二章 五話 〜滴る火〜
撫子は身構えた。
男は少しうろたえる感じで、同じく身構える。
この男が、さっきの人を・・・?
考えては見たがそんな事の答えが出るはずも無く、撫子は深く深呼吸をした。
肺が空気を吸い込み、そして吐き出す。
こんな単調な行為が、不思議と気を落ち着かせてくれる。
胸が今までになく高く鳴る。緊張で今にも心臓がはちきれそうだ。
しかし、と、撫子は前を見据えた。
その反面、気分はどんどん高揚していく。
次の瞬間、撫子は持っていた鞄を離した。
そして、
ザシッ
鞄が地面に付くより早く地面を蹴って男の懐まで移動した。
「ぇあッ!?」
うろたえる男を他所に、撫子は自分でも驚くスピードで男の後ろに回りこむ。
同時に、足を引っ掛けて男を仰向けに引き倒した。
思うとおりに体が動く。昨日までは無かった感覚。朝感じた違和感。
そして今、それが快感になりつつある。
「ツッ!」
男は受身も取れぬままに倒れこむ。
その上に、撫子は男の腕を押さえて馬乗りになった。
傍から見れば目を背けたくなる光景ではある。が、そんな事に形振り構っている暇は無い。
「教えて!」
撫子は叫んだ。
「アナタは何を知ってるの!?さっきの・・・」
死体はアナタが―――と本当は続けたかったが、それは腹への衝撃でかき消されることになった。
「ぐ・・・っ!」
腹への衝撃で、後ろに吹っ飛ぶ。男が撫子の腹を足で蹴ったためだった。
衝撃で後ろに吹っ飛んで、しりもちをつく。
立ち上がって男の方を見たときには男も立ち上がっていて、更にその手には何かが握られていた。
それは撫子達の日常で見慣れたもの。
それは、
透明な液体の入った『ペットボトル』と、『ライター』、だった。
多分、ペットボトルに入っているのは色とライターの所持からして、油ではないかと思われる。
これでさっきの“生きた死体”を・・・?
身構えつつ、撫子は男に飛び掛る瞬間を見逃すまいとしていた。
そして、
シュボッ
音を立てて、ライターに火がついた。
やはり、ペットボトルの中身は油―――
撫子が考えをめぐらせているその刹那、
男は突然、
“その火に向かってペットボトルの中の液体をかけた”。
瞬間、
「・・・?」
撫子は一瞬目の前で何が起こっているのかわからなかった。
と、いうより、今も理解できていない。
普通、火は消えて、水は地面に流れ落ちるはずである。
が、
撫子の目の前にあったのは、浮かぶ“火”と“水”だった。
それも、双方ともにその形状がおかしい。
火は宇宙空間に放たれた水のように丸くなり、片や水は燃え滾る火のように猛っている。
まるで、火と水を形状だけそっくり移し変えたかのような。
何・・・、これ・・・?
予期せぬ状況に、撫子は驚きを隠せないでいた。
そもそもが、水と火が何も媒介もないまま中空に浮かんでいること事態がおかしい。
ああ、いや、おかしいと言えば前からおかしいのだが。
いや、今はそんな事を考えている余裕はない。
「ぁぁあああッ!」
ザシッ
頭の中の邪念を払うように撫子は叫び、地面を蹴って男に向かっていった。
が、
「―――!」
男はそれをかわした。かわした、というよりは、全力で避けた、と言った感じ。
その男の動きに連動するように、中空の火と水は男について動いている。
そして、
不意に男が右手を撫子の方へ伸ばした。
その瞬間、中空に浮かんでいた水のような火が撫子に向かって飛んできた。
「キャァ!」
撫子はそれを伏せるようにして辛うじて避けた。
そして飛んでいった火はそのまま止まることなく撫子を通り過ぎ、後ろにあった民家の木の上先端に当たった。
パチッ パチッ
燃えた。
木が。
火が当たったのだから当然だ。
が、
その燃え方は異常だった。
木の先端に当たった火は、まるで水が滴るかのように上から下に“垂れて”いた。
木は火に燃やされる、というよりも“纏わりつかれる”といった感じで、どんどんと消し炭になっていく。
まるで、水を浴びせられたかのよう・・・。
「どうなってるの・・・?」
思わず、撫子は呟いていた。
“何か”が起こっている。
それは、撫子には解っていた。
だが、
ああ、だけど、と、撫子は男を見直る。
もう、退けない。
そう思う。
もう、退く、とか、逃げる、とか、そういう話じゃなくなっている。
撫子はもう一度深呼吸をすると、男に向かって飛び掛っていった。
半年ぶりの次話となってしまいました。
この話を待っていた皆様、本当に長らくお待たせいたしました。