第十九章
アラストル・マングスタが久しぶりに自宅に戻ると、部屋は随分寂しいような気がした。
それはいつも当たり前のように長椅子に横たわっていた玻璃が居ないせいだろうと彼は思ったが、組織内の問題も解決したのだから彼女がここに居る理由もないと思い直す。
「なんか……静かだな」
口数は少ない奴だったと思う。
ただ、口の悪い餓鬼みたいな女が一人消えただけでこれほどまでこの部屋の印象が変わるのかと驚かないわけにはいかない。
わがままで、気まぐれな猫のような少女は何も残さずに消えていった。
本当に何も残さずに。
「……いつの間に荷物まで処分したんだよ……」
部屋に人が侵入した形跡がないはずなのに、玻璃の服や絵が消えている。
よほど慣れている者が進入したのか、それとも全て幻だったのか……。
アラストルは極力考えないようにしながら、インスタントコーヒーにお湯を注いだ。
コーヒーを飲みながら窓の外を見ようとしたとき、思わずカップを落とす。
「玻璃!」
ガラス越しに中を覗き込む玻璃がいた。
しかも逆さまで。
「……一体何の演出だ」
「驚かせようと思って」
「……心臓に悪い」
このときばかりはアラストルも年齢を気にした。
「三十路だもんね」
「ああ」
「否定しないの?」
「事実はしかたねぇだろ」
玻璃は詰まらなさそうな顔をする。
「で? 何しにきたんだ?」
「ありがとう」
「え?」
「お礼、言ってなかったから」
玻璃は微かに笑った。
「何だ。ちゃんと笑えるじゃねーか」
「なに?」
「てっきり、人形みたいな気味悪い笑い方しかできねぇのかと思った」
「ふぅん」
玻璃は興味なさそうに返事する。
「じゃあ、もう行くね」
「え?」
「任務だから」
「任務?」
「うん。って言ってもお使い。ローザに行くの」
「また、随分遠くだな」
「うん」
「三月は戻らないってか?」
「うん……」
玻璃は少しだけ寂しそうな顔をした。
「ねぇ、アラストルも行かない?」
「は?」
「ローザ、良い所だよ。日光は浴びなくてすむし、なんだか不吉な雰囲気だし、阿鼻叫喚にまみれているし」
「……世間一般ではそれを不気味って言うんだよ」
「そう?」
「ああ」
アラストルは溜息を吐いた。
「それに、ディアーナの任務に俺がついていくわけにはいかないだろ」
「でも、女王様のお使いだから、アラストルが一緒でもいいと思う」
「は?」
「ローザ伯にね、お手紙を届けに行くの」
「それだけか?」
「あとね、お花を貰ってくるんだって。それも凄く沢山。数は良く分からないけど、マスターが連絡してくれたって言うから、後は観光気分で良いって」
玻璃はどこか楽しそうに言う。
「お使いくらい一人で行けよ」
「うん……」
玻璃は俯く。
それも、寂しそうに。
「あ、あのね……」
「ん?」
「また来てもいい?」
おそるおそる、という様子で玻璃はアラストルを見上げた。
「ああ、いつでも来い」
くしゃくしゃと彼女の頭を撫でれば、彼女はくすぐったそうに身を捩り「ありがとう」と小さく言う。
「……またね」
「ああ。迷子になるなよ?」
「ならないわ」
「本当か? 前科有りだろ?」
「もう、迷わないもん」
むぅっと頬を膨らませて言う姿はまさに子供のそれで、彼は思わず笑った。
「じゃあ、気をつけていけよ」
「うん」
そうして、玻璃を見れば、窓から外へと飛び出していく。
「おい! 危ねぇだろ!」
叫べども彼女の姿は無い。
「ったく……」
しょうがない奴だ。
けれども溜息よりも、笑みが零れたのはアラストル・マングスタ自身驚いた秘密である。