さようなら、社畜
火曜日の朝。
天気は快晴。私の心も、かつてないほど晴れ渡っていた。
私はオフィスの自動ドアをくぐり、自分の席には座らず、そのまま真っ直ぐに課長のデスクへと向かった。
カツ、カツ、カツ。
ヒールの音がフロアに響き、水を打ったように静まり返る。
「……あ、おはよう。く、久住さん」
課長がビクッとして顔を上げた。
その顔はやつれ、昨日の恐怖がまだ抜けていないようだ。
「おはようございます、課長」
私はニッコリと微笑んだ。
そして、懐から白い封筒を取り出し、デスクの上に叩きつけた。
バァァァン!!
乾いた音が響く。
封筒の表には、筆ペンで力強く書かれた三文字。
『退職願』。
「えっ……?」
課長が凍りつく。
周囲の社員たちが息を呑む。
「本日付で退職させていただきます。
有給が40日ほど残っていますので、このまま消化に入ります。
実質、今日が最終出社日です」
私は事務的に告げた。
課長がガタガタと震えながら封筒を手に取る。
「た、退職……!?
ま、待ってくれ! 昨日の話は……給料アップの話はまだ……!」
「お断りしましたよね?
私はもう、この会社に1秒たりともいたくないんです」
「そ、そんな……!
困る! 君がいなくなったら困るんだ!」
課長がなりふり構わず叫んだ。
その声を聞きつけ、奥の社長室から社長が飛び出してきた。
「なにごとだ!?
……なっ、退職願だと!?」
社長は封筒を見るなり、顔色を変えて私に詰め寄った。
「認めんぞ! 絶対に認めん!
君は我が社の『顔』になる予定なんだ!
昨日の活躍を見て、取引先からも問い合わせが殺到しているんだぞ!」
「知りませんよ、そんなこと」
私は冷たく言い放った。
「私がいつ、御社の『顔』になると言いました?
私はただの事務員として採用され、雑用係として扱われてきました。
その契約通り、ただの事務員として辞めるだけです」
「ぐぬっ……!」
「それに社長。
私が辞めて困るような会社なら、それは私の責任ではなく、経営者の責任ですよね?」
正論。
社長が言葉に詰まる。
しかし、彼は諦めきれずに食い下がった。
「だ、だがな! 今辞めたら後悔するぞ!
うちはこれからダンジョン事業で急成長する!
君はその恩恵を捨てて、路頭に迷うことになるんだぞ!」
「後悔?」
私は吹き出しそうになった。
この人はまだ、自分が「選ぶ側」だと思っているのか。
「社長。勘違いしていませんか?
私がこの会社にいたのは、単に『社会勉強』のためです。
でも、もう十分学びました」
私はフロアを見渡した。
死んだ魚のような目をした社員たち。
パワハラが横行する空気。
「『こうはなりたくない』という反面教師として、大変勉強になりました。
ありがとうございました」
深々とお辞儀をする。
それは感謝ではなく、完全なる絶縁の挨拶だった。
その時。
ジリリリリリッ!!
フロア中の電話が一斉に鳴り響いた。
「な、なんだ!?」
「はい、営業部です! ……えっ、クレーム!?」
「社長! 取引先のレストランからです!
『昨日納品された肉が腐っている』と!」
「こっちはネットニュースを見た株主からです!
『社員を盾にする会社とは取引しない』と!」
阿鼻叫喚。
昨日の事件の余波が、一気に押し寄せてきたのだ。
さらに、総務部の女子社員が悲鳴を上げた。
「か、課長! ファイルサーバーから異音がして、ダウンしました!
共有フォルダにアクセスできません!」
「な、なんだと!? バックアップは!?」
「ありません! そのサーバーも、十年落ちのPCを久住さんが騙し騙し動かしていたものだったので……!」
当然だ。
とっくに寿命を迎えていたポンコツ機材を、私が(こっそり雷魔法で通電を安定させて)無理やり維持していたのだから。
私が魔力の供給を断てば、ただのガラクタに戻るのは必然だ。
「く、久住くん! 頼む、直してくれ!」
「再起動してくれ! データが消えたら終わりなんだ!」
社長と課長が私にすがりつく。
私は自分の荷物をまとめた段ボールを抱え、冷ややかに言った。
「業務引き継ぎ書は、そこのサーバーに入っています。
……直して開ければ、の話ですけど」
「そんなぁぁぁ!」
「では、お元気で。
二度とお会いすることはないでしょう」
私は踵を返した。
背後で「待ってくれぇぇ!」「会社が潰れるぅぅ!」という絶叫が響いていたが、振り返らなかった。
もはや、彼らは私にとって「他人」ですらない。
ただの「過去の嫌な思い出」だ。
◇
エレベーターで一階に降り、エントランスを出る。
まぶしい。
外の世界は、驚くほど輝いていた。
空は青く、風は心地よい。
今まで、この青空を見る余裕すらなかった。
毎日、終電まで残業し、休日は疲れ果てて寝るだけの日々。
「……終わった」
私は大きく伸びをした。
身体が軽い。
背中に背負っていた重い鎖が、音を立てて砕け散ったようだ。
「あー……せいせいした!」
私は叫びたかった。
私は自由だ。
もう誰に命令されることもない。
好きな時に起き、好きな場所に行き、好きなものを食べる。
そんな当たり前の幸せが、これからは手に入るのだ。
「お疲れ様、ハナ」
不意に、優しい声が聞こえた。
ビルの前の路肩に、一台の黒塗りの高級車が停まっていた。
その後部座席のドアが開き、白いコートの男が降りてくる。
剣聖レオン。
サングラスをかけているが、その整った顔立ちは隠せていない。
道行く人々が「えっ、モデル?」「いや、あれレオン様じゃ……」とざわめいている。
「……目立つからやめてって言ったのに」
私は苦笑しながら彼に近づいた。
レオンはサングラスを少しずらし、私の顔を覗き込んだ。
「良い顔をしている。
憑き物が落ちたようだな」
「ええ。おかげさまで、無職になりました」
「クビになったのか?」
「いいえ、自分から振ってやりました」
私が胸を張ると、レオンは愉快そうに笑った。
「それは痛快だ。
あの会社の連中、今頃泣きを見ているだろうな」
「たぶんね。まあ、自業自得よ」
レオンは車のドアを開け、エスコートするように手を差し伸べた。
「さあ、行こうか。
新しい職場が待っている」
「……その前に」
私はお腹を押さえた。
「お腹すいた。
ドラゴンのステーキ、奢ってくれるんでしょうね?」
「もちろん。
最高級の赤ワインも用意してある。
君の『退職祝い』だ」
「ふふっ、気が利くじゃない」
私はレオンの手を取り、車に乗り込んだ。
ふかふかのシートに身を沈める。
車が走り出す。
窓の外、遠ざかっていく会社のビル。
その窓ガラスの向こうで、社長たちが頭を抱えているのが小さく見えた。
さようなら、社畜だった私。
さようなら、クソ上司たち。
私は前を向いた。
これからは、私が主役の物語だ。
手取り15万の社畜OLは、もういない。
ここにいるのは、世界最強のグルメ冒険者、久住ハナだ。
「よし、行こうレオン!
世界中の美味しいものを、食べ尽くしに!」
私の新しい冒険が、今、始まった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
これにて「社畜編(第一部)」完結です!
ここまで応援してくださった皆様、本当にありがとうございました!
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番外編も構想中ですので、引き続きよろしくお願いいたします!
◇
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『人生2周目は、300万円で買ったゴミ山に引きこもります。〜世界崩壊まであと1ヶ月、私だけが知ってる『絶対安全地帯』〜』
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