給湯室での商談と高額入金
昼休み。
私は逃げるようにして、オフィスの給湯室の奥にある女子トイレへ駆け込んだ。
個室の鍵をかけ、便座の蓋を下ろして座る。ここだけが、会社の中で唯一、私が呼吸できる聖域だ。
手には、コンビニで買った160円のツナマヨおにぎりと、スマホ。
前は110円で買えたのに、最近の値上げは本当に容赦がない。
心臓が、早鐘を打っている。
「……落ち着け、私。落ち着くのよ」
深呼吸をして、スマホの画面を見る。
Sランク冒険者『剣聖レオン』からのDMは、まだそこにあった。夢じゃなかった。
『100万円用意する。頼む。売ってくれ』
改めて見ても、正気を疑う文面だ。
たかが唐揚げに100万円。
新手の詐欺かもしれない。「振り込むから口座番号を教えろ」と言われて、逆に抜き取られるパターンか?
私は震える指で、慎重に返信を打った。
『メッセージありがとうございます。OLの節約ごはんと申します。
あの、大変失礼ですが、ご本人様でしょうか?
それに、ただの素人が作った料理にその金額は……』
送信ボタンを押す。
既読がついたのは、一秒後だった。
早っ。
『本人だ。疑うのも無理はない。
証拠として、まずは手付金【50万円】を先払いさせてほしい。
君の配信アプリのアカウントに紐づいているウォレットへ送金する。受け取り拒否はしないでくれ』
え、と声を上げる間もなかった。
ピロン♪
軽快な通知音と共に、アプリのウォレット残高が更新される。
【現在残高:500,320円】
(内訳:視聴収益320円 + 送金500,000円)
「……ふっ、ぐっ!?」
私は慌てて自分の口を手で塞いだ。
絶叫しそうになった。
50万。
数字の桁がおかしい。私の月収の三ヶ月分以上が、ほんの一瞬で、指先ひとつで振り込まれた。
(本物だ……これ、マジのやつだ……!)
さらにメッセージが続く。
『残りの金額は現物との引き換えで構わない。
オークション形式になっているようだから、最終的に200万円までは出す用意がある。
頼む、私に売ってくれ』
200万。
スマホを持つ手が汗で滑る。
ちょっと待って、脳の処理が追いつかない。
奮発して買った高いおにぎりの味がしない。
その時、予鈴のチャイムが鳴った。
現実は非情だ。
私は口の中に残りのおにぎりを押し込み、50万円が入ったスマホをポケットにねじ込んで、トイレを出た。
◇
午後は、地獄の『全社経費削減会議』から始まった。
狭い会議室に、全社員が寿司詰め状態で座らされている。
空調は「節約のため」二十八度設定。
おじさんたちの汗の臭いと、湿気った書類の臭いが充満していて、私のHPはごっそり削られていく。
「えー、今月の我が社の業績だが、非常に厳しい!」
ホワイトボードの前で、課長が唾を飛ばしながら熱弁を振るっていた。
「特に消耗品費! 先月より3%も上がっているぞ!
お前ら、会社の備品をなんだと思ってるんだ。湯水のように使いやがって!」
課長は一本のクリップを指先で摘まみ上げ、私たちに見せつけた。
「このゼムクリップ、一個いくらか知ってるか?
0.8円だ! 約1円だぞ!
これを書類から外さずに捨てたり、床に落としたままにしている奴がいる。言語道断だ!
1円を笑う者は1円に泣くんだよ!」
バンッ!と机を叩く音。
最前列に座っている新人の男の子が、ビクッと肩を震わせている。
私は最後列の端の席で、死んだ魚のような目をしていた。
(……1円の話、長いなぁ)
この会議、もう一時間は続いている。
全社員の時給を計算したら、クリップ数万個分の損失が出ていることに、どうしてこの人は気づかないんだろう。
「おい久住! 聞いてるのか!」
不意に矛先が向いた。
私は反射的に背筋を伸ばす。
「はい、聞いております」
「お前だぞ、一番怪しいのは。
いつも裏紙を使わずに新しいコピー用紙を使ってるだろう。
あのな、裏紙を使えばタダなんだよ。資源の無駄遣いなんだよ、この給料泥棒が!」
ネチネチとした説教が始まった。
周りの社員たちが「またか」という顔で私を見る。
憐れみと、自分じゃなくてよかったという安堵の色。
いつもなら、ここで悔し涙を呑んで「すみません」と謝るところだ。
でも、今日の私は違った。
私は机の下で、そっとスマホの画面をタップした。
会議中も、私のDM欄は戦場になっていたのだ。
『剣聖レオン:150万出す。それ以上は相場がおかしい』
『豪腕のタイガ:うるせえ! 俺は180万出すぞ! 昨日のあの音を聞いて我慢できるか!』
『剣聖レオン:……チッ。わかった、なら私は200万だ。これなら文句ないだろう』
『豪腕のタイガ:ぐぬぬ……唐揚げ一皿に200万はさすがに……クソッ、降りる!』
決着がついた。
200万円。
私の年収と、ほぼ同額。
それを、私は今、この机の下で確定させた。
「……聞いてんのか久住!」
課長の怒鳴り声が飛んでくる。
私は顔を上げ、課長の顔をじっと見た。
脂ぎった額。安っぽいネクタイ。1円のために部下を罵倒して喜んでいる、小さな独裁者。
(課長。あなたが1円のクリップで怒鳴り散らしている間に……)
私は口角が自然と持ち上がるのを、必死に噛み殺した。
(私、あなたの年収の半分くらい、この数分で稼いじゃいましたよ?)
「……はい、申し訳ありません。以後、気をつけます」
私が殊勝に頭を下げると、課長は「フン、わかればいいんだ」と鼻を鳴らして話を続けた。
誰も気づいていない。
一番後ろの席で、無能なはずのOLが、内心で見下すような冷ややかな笑みを浮かべていることに。
◇
十七時三十分。
定時のチャイムが鳴った瞬間、私は立ち上がった。
いつもなら「帰りにくい雰囲気」を読んで三十分ほど無意味に残業するのだが、今日は一秒も無駄にできない。
「お先に失礼します!」
「あ? おい久住、まだ雑用が……」
課長が何か言いかけたが、私は聞こえないふりをしてオフィスを飛び出した。
背後で舌打ちが聞こえた気がするが、知ったことか。
私には、重要な商談が待っている。
駅のトイレで着替え、再び「路地裏のダンジョン」へ。
今回の取引場所は、ダンジョン入口に設置されている『冒険者用コインロッカー』だ。
魔導認証付きで、お互いに顔を合わせずにアイテムの受け渡しができる。
私はタッパーに入れた「コカトリスの唐揚げ(残り)」をロッカーに入れ、指定されたパスワードを設定した。
『商品を格納しました』
メッセージを送ると、すぐに『受領した』という返信と共に、残りの150万円がウォレットに着金した。
チャリン♪
という軽い電子音。
でも、画面に表示された数字は重かった。
【現在残高:2,000,320円】
「……ははっ」
路地裏の暗がりで、乾いた笑いが出た。
すごい。本当に、200万だ。
通帳の数字が、一気に増えた。
三年働いて貯めた貯金を、たった一晩の、しかも残飯(残り物)が超えてしまった。
「……あーあ」
私は空を見上げた。
ビルの隙間から見える都会の空は、いつもより少しだけ明るく見えた。
「馬鹿みたい。真面目に働くのが、馬鹿みたいじゃん」
その言葉は、不思議と清々しかった。
心の中の重りが、ひとつ外れた音がした。
その時、スマホが再び震えた。
レオンからだ。
クレームだろうか? 冷めてて不味かったとか?
『……食べた。
今、食べた。
泣いた』
短い文面から、異常な感情の重さが伝わってくる。
『冷めているのに、衣が死んでいない。
噛み締めた瞬間の肉汁の爆発力。ニンニク醤油の香り。
私が求めていたのはこれだ。これこそが食事だ。
……なぁ、配信者さん。いや、師匠』
師匠?
『次はいつ潜る? 金ならいくらでも払う。
もしよかったら、俺のギルドで専属料理人として雇いたいのだが、年俸1億でどうだろうか?』
「い、いちおくぅ!?」
路地裏に、私の素っ頓狂な声が響き渡った。
野良猫が驚いて逃げていく。
こうして、私の社畜人生は、唐揚げの匂いと共に大きく狂い……いや、動き出し始めていた。
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