社長が下した「最悪の命令」
「ギャアアアアッ!!」
「来るな! こっちに来るなァ!」
平和だった『木漏れ日の森』は、一瞬にして地獄絵図と化した。
数百匹の魔物の群れが、雪崩のように押し寄せてくる。
普段は大人しいウルフも、今は血走った目で牙を剥き、逃げ惑う社員たちを追い立てていた。
私たちは武器を持っていない。
あるのはゴミ拾い用の火バサミだけだ。
こんなものでオークの棍棒を防げるわけがない。
「はぁ、はぁ……!」
最後尾を走っていたのは、総務部の新人女子、佐藤さんだった。
彼女はヒールで来ていたため(社長が『映え』を気にしてヒール指定したのだ)、足がもつれて転倒してしまった。
「痛っ……!」
彼女が顔を上げた時、目の前には巨大な影があった。
豚の顔をした亜人、オークだ。
丸太のような腕で、錆びついた剣を振り上げている。
「ひっ……い、いやぁぁぁ!」
彼女の悲鳴が森に響く。
その少し前方を走っていた社長と課長が、その声に振り返った。
「しゃ、社長! 課長! 助けてください!」
佐藤さんが手を伸ばす。
距離にして数メートル。
大人の男二人が助けに戻れば、彼女を引っ張って逃げることはできるかもしれない。
しかし。
「ヒィッ! オークだ!」
「こっちを見るな! 目が合うだろうが!」
二人はあろうことか、さらに距離を取った。
そして、社長が叫んだ。
「おい、そこの新人! そこで食い止めろ!」
「えっ……?」
「俺たちが逃げる時間を稼ぐんだ! 社長命令だぞ!」
耳を疑う言葉だった。
さらに課長も続く。
「そうだ! お前はまだ試用期間中だろう!
会社の未来である我々役員を守って死ねるなら、名誉なことだぞ!」
「そ、そんな……」
佐藤さんの顔から血の気が引く。
絶望。
信頼していた会社の上層部が、自分を「生贄」に指定したのだ。
「グガァァァァッ!!」
オークが涎を撒き散らしながら、剣を振り下ろす。
佐藤さんは涙を流して目を閉じた。
(……死ぬ)
誰もがそう思った。
見捨てて逃げる社員たちも、顔を背けた。
キィィィィン!!
澄んだ金属音が、森の空気を切り裂いた。
ドサッ。
何かが落ちる音。
佐藤さんが恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
オークの剣が、根元から切断されて地面に転がっている。
そして、彼女とオークの間には、一人の小柄な女性が立っていた。
ヨレヨレのスーツに、眼鏡。
手には、ゴミ袋ではなく、美しく輝く銀色の包丁。
「……く、久住さん?」
佐藤さんが震える声で呼んだ。
私は眼鏡の位置を指で直し、深くため息をついた。
「……はぁ。
ただのゴミ拾いボランティアだって聞いてたんですけどね」
私はオークを見上げた。
オークは自分の剣が折られたことを理解できず、ポカンとしている。
「グ、グガ?」
「就業規則を確認したいんですけど、魔物討伐って『その他雑務』に含まれますか?」
私が尋ねると、オークは顔を真っ赤にして怒り狂った。
折れた剣を投げ捨て、丸太のような拳を振りかぶる。
「グオォォォォッ!!」
「……まあ、いいや。
休日出勤手当の代わりに、その肉をもらっていきますね」
私は一歩踏み込んだ。
シュッ。
風を切る音すらしない。
私の『聖銀の包丁』が、オークの首を一閃した。
オークの動きが止まる。
首筋に赤い線が走り――次の瞬間、巨体が音もなく崩れ落ちた。
鮮やかな『即死』。
返り血ひとつ浴びていない。
「……え?」
佐藤さんが腰を抜かしたまま、ポカンと口を開けている。
逃げていた社員たちも、足を止めて振り返っていた。
社長と課長も、目を丸くして立ち尽くしている。
「な、なんだ今のは……?」
「久住が……オークを倒した……?」
「包丁で……?」
静寂が森を包む。
みんなの視線が私に集中する。
普段は「空気」扱いされている私が、今はスポットライトを浴びた主人公のようだ。
……やっちゃった。
完全にバレた。
でも、後悔はしていない。
あそこで佐藤さんを見殺しにしたら、今夜のビールが不味くなる。
「久住! お、お前、今の動きはなんだ!」
課長が震える声で叫んだ。
「なんで包丁なんか持ってるんだ!
それに、あんな怪力をどこに隠して……!」
「……通販で買った『よく切れる包丁』です。
たまたま当たり所が良かっただけですよ」
私は苦しい言い訳をしながら、包丁の血糊を振って落とした。
その時。
森の奥から、さらなる咆哮が轟いた。
「グルルルルッ……!」
一匹や二匹ではない。
先ほどのオークは先発隊に過ぎない。
本隊――数百匹の群れが、すぐそこまで迫っていた。
「ひぃっ! ま、まだいるぞ!」
「終わりだ……みんな殺される……!」
社員たちが再びパニックになる。
社長は腰が抜けて立てないようだ。
もう、逃げる時間はない。ここで迎撃するしかない。
私は覚悟を決めた。
もう「無能なOL」の演技は終わりだ。
全員守り切るには、私の「本気(Sランク)」を見せるしかない。
「……全員、私の後ろに下がってください」
私は通る声で言った。
普段のボソボソした声ではない。
ダンジョンでパーティーに指示を出す時の、指揮官の声だ。
「えっ……?」
「久住……さん?」
「死にたくなければ、絶対に私のそばを離れないこと。
それと、社長と課長」
私は冷ややかな視線を、二人の上司に向けた。
「部下を盾にするような上司は、守る優先順位を下げますから。
自分の身は自分で守ってくださいね?」
「な、なんだその口の利き方は! 私は社長だぞ!」
「ここでは役職なんて関係ありません。
強い者がルールです」
私はそう言い捨てて、迫りくる魔物の大群に向き直った。
胸元の指輪が熱くなる。
亜空間に格納してある「本気の装備」たちが、出番を待って唸りを上げている。
――さあ、業務開始。
総務部・久住ハナ。
これより、「害獣駆除業務」を遂行します。
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