終章
仕事を終えたアラストル・マングスタは大聖堂傍にある酒場で、ナルチーゾ産の葡萄酒を勢い良く飲み干した。
「んでよ、そん時私は言ってやったんだ「足でこの私に勝てる奴はクレッシェンテにはいねぇ」ってよ」
直ぐ隣の完全なる酔っ払いは店主に絡んでいる。
どこか見覚えのある栗毛の女。
「げっ……」
まだそれほど酔ってはいなかったが、アラストルは酔いが醒めた気がした。
隣に居た女こそ、玻璃の姉、瑠璃であった。
正直なところ、この数ヶ月、逢うたびに攻撃を仕掛けられたり睨まれたりしていたアラストルはこの女が苦手であった。
「瑠璃、飲みすぎだ」
「うるせぇ。玻璃が戻ってこねぇんだよ! 私の可愛い玻璃が!」
ついには暴れだしそうな彼女から少しでも離れようと、席を立とうとした瞬間、アラストルは肩を捕まれた。
「兄さん、聞いてくれよ。私の可愛い妹は仕事に行くって言ったきり三ヶ月も戻らないんだ」
「……そうか」
完全に絡まれた。
だが、彼女はアラストルを認識していない様子だ。
彼は諦めて、新しい酒を注文し、大人しく話を聞く覚悟をした。
「あいつは間違いなくこの国、いや世界一可愛いから誘拐でもされたんじゃねぇかって心配で心配で……」
ついには瑠璃は泣き出したが、周りの連中はそんなことは気にしない。それぞれカードや雑談を楽しんでいる。中には商談らしきことをしている者もいるが、誰も自分の周囲には干渉しない。
ここはそういう場所だ。
だが、後から誰かが近づいてくる気配がする。
「ココア、あったかいの」
「おかえりなさいませ。直ぐにご用意させていただきます」
店主の態度はがらりと変わる。
そして、アラストルは隣に座った記憶にある声の主を見る。
「……玻璃か?」
「……うん」
店主からココアを受け取り幸せそうな表情の彼女を見て、彼は一瞬固まった。
「ただいま」
「……お前、全然変わらないな」
「そう? あつっ」
ココアを飲めずに覚まそうと必死な彼女に笑みが零れる。
「元気だったか?」
「うん」
反対側の瑠璃が既に酔いつぶれていることを目で確認し、再び玻璃に問いかける。
「ローザはどうだった?」
「ローザ伯、とっても元気だったよ。薔薇を用意するのにちょっと時間が掛かったけど。量が多すぎたから馬車を借りたの」
「ほぅ」
良かったなと彼が言えば玻璃は少しばかり不満そうだ。
「馬車は嫌い」
「そうか。ところで……お前のマスターにはもう会ったのか?」
「ううん。これから。多分もうすぐここに来るから。マスターも仕事が終わったらここに来るの。一番強いお酒を一瓶空にして帰って朔夜にお説教されるの」
楽しそうに玻璃は言う。
「……そうか。それと……この潰れてるのはお前の姉貴じゃねぇか?」
「……他人のふりしておこう。ジャスパー、後でアンバー呼んで」
「それが……アンバーは今日から任務でオルテーンシアに行っていまして不在です」
「……じゃあ放っておこう。瑠璃は重くて運べないわ」
玻璃は興味なさそうに言う。
仮にも姉に対してそれでいいのだろうか。
「カロンテが言ってた。あまり過保護にしすぎるとプルトーネ様みたいなダメ人間になってしまうので時には厳しくしつけることも必要だと最近気がつきましたって」
「……ローザ伯の地位ってそんなモンなのか?」
「うん。そんな感じ」
酷い話だ。
アラストルは溜息を吐いた。
「伯爵付きの執事は優秀で過保護だけど口が悪いってマスターが言ってたよ」
「そうか」
玻璃はココアを飲み干し、追加で色々注文している。
「店主とは親しいのか?」
「ジャスパー? ジャスパーは私のだから」
「は?」
「ジャスパーは私の道具。だから、この店も私のもの。一番上はマスターだけど」
玻璃は退屈そうに言う。
「……繋がりが見えん」
「玻璃様、あまり内部情報を堂々と公開しないでください」
「アラストルだからいいの」
「よくありません」
褐色の肌の青年は少しばかり困った様子で言う。
「本当に困った子ですね。玻璃は」
「あ、マスター! ただいま」
「おかえりなさい。ローザはどうでしたか?」
「暗くてじめじめして過ごしやすかった」
「それはよかった。僕は行きたいとは思いませんが」
笑顔でさらりと言う赤毛の男にアラストルはびくりとした。
「瑠璃はまたこんなところで……ジャスパー、後で部屋まで運んであげてください」
「玻璃様から放っておくようにとのご指示を頂きましたので」
「……相変わらず、玻璃の言葉しか聞きませんね」
「私は玻璃様の部下ですので」
アラストルは目の前の男に驚く。
見上げた忠誠心だ。とても自分は真似出来まいと考える。
「で? アラストル・マングスタは何故僕の娘たちに挟まれているんです?」
「……偶然だ。一人で飲んでたらこいつに絡まれた」
隣の女を指差せば、赤毛の男、セシリオ・アゲロは溜息を吐く。
「仕方の無い娘ですね。で? 玻璃は何故ここに?」
「ご飯まだだったから。ボロネーゼはやくっ」
玻璃は足をぶらぶらと動かしながら店主に催促する。
「はい、お待たせいたしました。チーズは如何なさいます?」
「山盛り」
「はい」
「……掛けすぎだろ……」
「アレが玻璃の標準です」
セシリオ・アゲロは溜息を吐きながら言う。
「ところで、緋の悪魔はどうです?」
「は?」
「最近会っていませんからね」
「……いや、うちのボスは……最近アンタが現れて、また宝石がなくなっただの騒いでいたが?」
「……それで?」
「通行人が五人ほど炭になった」
「そうですか。相変わらず魔力のコントロールの出来ない男ですね」
セシリオは溜息を吐きそれから玻璃の隣に腰を降ろした。
「いつものものを」
「はい」
褐色の青年はすばやく優雅に働く。それこそ見惚れる仕種だ。
「お前、部下がいるほどの幹部だったんだな」
「別に。拾っただけ」
玻璃は興味がなさそうに返事をする。
「アラストルは、部下はいないの?」
「一応ボスのほかは全員部下ってことにはなるが、幹部クラスはほぼ平等だ」
「ふぅん」
自分で聞いたくせに玻璃は全く興味を示さない。
フォークで上手く掬えないパスタと格闘しているせいか、それとも単に興味が無いのか。
「アラストルは緋の悪魔が好き?」
「ん?」
「あの業火のような人が好きなのかなって思っただけ」
「好きっつーか、憧れるって奴だ」
「……わからない」
玻璃は一瞬だけ目を見開いて、それから再びパスタに視線を戻す。
「玻璃には難しいかもしれませんね」
「うん」
「そういう玻璃は、その男、アラストル・マングスタが好きなんですか?」
不機嫌そうにセシリオ・アゲロはアラストルを睨む。
「わからない」
「そう、ですか」
「好きってよくわからない」
玻璃はぽつりと呟く。
「では、僕のことも分かりませんか?」
「……マスターは大好き。朔夜も、瑠璃も、ジャスパーもみんな。でも、アラストルはよくわからない」
「ほぅ……」
セシリオ・アゲロは興味深そうに玻璃を見て、それからアラストルを見る。
「意味がわからねぇよ」
「だって、よくわからない。でも」
玻璃はアラストルを見た。
「ずっと一緒に居たいって思う」
「は?」
アラストルは固まった。
「玻璃様? 一体何を?」
店主である褐色の青年も一瞬固まり、グラスを二つほど割ったが、玻璃は気にせずに食事を続ける。
「アラストルの傍に居るのは多分好き」
何も考えていないようなあの表情で、玻璃は呟いた。
「……アラストル・マングスタ……表に出なさい。何なら裏でも構いません。無料奉仕で殺してあげましょう」
「いや、ちょっと待て……待ってください……真面目に待ってくれ……」
アラストルは冷や汗が頬を伝うのを感じる。
目の前の男は本気で怒っている。
「……マスター、貴方が手を汚すまでもありませんよ。私がやります。大丈夫です。私、上手いですから。日頃の副業ですっかりと見に着きましたから。アイスピック一撃で仕留めてみせます」
「いや、お前ら待て!」
二人の目は本気だ。
アラストルは思わず固まる。
が、もう一つの殺気を感じ取り、ますます動けなくなる。
「……ジャスパー、死にたいの?」
玻璃だった。
そして、階段から降りてくる足音。
「セシリオ、お店で問題を起こさないで頂戴って、いつも言っているでしょう?」
「朔夜? 何故ここに?」
「騒がしかったからよ。あら! アラストル! 久しぶりね。また髪が伸びたんじゃない? まぁっ! 玻璃ちゃん! お帰りなさい」
忙しい人だとアラストルは思った。
朔夜ときたら、説教と同時に挨拶をする。器用だ。
さっきまでの緊張感も消えうせ、安堵の息を吐く。
「セシリオ、帰るわよ」
「待ってください、まだ話は終わってません。一撃で仕留めますから」
「……玻璃ちゃんの恩人でしょう?」
「……ですが! 僕はまだ玻璃を嫁に行かせるつもりはありません!」
「は? 嫁?」
寝耳に水だと思わず聞き返す。
「何です? 玻璃のことは遊びだったとでも言うのですか? 殺しますよ?」
「いや、誤解だ!」
アラストルは思わず叫んだ。
「俺と玻璃はそういう関係じゃねぇよ」
なぁと確認すれば玻璃は首を傾げる。
「おかわり」
呑気におかわりまでして、ジャスパーをさらに慌てさせているが、彼女はそれすら気にしていない。
「アラストルは、身内? 家族みたいだって思う」
「……これって、どうなのかしら?」
「殺しておけば問題なさそうです」
「おい……お前ら……」
アラストルは護身のため、剣に手を伸ばすが、勿論こんな場所で抜く気も無い。
「……やぱりいらない。あとで部屋に持ってきて」
「玻璃様?」
「アラストル」
「ん?」
「大好き」
玻璃の言葉にその場の全員が固まった。
「って、リリアンなら言うと思うよ」
「……そ、そうか……」
「ずっとうるさいの。夢に出てきて」
「夢?」
「アラストルが気付いてくれないって」
「……それは夢だ」
夢の話。現実ではない。
どこか自分に言い聞かせるようにそう言うと、直ぐ目の前に玻璃の赤い瞳がある。
「逃げても追ってくるの。過去も、未来も」
「は?」
目の前に居たかと思うと、玻璃は直ぐに立ち上がる。
「冗談。マスター、仕事以外の殺しはダメ、でしょ?」
「……玻璃に言われては、仕方ありませんね」
「……折角だから、上がってく?」
玻璃はアラストルを振り向いた。
「は?」
「上、住居スペースなの」
「宿屋じゃなかったのか?」
「うん。でも、私はここかアジトに居るから」
部屋があるのと玻璃は言う。
「……お前、直ぐ上に部屋があるなら姉貴を寝かしてやれよ」
「瑠璃のは自業自得よ」
「全くです」
セシリオはアラストルに絡むことは諦めたのか、酒を飲み始める。
「……たまには、痛い目に見なきゃ、わからないわよね? この子は」
朔夜は溜息を吐き、それから玻璃の座っていて席に腰を降ろす。
「まぁ……玻璃ちゃんが選んだんだから仕方ないわ」
「ん?」
「貴方でも我慢してあげる。義弟君」
「は?」
「責任、取りなさい。嫁入り前の女の子と同じ部屋で生活するなんて信じられないわ」
「あ、いや……」
アラストルは心に決めた。
二度とこの酒場には足を運ばないと。
たとえどんなに職場から近かろうと。
「玻璃、こいつら何とかしてくれ」
「……ジャスパー、今日は私の奢り。アラストルの分も引いておいて」
「よろしいのですか?」
「うん」
「いや、勘定のことじゃねぇよ」
「じゃあなに?」
玻璃は理解できないという風にアラストルを見た。
「家まで、送ってあげようか?」
「いや、そうでもない。お前の頭はどういう作りなんだよ」
アラストルは溜息を吐いた。
朔夜はくどくどと説教を始めだす。
「こいつら、黙らせるとかよ」
「無理」
「即答かよ」
アラストルは立ち上がる。
「帰る」
「そう」
「ああ」
「……今度、遊びに行ってもいい?」
「……好きにしろ」
「長椅子」
「ん?」
「私の場所、空けておいてね」
「は?」
アラストルは呆れて玻璃を見る。
図々しいにも程がある。
「俺の家だ」
「私の場所」
「……ほんっと、遠慮って言葉をしらねぇな。分かったよ。あの椅子はお前にやる」
「うん」
嬉しそうな玻璃の顔。
こいつ、本当に笑うようになった。
「お前、やっぱり似てねぇ」
「え?」
「リリアンは、育ちが悪かったからな。お前ほど上品には笑えなかったよ」
「私、奴隷出身だよ?」
「は?」
「マスターに拾われるまで、奴隷だった」
告げられた事実に驚く。
「けど……」
「笑えるのはアラストルのおかげかも」
そう、玻璃は確かに笑った。
「大好きだよ」
「また、リリアンからか?」
「ううん。違う。今度は玻璃から」
「……そうか」
笑みが零れるのがわかる。
今なら理解できる。
玻璃の言う好きは色恋沙汰とは全く無縁のそれであり、動植物を愛でるそれとも違う。趣向に対するそれでもなく、おそらくは。
家族に向けられるそれ。
「いつでも来い」
「うん」
記憶の中の幼い妹と、重なっていたはずの目の前の少女は、既に別であることがはっきりと分かる。
黒い少女。
不吉を背負ったような彼女は既に居ない。
酒場を出れば、外は月明かりに照らされている。
満月。
それは女神の象徴だった。
「アラストル」
「ん?」
「お兄ちゃん」
「は?」
「言ってみたかった。シルバを、そう呼んでみたかったこともあったの。でも……やっぱり変」
「当然だ」
一瞬、どきりとした。
けれども、やはり妹とは全くの別物で。
「お前はお前、俺は俺だろ?」
「そう、ね」
「分かったらとっとと戻れ。この時間は殺し屋も盗賊もうようよしてるぞ」
「そういう貴方も、私も殺し屋でしょ?」
「……そうだったな」
出会った日は、雨だった。
けれども、今は満天の星空。
まるで、それは心境を表しているようだ。
柄にも無く、アラストル・マングスタはそう考えた。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
前章で終わっても良かったけれど、リリアンと玻璃、シルバとアラストルをもう一度持ってきたかったのでここで。
只今修正版を作成中ですが、修正版は大幅な変更点が多いので全くの別物になりそうです。
また、ジル、瑠璃編 『黒の騎士と風の戦士』もこちらにて連載中ですので、よろしければそちらもあわせてお願いいたします。
それでは最後までお付き合いいただきありがとうございました。