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絶対に失敗できない「5分間の離席」

 金曜日の夜7時。

 銀座の一等地にある高級料亭『竜宮』。

 政治家や芸能人が密会に使うような、一見さんお断りの名店だ。


 その個室で、課長は滝のような脂汗を流していた。


「おい久住! ネクタイ曲がってないか!? 顔テカってないか!?」

「大丈夫ですよ。いつも通り脂ぎってます」

「うるさい! あああ、胃が痛い……」


 課長は落ち着きなく部屋の中をウロウロしている。

 無理もない。今日の接待に失敗すれば、彼は「ミミズ課長」として地方に左遷されることが確定しているのだ。


「いいか久住、段取りを確認するぞ。

 高円寺社長と『女神』様がいらっしゃったら、お前は直ちに三つ指をついて出迎えるんだ。

 お酌は絶やすな。料理の取り分けも完璧にこなせ。

 そして何より、絶対に余計な口を利くな! お前の無能さがバレたら会社の恥だ!」


「はいはい、わかりました」


 私は適当に返事をしながら、懐のスマホを確認した。

 トイレの個室には、すでに「変装セット(ドレスとチョーカー)」を隠した紙袋を設置済みだ。

 

 作戦はこうだ。

 ①私がOLとして二人を出迎える。

 ②「女神様をお連れします」と言って部屋を出る。

 ③トイレで変装する。

 ④女神として部屋に戻る。

 ⑤適当な理由をつけて退席し、OLに戻る。

 

 これを繰り返す。

 まさに地獄のピストン輸送だ。


 その時、部屋の外から仲居さんの声がした。


「高円寺様、お連れしました」


 来た。

 襖が開く。

 現れたのは、仕立ての良い着物を着た高円寺社長だ。


「やあ、待たせたね」

「しゃ、社長! お待ちしておりました!」


 課長が直角に腰を折って最敬礼する。私もそれに倣って頭を下げた。


「本日はお忙しい中、ありがとうございます!」

「うむ。……して、例の彼女は?」


 社長がキョロキョロと周囲を見回す。

 課長が私を睨んだ。


「おい久住! 女神様はどうした!」

「あ、はい。実は今、玄関の方に到着されたとの連絡が入りまして。私がお迎えに上がります」


 私はスマホを見せるフリをして(画面は真っ暗だが)、恭しくお辞儀をした。


「では、少々失礼いたします」

「早くしろよ! お待たせするな!」


 課長の怒号を背に、私は小走りで部屋を出た。


 ◇


 廊下を曲がり、女子トイレに駆け込む。

 個室に入って鍵をかけ、隠しておいた紙袋を取り出す。

 タイムリミットは三分。


「……ふぅ」


 深呼吸をして、スーツを脱ぎ捨てる。

 下に着込んでいたキャミソールの上から、黒いドレスを被る。

 髪を解いてかき上げ、仕上げに『幻影のチョーカー』を首に巻く。


 シュゥゥゥ……。


 視界が歪む。

 鏡の中の私が、妖艶な霧に包まれる。

 地味なOLの姿は消え、そこにはミステリアスなオーラを纏った「魔女」が立っていた。


「よし。完璧」


 声色も、低く落ち着いたトーンに変わっている。

 私はスーツを袋に押し込み、個室を出た。

 廊下ですれ違った仲居さんが、ハッとして道を譲ってくれる。


「い、いらっしゃいませ……」


 彼女には、私が「高貴な身分の女性」に見えているようだ。

 500万の効果は絶大だ。


 私は悠然とした足取りで、元の個室へと戻った。

 襖の前に立つ。

 中からは、課長の焦った声が聞こえる。


「お、遅いな久住のやつ……迷子にでもなったか?」


 私はスッと息を吸い、襖に手をかけた。


「失礼いたします」


 静かに襖を開ける。

 部屋の中の空気が、一瞬で凍りついた。


 上座に座っていた社長が、目を見開いて立ち上がる。

 課長が、ポカンと口を開けてフリーズする。


 私は扇子で口元を隠し、優雅に微笑んだ(ように見えるはずだ)。


「初めまして。

 お待たせして申し訳ありません。

 『OLの節約ごはん』……配信者の、マリアと申します」


 適当な偽名を名乗って、私は一礼した。

 長い沈黙の後。


「お、おおおおお……ッ!!」


 課長が奇声を上げて、その場に崩れ落ちた。

 いや、崩れ落ちたのではない。

 見事なまでの、額を畳に擦り付ける土下座ドゲザだ。


「め、めめ、女神様ぁぁぁ!!

 よ、よくぞ! よくぞこのようなむさ苦しい場所へお越しくださいました!

 それがし、山田と申します! 一生の光栄でございます!」


 誰だお前は。

 普段の偉そうな態度はどこへ行った。

 私は心の中で爆笑しながら、冷ややかな視線を送った。


「あら、あなたが山田様?

 私の担当の『久住さん』から、いつもお話は伺っておりますわ」


「ひっ! く、久住から!? あ、あいつ、余計なことを……いや、何を言っていましたか!?」


 課長が青ざめて顔を上げる。

 私はフフッと笑って、爆弾を投下した。


「『いつも熱心にご指導いただいている』と。

 ただ、『声が大きくて少し耳が痛い』とも仰っていましたが」


「も、申し訳ございませんんんんッ!! 以後、筆談にします!!」


 再び土下座。

 社長も感心したように頷いている。


「素晴らしい……。動画で見るよりも、さらに神秘的だ。

 マリアさん、どうぞこちらへ」


 社長に促され、私は上座(社長の隣)に座った。

 課長は下座で小さくなっている。

 

「あ、あの、女神様。久住のやつは……?」


 課長が恐る恐る聞いてきた。

 そうだ。OLの私がいない。


「ああ、久住さんなら、私の忘れ物を取ってきてくれるそうで。

 少し時間がかかるかもしれませんわ」

「なっ、あいつ! 主役を待たせて何をしているんだ! 気が利かないにも程がある!」


 課長が私(OL)への悪口を言い始める。

 目の前にいる私(女神)に向かって。

 

 私はグラスに注がれた最高級の日本酒を一口飲み、ため息をついた。


「山田様」

「は、はいっ!」

「私は、部下の悪口を言う上司は好みではありませんの。

 お酒が不味くなりますわ」


 ピシャリと言い放つ。

 課長が「ヒィッ!」と悲鳴を上げて硬直した。


「も、申し訳ありません! 滅相もございません!

 久住は……そう、優秀な部下です! 私の右腕です! 宝です!」


 手のひら返しが早すぎる。

 私は笑いを噛み殺すのに必死だった。

 楽しい。これは楽しすぎる。

 800万(実費500万)を払った価値は十分にある。


「さて、本日はお近づきの印に、手土産を持ってまいりました」


 私は足元の紙袋(ドレスが入っていたものとは別)から、タッパーを取り出した。

 色気のないタッパーだが、中身は国宝級だ。


「これは……?」

「先日、ダンジョンで手に入れた『クラーケンのタコ焼き(塩ごま油味)』です。

 冷めていますが、味は保証しますわ」


 課長と社長が、ゴクリと唾を飲む。


「ク、クラーケン……! あの動画の!」

「Sランク食材のタコ焼き……!」


 社長が震える手でタッパーを開ける。

 ごま油の香ばしい香りが部屋に広がる。

 課長が涙目になっている。


「い、いただいてもよろしいのですか!?」

「ええ、どうぞ。山田様の分もありますわよ」

「ありがたき幸せぇぇぇ!!」


 課長がタコ焼きを一つ、恭しく口に運ぶ。

 次の瞬間、彼の目から滝のような涙が噴き出した。


「んぐっ……! う、美味い……!

 なんだこれは……! 口の中で海が爆発している……!

 ミミズとは違う……これが本物……!」


 課長が泣きながらタコ焼きを咀嚼している。

 社長も「うむ、うむ!」と唸りながら食べている。


(……そろそろかな)


 私は時計をチラリと見た。

 あまり長く女神モードでいると、ボロが出る。

 それに、お酌をする「OL」がいないと不自然だ。


「失礼。少し化粧を直しに行ってまいります」


 私は立ち上がった。

 課長が慌てて頭を下げる。


「い、行ってらっしゃいませ!」


 私は優雅に部屋を出て、廊下に出た瞬間、全速力でトイレにダッシュした。

 

 タイムリミットは三分。

 ドレスを脱ぎ、スーツを着て、髪をボサボサに戻し、チョーカーを外す。

 

 ゼェゼェ……。

 息が上がる。

 でも、急がなきゃ。


「よしっ!」


 私はヨレヨレのOL姿に戻り、汗を拭って個室を出た。

 そして、小走りで部屋に戻る。


 ガラッ!


「申し訳ありません! 遅くなりました!」


 私が息を切らして入室すると、課長が鬼の形相で振り返った。


「遅いぞ久住!! 今までどこで油を売ってたんだ!」

「す、すみません、忘れ物がなかなか見つからなくて……」

「まったく! 女神様は今、お化粧直しに行かれたぞ!

 入れ違いじゃないか! せっかくのチャンスを棒に振りおって!」


 課長が説教を始める。

 私は「すみません、すみません」と頭を下げながら、心の中でVサインをした。


(バレてない……!)


 完全勝利だ。

 しかし、この夜はまだ終わらない。

 この後、私はあと3回、この「変身ピストン輸送」を繰り返すことになるのだ。


 私の社畜人生で、最も忙しく、最も愉快な夜が更けていく。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!


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