ワカナは実によく気がつく。アムリーシュはワカナに微笑みかけながら、うなずいた。
「まったく、年寄りに楽をさせてくれない連中ばかりで困るわい。じゃが、これ以上若い者が命を散らすのを黙って見ているわけにもいかん。とくにオリオの操縦が危うい。すまんが、急ぎで頼む」
ミキ・ウィリアムズの後を継いで指揮をとるコーキ・ホシ。
その重圧におしつぶされそうなコーキの前に姿を表したものは……。
次回、『地を這う獣』をどうぞお楽しみに。




