母が最後に聞いた「かあ」
この物語が描こうとしたのは、特別な人間ではなく、ごく普通の母親です。 息子を愛し続けた人であり、追い詰められた人でもあります。
朝は、やかんの音から始まる。
七十九歳の登美子は、五時に目が覚める。目覚ましはいらない。
隣の六畳間で息子の健一が寝返りを打つ気配が、四十八年間、
彼女の体の中の時計になっていた。
台所でやかんを火にかける。湯が沸く前、鉄がきしむような小さな音がすると、
襖の向こうで健一が「ん」と言う。
彼は、言葉らしい言葉をほとんど持たない。
「ん」は「起きた」で、「あ」は「痛い」か「嬉しい」で、
「かあ」は登美子のことだ。
それだけの語彙で、彼はこの家の朝を回してきた。
「はいはい、いま行くよ」
襖を開けると、健一は布団の中で天井を見ていた。
大きな体だった。肩幅は登美子よりずっと広く、
抱き起こすたびに腰が悲鳴を上げる。
それでも、彼女の顔を見つけると、健一の目尻はくしゃりと下がる。
その顔を見るために、登美子は毎朝、痛む腰をなだめて襖を開けてきた。
着替えを手伝い、顔を拭き、決まった青い縞の湯呑みにぬるめの茶を注ぐ。
別の湯呑みでは飲まない。一度だけ違うものを出したら、
床に投げて、一日じゅう不機嫌だった。
「ほら、電車の時間だよ」
テレビをつけると、朝の情報番組の隅に、
どこかの私鉄の映像が流れた。
健一は身を乗り出して「あー、あー」と声を上げた。
彼は電車が好きだった。
電車の名前も種類も知らない。ただ、走っていくものを見るのが好きだった。
二
医者は、レントゲン写真を登美子のほうへ向けて言った。
「率直に申し上げます。ここに影があります。それから、もう一箇所」
「手術は」
「難しいでしょうね。年齢もありますし、心臓も」
窓の外で、救急車のサイレンが遠ざかっていった。
登美子は、自分でも驚くほど静かに訊いた。
「あと、どれくらいですか」
医者は言葉を選んで、一年、と言った。
長くて、という言葉は付かなかったが、付いているのは聞こえた。
帰りのバスで、彼女は窓に額をつけていた。
健一は今日、ヘルパーさんが見てくれている。週に三回、
一回二時間。それが、この町で彼女が手にできた精一杯の「支え」だった。
施設の順番待ちは、もう九年になる。
役所の窓口の若い女性は、毎年同じ申し訳なさそうな顔で言う。
「空きが出ましたら、必ずご連絡します」
空きが出るのは、誰かが亡くなったときだ。
登美子はそのたびに、順番を待つことと、
人の死を待つことが同じ列に並んでいるように思えた。
夫は二十年前に亡くなった。
弟は遠くにいて、年賀状だけが続いている。
健一の世話を代わってくれる人間は、この世のどこにもいなかった。
「私が死んだら、あの子はどうなるんだろうねえ」
呟きは、バスのエンジン音に紛れて消えた。
三
若い頃は、そうは思わなかった。
健一が三歳のとき、医者に「重い遅れがあります」と告げられた。
夫は黙って煙草に火をつけた。
登美子は泣かなかった。
泣いている暇がなかった。
夜泣き、癇癪、脱走。
ある日は近所の畑を、ある日は踏切のそばを、裸足で走っていた。
踏切のそばで、遮断機の下りる音に目を輝かせて立ち尽くしていた息子の背中を、
登美子は今でも夢に見る。
「かわいそうにねえ」
近所の人は、そう言った。
悪気がないのは分かっていた。
けれど、その言葉を聞くたび、
登美子は自分と息子のあいだに薄い膜が張られるような気がした。
かわいそうなのは、誰なのだろう。
この子か。
それとも私か。
この子は、走る電車を見て笑っているのに。
それでも、あの頃は先があった。
私が元気なうちは。
私がいるうちは。
その「うちは」が、少しずつ、少しずつ細くなって、いま消えかけている。
その夜、健一は夕飯のあと、登美子の膝に頭を乗せてきた。
四十八歳の大きな頭が、赤ん坊のときと同じ場所に収まった。
髪に白いものが混じっている。
彼女は指で、それをすいた。
「かあ」
「うん」
「かあ」
「うん。いるよ」
健一は目を閉じた。
登美子は、その白い髪を何度も撫でた。
四
それからの数週間、登美子は不思議なほどいつも通りに過ごした。
朝はやかんを火にかけ、青い縞の湯呑みで茶を出し、電車の映像を一緒に見た。
ヘルパーさんが来る日は、玄関先で「いつもありがとうございます」と頭を下げた。
町内会の回覧板も回した。
そして、夜になると考えた。
役所にもう一度頼む。
弟に電話をする。
何年ぶりだろう。
それでも駄目だったら。
頭の隅で、その「それでも」の先にある考えが、日ごとに大きくなっていった。
その考えは恐ろしかった。
恐ろしいのに、どこか、ひどく楽でもあった。
それが何より恐ろしかった。
楽になろうとしている自分を、登美子は夜の台所で、じっと見つめた。
ある晩、役所から戻った登美子は、玄関で靴を脱いだ。
健一がテレビの前に座っていた。
画面には電車が映っている。
「かあ」
「うん」
登美子は鞄を置いた。
「施設は、まだ駄目だったよ」
健一は答えない。
ただ、画面の電車が見えなくなるまで、じっと見ていた。
やがて次の電車が映る。
「あー」
健一が笑った。
登美子は、その隣に座った。
しばらく二人で画面を見ていた。
「……ごめんね」
健一には聞こえていないようだった。
登美子は、それ以上何も言わなかった。
五
十一月の、よく晴れた日だった。
登美子は健一を連れて、久しぶりに踏切まで歩いた。
車椅子は使わない。
健一は自分の足で歩くのが好きだった。
ゆっくり、ゆっくり、登美子の腕を掴んで歩く。
踏切の警報が鳴り、遮断機が下りた。
健一は「あー!」と叫んで、体を揺らした。
電車が来た。
轟音とともに、光る車体が目の前を通り過ぎていく。
健一は全身で笑っていた。
涎を垂らし、目を見開いて、行ってしまった電車の後ろ姿をいつまでも見ていた。
登美子は、その横顔を見ていた。
電車が見えなくなっても、健一は線路の向こうを見ていた。
その顔を見ているうちに、登美子の胸の中で、何かがゆっくり崩れた。
この子は、ここで笑っている。
電車が来るだけで、こんなに嬉しそうに笑っている。
帰り道、健一は登美子の手を、いつもより強く握っていた。
登美子も握り返した。
その夜のことを、登美子はのちに誰にもうまく語ることができなかった。
台所のやかんは、いつもの時刻に鳴った。
彼女はいつものように茶を淹れ、青い縞の湯呑みを健一の前に置いた。
健一は「ん」と言って、嬉しそうにそれを飲んだ。
登美子は向かいに座った。
しばらく、何も言わなかった。
健一が顔を上げた。
「かあ」
「うん」
「かあ」
「うん。ここにいるよ」
そのあとのことを、登美子は誰にも話さなかった。
ただ、最後に「かあ」と呼ばれたことだけは、覚えていた。
六
警察署の取調室の窓には、格子がはまっていた。
「息子さんは、どんな方でしたか」
若い刑事が、書類から目を上げた。
登美子は、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「電車が、好きでした」
「電車」
「踏切で、電車が通るのを見るのが好きで。
青い縞の湯呑みでしか、お茶を飲まなくて。
朝、やかんが鳴ると、襖の向こうで、ん、って」
そこまで言って、登美子は口を押さえた。
声が、止まらなくなった。
四十八年ぶんの言葉が、喉の奥から溢れた。
刑事は何も言わず、ペンを置いた。
「私は、あの子のことを、ずっと誰にも話せなかったんです」
登美子は俯いた。
「かわいそうにって言われるばかりで。あの子が何が好きで、
何が嫌いで、どんなふうに笑うか……誰も、訊いてくれなかった」
窓の外を、遠く、電車が走る音がした。
登美子は、その音のほうへ顔を向けた。
あの子はもう、この音を聞かない。
私が、聞かせなくした。
どんな理由をつけても、それだけは変わらない。
誰も救わなかった。
誰も。
やかんの音が、聞こえた気がした。
いつもの朝だった。
けれど、もう襖の向こうから「ん」と返ってくることはなかった。
明日の朝も、どこかでやかんが鳴ります。
その音に応える声が、できるだけ長く途切れない社会であってほしいと願っています。




