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母が最後に聞いた「かあ」

掲載日:2026/10/05

この物語が描こうとしたのは、特別な人間ではなく、ごく普通の母親です。 息子を愛し続けた人であり、追い詰められた人でもあります。

朝は、やかんの音から始まる。


七十九歳の登美子は、五時に目が覚める。目覚ましはいらない。

隣の六畳間で息子の健一が寝返りを打つ気配が、四十八年間、

彼女の体の中の時計になっていた。


台所でやかんを火にかける。湯が沸く前、鉄がきしむような小さな音がすると、

襖の向こうで健一が「ん」と言う。


彼は、言葉らしい言葉をほとんど持たない。


「ん」は「起きた」で、「あ」は「痛い」か「嬉しい」で、

「かあ」は登美子のことだ。


それだけの語彙で、彼はこの家の朝を回してきた。


「はいはい、いま行くよ」


襖を開けると、健一は布団の中で天井を見ていた。


大きな体だった。肩幅は登美子よりずっと広く、

抱き起こすたびに腰が悲鳴を上げる。


それでも、彼女の顔を見つけると、健一の目尻はくしゃりと下がる。


その顔を見るために、登美子は毎朝、痛む腰をなだめて襖を開けてきた。


着替えを手伝い、顔を拭き、決まった青い縞の湯呑みにぬるめの茶を注ぐ。


別の湯呑みでは飲まない。一度だけ違うものを出したら、

床に投げて、一日じゅう不機嫌だった。


「ほら、電車の時間だよ」


テレビをつけると、朝の情報番組の隅に、

どこかの私鉄の映像が流れた。


健一は身を乗り出して「あー、あー」と声を上げた。


彼は電車が好きだった。


電車の名前も種類も知らない。ただ、走っていくものを見るのが好きだった。




二

医者は、レントゲン写真を登美子のほうへ向けて言った。


「率直に申し上げます。ここに影があります。それから、もう一箇所」


「手術は」


「難しいでしょうね。年齢もありますし、心臓も」


窓の外で、救急車のサイレンが遠ざかっていった。


登美子は、自分でも驚くほど静かに訊いた。


「あと、どれくらいですか」


医者は言葉を選んで、一年、と言った。


長くて、という言葉は付かなかったが、付いているのは聞こえた。


帰りのバスで、彼女は窓に額をつけていた。


健一は今日、ヘルパーさんが見てくれている。週に三回、

一回二時間。それが、この町で彼女が手にできた精一杯の「支え」だった。


施設の順番待ちは、もう九年になる。


役所の窓口の若い女性は、毎年同じ申し訳なさそうな顔で言う。


「空きが出ましたら、必ずご連絡します」


空きが出るのは、誰かが亡くなったときだ。


登美子はそのたびに、順番を待つことと、

人の死を待つことが同じ列に並んでいるように思えた。


夫は二十年前に亡くなった。


弟は遠くにいて、年賀状だけが続いている。


健一の世話を代わってくれる人間は、この世のどこにもいなかった。


「私が死んだら、あの子はどうなるんだろうねえ」


呟きは、バスのエンジン音に紛れて消えた。




三

若い頃は、そうは思わなかった。


健一が三歳のとき、医者に「重い遅れがあります」と告げられた。


夫は黙って煙草に火をつけた。


登美子は泣かなかった。


泣いている暇がなかった。


夜泣き、癇癪、脱走。


ある日は近所の畑を、ある日は踏切のそばを、裸足で走っていた。


踏切のそばで、遮断機の下りる音に目を輝かせて立ち尽くしていた息子の背中を、

登美子は今でも夢に見る。


「かわいそうにねえ」


近所の人は、そう言った。


悪気がないのは分かっていた。


けれど、その言葉を聞くたび、

登美子は自分と息子のあいだに薄い膜が張られるような気がした。


かわいそうなのは、誰なのだろう。


この子か。


それとも私か。


この子は、走る電車を見て笑っているのに。


それでも、あの頃は先があった。


私が元気なうちは。


私がいるうちは。


その「うちは」が、少しずつ、少しずつ細くなって、いま消えかけている。


その夜、健一は夕飯のあと、登美子の膝に頭を乗せてきた。


四十八歳の大きな頭が、赤ん坊のときと同じ場所に収まった。


髪に白いものが混じっている。


彼女は指で、それをすいた。


「かあ」


「うん」


「かあ」


「うん。いるよ」


健一は目を閉じた。


登美子は、その白い髪を何度も撫でた。




四

それからの数週間、登美子は不思議なほどいつも通りに過ごした。


朝はやかんを火にかけ、青い縞の湯呑みで茶を出し、電車の映像を一緒に見た。


ヘルパーさんが来る日は、玄関先で「いつもありがとうございます」と頭を下げた。


町内会の回覧板も回した。


そして、夜になると考えた。


役所にもう一度頼む。


弟に電話をする。


何年ぶりだろう。


それでも駄目だったら。


頭の隅で、その「それでも」の先にある考えが、日ごとに大きくなっていった。


その考えは恐ろしかった。


恐ろしいのに、どこか、ひどく楽でもあった。


それが何より恐ろしかった。


楽になろうとしている自分を、登美子は夜の台所で、じっと見つめた。


ある晩、役所から戻った登美子は、玄関で靴を脱いだ。


健一がテレビの前に座っていた。


画面には電車が映っている。


「かあ」


「うん」


登美子は鞄を置いた。


「施設は、まだ駄目だったよ」


健一は答えない。


ただ、画面の電車が見えなくなるまで、じっと見ていた。


やがて次の電車が映る。


「あー」


健一が笑った。


登美子は、その隣に座った。


しばらく二人で画面を見ていた。


「……ごめんね」


健一には聞こえていないようだった。


登美子は、それ以上何も言わなかった。




五

十一月の、よく晴れた日だった。


登美子は健一を連れて、久しぶりに踏切まで歩いた。


車椅子は使わない。


健一は自分の足で歩くのが好きだった。


ゆっくり、ゆっくり、登美子の腕を掴んで歩く。


踏切の警報が鳴り、遮断機が下りた。


健一は「あー!」と叫んで、体を揺らした。


電車が来た。


轟音とともに、光る車体が目の前を通り過ぎていく。


健一は全身で笑っていた。


涎を垂らし、目を見開いて、行ってしまった電車の後ろ姿をいつまでも見ていた。


登美子は、その横顔を見ていた。


電車が見えなくなっても、健一は線路の向こうを見ていた。


その顔を見ているうちに、登美子の胸の中で、何かがゆっくり崩れた。


この子は、ここで笑っている。


電車が来るだけで、こんなに嬉しそうに笑っている。


帰り道、健一は登美子の手を、いつもより強く握っていた。


登美子も握り返した。


その夜のことを、登美子はのちに誰にもうまく語ることができなかった。


台所のやかんは、いつもの時刻に鳴った。


彼女はいつものように茶を淹れ、青い縞の湯呑みを健一の前に置いた。


健一は「ん」と言って、嬉しそうにそれを飲んだ。


登美子は向かいに座った。


しばらく、何も言わなかった。


健一が顔を上げた。


「かあ」


「うん」


「かあ」


「うん。ここにいるよ」


そのあとのことを、登美子は誰にも話さなかった。


ただ、最後に「かあ」と呼ばれたことだけは、覚えていた。




六

警察署の取調室の窓には、格子がはまっていた。


「息子さんは、どんな方でしたか」


若い刑事が、書類から目を上げた。


登美子は、しばらく黙っていた。


それから、ぽつりと言った。


「電車が、好きでした」


「電車」


「踏切で、電車が通るのを見るのが好きで。

青い縞の湯呑みでしか、お茶を飲まなくて。

朝、やかんが鳴ると、襖の向こうで、ん、って」


そこまで言って、登美子は口を押さえた。


声が、止まらなくなった。


四十八年ぶんの言葉が、喉の奥から溢れた。


刑事は何も言わず、ペンを置いた。


「私は、あの子のことを、ずっと誰にも話せなかったんです」


登美子は俯いた。


「かわいそうにって言われるばかりで。あの子が何が好きで、

何が嫌いで、どんなふうに笑うか……誰も、訊いてくれなかった」


窓の外を、遠く、電車が走る音がした。


登美子は、その音のほうへ顔を向けた。


あの子はもう、この音を聞かない。


私が、聞かせなくした。


どんな理由をつけても、それだけは変わらない。


誰も救わなかった。


誰も。


やかんの音が、聞こえた気がした。


いつもの朝だった。


けれど、もう襖の向こうから「ん」と返ってくることはなかった。



明日の朝も、どこかでやかんが鳴ります。

その音に応える声が、できるだけ長く途切れない社会であってほしいと願っています。

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