課長からの「理不尽すぎる業務命令」
私の懐には、800万円がある。
その事実は、私に最強の精神安定剤としての効果をもたらしていた。
課長の小言も、満員電車の圧迫感も、以前より3割減くらいで受け流せる。
今の私は「世を忍ぶ仮の姿」を楽しんでいるスパイのようなものだ。
しかし。
そんな余裕をぶち壊すような無茶振りが、月曜の朝から飛んできた。
「おい久住! 最優先の業務命令だ!」
課長が私のデスクに、一枚のプリントアウトされた紙を叩きつけた。
そこに写っているのは、見覚えのある「花柄のエプロン」。
そう、私の配信動画のスクリーンショットだ。
「この配信者『OLの節約ごはん』……通称『女神』を特定して、アポイントを取れ」
「……はい?」
私は間の抜けた声を出した。
アポイント? 誰が、誰に?
「聞こえなかったのか? 我が社の大口取引先である『高円寺商事』の社長が、この配信者の大ファンなんだよ!
今度の接待の席に、サプライズゲストとして彼女を呼びたいとおっしゃっている!」
課長が鼻息荒くまくし立てる。
高円寺商事といえば、うちの会社の売上の3割を握っている超重要クライアントだ。そこの社長が、まさか私のファン?
「あの、課長。この方は素人ですし、顔出しもしていません。特定なんて無理では……」
「だからお前に頼んでるんだ!」
課長は聞く耳を持たない。
「お前みたいな、仕事が遅くてネットばかり見ている暇人なら、こういうのは得意だろう?
SNSを掘り返すなり、DMを送るなりして、なんとかして連れてこい!」
「い、いや、DM送っても返事は来ないと思いますけど……」
「やってみなきゃわからんだろうが! これは社運がかかってるんだぞ!」
バンッ!と机を叩かれる。
周りの社員たちが、憐れみの目で私を見ていた。
(……はぁ)
私はため息をつきたいのを必死に堪えた。
目の前にいますよ。
あなたが探している女神、そのヨレヨレのスーツを着た部下ですよ。
そう言えたらどれだけ楽か。
でも、言えるわけがない。
「わかりました……やってみます」
「期限は今週中だ! もし失敗したら、ボーナスの査定に響くと思えよ!」
「(元々ボーナスなんて出てませんけど……)」
私が小声で呟くと、課長は「なんか言ったか!」と睨みつけ、ドスドスと去っていった。
◇
その日の夜。
私はムシャクシャした気分を晴らすため、またしてもダンジョンへ向かっていた。
「やってられない。本当にやってられない」
私はスーパーのレジ袋を振り回しながら、夜の路地裏を歩く。
袋の中身は「長ネギ」と「焼き鳥のタレ」。
今日のターゲットは、巨大な鶏の魔物『ロックバード』だ。コカトリスよりランクは低いが、その肉は弾力があり、焼き鳥にすると最高に美味い。
「今日はヤケ酒だ。焼き鳥パーティーだ」
私は『新宿・裏ゲート』をくぐり、人気の少ないエリアを目指した。
最近は「聖地巡礼」のファンが増えているので、さらに奥深く、誰も行かないような「廃棄区画」まで進む必要がある。
薄暗い洞窟を、スマホのライトを頼りに進む。
その時だった。
「ひぃぃぃっ! く、来るな!」
前方の闇から、悲鳴が聞こえた。
(……人?)
私は足を止めた。
目を凝らすと、岩陰にうずくまる人影が見える。
初老の男性だ。仕立ての良さそうなスーツを着ているが、今は泥だらけになっている。
そして、その目の前には――。
「グルルルルッ……!」
赤い目を光らせた『キラーウルフ』が三匹、涎を垂らして彼を包囲していた。
(げっ、一般人!? なんでこんな奥地に?)
迷い込んだのだろうか。ここは「立ち入り禁止」のテープが破れているから、たまに間違えて入ってくる人がいる。
男性は腰を抜かしていて、逃げられそうにない。
ウルフが飛びかかろうと後ろ足を沈める。
(……チッ、面倒くさい!)
私は舌打ちをして、地面を蹴った。
関わりたくない。でも、目の前で人が食われるのを見ながら食べる焼き鳥は、きっと不味い。
「おじさん、頭下げて!」
私が叫ぶと同時に、ウルフが跳躍した。
私はスライディングで男性の前に滑り込み、鞄から包丁を抜いた。
「邪魔っ!!」
スパァン!!
横一文字。
先頭のウルフの首が飛び、光の粒子となって消える。
残りの二匹が怯んだ隙を逃さない。
「今日の私は機嫌が悪いのよ!」
ザシュッ! ドスッ!
一匹の眉間に包丁の柄を叩き込んで気絶させ、もう一匹の喉元を切り裂く。
電光石火。
わずか三秒で、その場の捕食者は私(社畜)に入れ替わった。
「ふゥ……。スジが多いから、ウルフは食用に向かないのよね」
私は包丁についた光の残滓を払い、血糊を拭き取った。
そして、へたり込んでいる男性に振り返る。
「大丈夫ですか? ここは危険なので、早く戻ったほうが……」
そこまで言って、私は「しまった」と思った。
私の格好。
会社帰りのスーツに、花柄のエプロン(汚れ防止用につけたままだった)。
そして右手には、あの動画でお馴染みの出刃包丁。
男性が、信じられないものを見る目で私を見上げていた。
震える指が、私を指差す。
「そ、そのエプロン……その包丁さばき……」
「あ、いや、これは……」
「ま、まさか……『女神』様!?」
ビンゴ。
バレた。
(やっば……!)
私は冷や汗をかいた。
ここで正体がバレたら、平穏な社畜ライフが終わる。
なんとか誤魔化さなければ。
「ち、違います! 私は通りすがりの……そう、通りすがりの肉屋です!」
「肉屋……?」
「はい! 肉屋のバイトです! それでは!」
私は苦し紛れすぎる嘘をつき、脱兎のごとく走り出した。
「あ、お待ちください! お礼を……!」
男性の声が背中に響くが、振り返らない。
私は『隠密』スキルを全開にして、闇の中へと消えた。
その夜の焼き鳥は、少し焦げた味がした。
◇
翌日。
出社すると、オフィスがざわついていた。
「おい、聞いたか? 高円寺商事の社長がいらっしゃるらしいぞ」
「えっ、あの大口の? なんで急に?」
「なんでも、昨日の夜に九死に一生を得る体験をしたとかで、その報告に来るそうだ」
嫌な予感がした。
背筋に悪寒が走る。
私は自分のデスクで、できるだけ小さくなって気配を消した。
ガチャリ。
応接室のドアが開き、課長が揉み手をしながら出てきた。その後ろに、白髪の紳士がいる。
昨日の男性だ。
間違いない。私が助けた、あのおじさんだ。
「いやぁ社長! ご無事で何よりです! ダンジョンに迷い込むなんて、とんだ災難でしたねぇ」
「ああ。だが、怪我の功名というやつだよ。私はそこで、出会ってしまったんだ」
社長の目が、少年のように輝いている。
「『女神』にね」
「へ? 女神、ですか?」
課長がキョトンとしている。
社長は興奮気味に身振り手振りを交えて語り出した。
「動画の彼女だよ! 『OLの節約ごはん』の彼女だ!
暗闇から颯爽と現れ、襲いかかるウルフを一瞬で斬り伏せたんだ!
あの包丁さばき、動画で見た通りだった……いや、実物はもっと凄かった!」
「ま、まさか! こんな近くに彼女が!?」
「ああ。間違いない。彼女はスーツを着ていたよ。安物の、少しヨレた紺色のスーツをね」
ギクッ。
私は自分の袖口を見た。ヨレヨレの紺色のスーツ。
「それに、花柄のエプロンをつけていた。スーパーのレジ袋を持っていたな」
ギクギクッ。
私の足元には、昨日使ったエコバッグ(スーパーの袋)がある。
「そして何より……彼女はとても『地味』で『目立たない』雰囲気の女性だった。
街ですれ違っても気づかないような、どこにでもいるOLのような……」
社長の言葉に、課長がハハハと笑った。
「社長、さすがにそれは見間違いでしょう!
あの動画の剣技ですよ? きっと普段はモデルのように美しいか、あるいは武道家のようなオーラがあるはずです。
地味なOLだなんて、そんなはずがありません」
「いや、しかし……」
「きっと暗がりで目が慣れていなかったんですよ。
だいたい、そんな地味な女が、あんな凄いことができるわけがない。
なぁ、久住?」
突然、話を振られた。
私は心臓が口から飛び出るかと思った。
「……は、はい?」
私はお茶出しのトレイを持ったまま、社長と課長の前に立っていた。
社長の視線が、私に向く。
私と目が合う。
(バレる……!?)
私は覚悟を決めた。
しかし、社長は不思議そうに首を傾げただけだった。
「ふむ……。確かに、彼女のような雰囲気だった気もするが……。
いや、今思えば、あの女神からはもっとこう、神々しいオーラが出ていたな。
こんな、死んだ魚のような目をしている社員さんとは、似ても似つかないか」
「でしょう? うちの久住と一緒にしないでくださいよ。こいつは空気みたいなもんですから」
課長が下卑た笑いを浮かべる。
社長も「そうだな、失礼した」と笑った。
私は無表情で、二人の前にお茶を置いた。
「どうぞ」
コトッ。
湯呑みを置く音が、静かに響く。
誰も気づいていない。
社長が「神」と崇め、課長が「探せ」と命じているその本人が、今まさに目の前でお茶を注いでいることに。
(……節穴でよかった)
私は心の中で毒づいた。
私の『隠密』スキルは、どうやら「無能扱い」というフィルターを通すことで最強になるらしい。
「必ず探し出しますよ、社長! 我が社の総力を挙げて!」
「頼むよ。彼女に会えたら、契約の件も前向きに検討しよう」
課長と社長の会話を聞き流しながら、私は自分の席に戻った。
ポケットの中で、スマホが震えた。
レオンからのDMだ。
『昨日、裏ゲートで強力な魔力反応があった。君か?
あと、高円寺商事の社長が「女神を見た」と騒いでいる。
……正体がバレるのも時間の問題だぞ。
そろそろ私のギルドに来ないか? 年俸1億2000万にアップするぞ』
私はスマホの画面を伏せた。
1億2000万。
心が揺れる。
でも、今ここで辞めてしまったら、あの課長の「悔しがる顔」が見られない。
(もうちょっとだけ、遊んであげようかな)
私はキーボードを叩き始めた。
昨日より少しだけ、タイピングの音が軽かった。
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