残業のストレスで「伝説の怪鳥」を唐揚げにする
「――おい、久住。この資料、数字が合ってないぞ」
夜の二十二時。
空調の切れた蒸し暑いオフィスに、課長の怒鳴り声が響いた。
私のデスクに、分厚いファイルがバンッと叩きつけられる。風圧で、書きかけの付箋が舞った。
「やり直せ。終わるまで帰るなよ」
「……申し訳ありません。すぐ修正します」
私は、久住ハナ。二十四歳の事務職OLだ。
頭を下げながら受け取った書類を見る。……これは、そもそも課長が間違えて入力したデータが元になっている。私のミスじゃない。
指摘しようとした言葉を、私はぐっと飲み込んだ。
この会社で、上司への口答えは「反逆」とみなされるからだ。反論すれば、倍の仕事が降ってくることを私は知っている。
「たくっ、お前は名前の通り、本当に『クズ』だな。要領が悪いんだよ、給料泥棒め」
ネクタイを緩めながら、課長は吐き捨てるように言った。
給料泥棒?
手取り十五万、ボーナスなし、残業代も「みなし」で出ない私が?
むしろ泥棒されているのは、私の人生の方だ。
「……お先に失礼しますー」
「お疲れっしたー」
課長は私に仕事を押し付け、部下の愛想が良い女子社員たちを連れて飲みに出かけてしまった。
残されたのは、私と、終わりの見えない修正作業。そして――。
ぐぅぅぅぅ……。
静まり返ったフロアに、盛大な腹の虫の音が響いた。
(……お腹、空いた)
朝は特売の食パン一枚。昼は素うどん。
都内で一人暮らしをするには、食費を極限まで削るしかない。光熱費も上がっているし、家賃の更新料も近い。
この時間じゃ、スーパーの半額弁当すら残っていないだろう。コンビニ弁当なんて一個六百円もする高級品、とても手が出ない。
パソコンの画面が滲んで見える。
ああ、お肉が食べたい。
パサパサの鶏胸肉じゃなくて、脂が乗った、ジューシーで暴力的なお肉が……。
私はエンターキーを強めにッターン!と叩き、決意した。
(狩ろう)
我慢は限界だ。
今日は、あいつを狩って唐揚げにするしかない。
◇
会社を出た私は、まず駅前のコンビニに寄った。
お弁当コーナーには目もくれず、アルコールの棚へ直行する。
手に取ったのは、一番安い「第三のビール(350ml)」。百三十円。
本当はプレミアムな生ビールが飲みたいけれど、贅沢は敵だ。
それから、見切り品コーナーにあった千切りキャベツのパック(半額シール付き)をカゴに入れる。
「レジ袋は結構です」
鞄に戦利品を詰め込み、私は駅とは逆方向の路地裏へと向かった。
雑居ビルの隙間に、禍々しい紫色の光が漏れている場所がある。
立ち入り禁止のテープが破れかけて揺れているそこは、ダンジョン『新宿・裏ゲート』。
ここに出現する魔物は「硬い・臭い・不味い」の三重苦だとして、冒険者たちから見放された不人気ダンジョンだ。
おまけに換気も悪く、ドブのような臭いがするとネットの掲示板には書かれている。
だからこそ、好都合なのだ。
ここなら誰にも邪魔されず、静かに晩酌ができる。
私は鞄から「安全靴」を取り出してパンプスから履き替え、スーツの上に持参した「花柄のエプロン」を着けた。
さらに、愛用の出刃包丁(魔鉄製)を取り出す。
これはリサイクルショップのジャンクコーナーで五百円で買った錆びた包丁だったが、私が夜な夜な研ぎ澄ませた結果、今では鉄骨でも豆腐のように切れる業物になっている。
「よし、行きますか」
ゲートをくぐると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
その瞬間、暗闇から二つの赤い目が光った。
「キシャアアアアッ!!」
飛びかかってきたのは、巨大な狼の魔物『キラーウルフ』。
鋭い爪と牙を持つ、一般人が遭遇すれば即死レベルの魔物だ。
でも、今の空腹極まった私にとっては、ただの障害物でしかない。
「邪魔。今日は鶏肉の気分なの」
スパァンッ!
一閃。
私が包丁を振るうと、空気が裂ける音がした。
ウルフは悲鳴を上げる間もなく、真っ二つになって光の粒子となり消滅した。
ストレスが溜まった社畜の殺意は、Sランク冒険者よりも鋭いのだ。
さらに奥へ進むこと十分。
開けた広場に出ると、お目当ての獲物が現れた。
体長三メートル、トサカが王冠のように輝く巨大な怪鳥。
石化の邪眼を持つダンジョンの主――『暴君コカトリス(危険度A)』だ。
「コケェエエエッ!」
コカトリスが私を睨みつけ、石化のビームを放とうとする。
私はその殺気を受け流しつつ、冷静にスマホを取り出し、配信アプリ『Seekers』を起動した。
「……あ、テスト、テスト。こんばんわ、チャンネル『OLの節約ごはん』です」
現在の視聴者数は、三人。
まあいい、これは私の食事記録用だ。誰に見られなくても、私が美味しければそれでいい。
「今日は残業でむしゃくしゃしているので、このコカトリスを唐揚げにしてビールで流し込みたいと思います」
私がそう宣言した瞬間、コカトリスが激昂して襲いかかってきた。
巨大なクチバシが、私の顔面めがけて突き出される。
風圧だけで髪が乱れるほどの威力。
でも、遅い。課長の説教の体感時間に比べれば、止まっているも同然だ。
私は半歩だけ避けて懐に入り込み、その太い首元に包丁を滑らせた。
「そこ、筋が多いから美味しくないのよ!」
ザシュッ!!
鮮やかな手際で急所を断つ。
ドサァァァッ!と地響きを立てて巨鳥が崩れ落ちる。
ここからが本番だ。私は手早く解体スキルを発動し、一番美味しい「もも肉」をブロックごともぎ取った。
「見てください、この弾力! コカトリスのお肉は毒があるって言われますけど、ちゃんと血抜きをして、高温で揚げれば最高の旨味爆弾になるんですよ」
ダンジョン内の平らな岩場に、携帯用の魔導コンロを設置する。
鍋に油を並々と注ぎ、着火。
その間に、ジップロックに入れて持参した「特製ニンニク醤油ダレ」に、ぶつ切りにした肉を揉み込む。
醤油、酒、みりん、そしてたっぷりのすりおろしニンニクと生姜。チューブではなく、生をすりおろすのが私のこだわりだ。
油が適温になり、パチパチと小さな音を立て始めた。
タレを吸い込んだ肉に片栗粉をまぶし、油の中へ投入する。
――ジュワァアアアアアアアッ!!
ダンジョン内に、食欲を刺激する最高のエフェクト音が響き渡った。
湿った洞窟の空気が、一瞬にして香ばしい匂いに塗り替えられる。ニンニクと醤油が焦げる香りは、人間の本能を直接殴りつけてくる暴力だ。
「ん〜、いい匂い……。二度揚げして、衣をカリッとさせますね」
スマホの画面を見ると、コメントが少しだけ流れていた。
『え、これ本物? CG?』
『コカトリスって食えるの? 普通死ぬぞ』
『音がヤバイ。飯テロすぎる』
『この配信者、何者だ?』
私はコメントを見る余裕もなく、揚がったばかりの黄金色の塊を皿に盛った。横にはコンビニで買った千切りキャベツを添える。
そして、クーラーボックスからキンキンに冷えた缶ビールを取り出し、プシュッと開ける。
「それじゃあ、今日も一日、お疲れ様でした。いただきます!」
箸で持ち上げると、ずっしりと重い。
アツアツの唐揚げを、思い切り口に放り込む。
――カリッ、ザクッ。
軽快な衣の音のあとに、ブワワッと濃厚な肉汁が口の中に溢れ出した。
「っはふ、はふ……んん〜っ!! 美味しいぃぃ……!」
思わず声が漏れる。
噛みしめるたびに、コカトリスの強い旨味が舌を蹂躙する。
普通の鶏肉にはない、野性味あふれる弾力。でも臭みはゼロ。ニンニク醤油のパンチが効いていて、脂の甘味が脳を溶かすようだ。
そこに、冷たいビールを流し込む。
キュッ、ゴク、ゴク、ゴク……プハァッ!
「生き返るぅ……! この瞬間のために生きてる……!」
喉を駆け抜ける炭酸の刺激。
熱い脂と冷たいビールのマリアージュ。
全身の血管に幸福が巡っていくのがわかる。
会社での嫌なことなんて、全部油で揚げて消化してやった気分だ。
私は夢中で肉を貪り、ビールを飲み干した。
口の周りを油でテカテカにさせながら、私は笑った。
さっきまで課長の顔色を窺っていた、しがないOLはもういない。今はただの、このダンジョンで最も幸福な捕食者だ。
――その時、私は気づいていなかった。
私のあまりに幸せそうな食べっぷりが、『Seekers』の「急上昇ランキング」にランクインし、世界中の探索者たちの目に留まり始めていることに。
『なんだこの美味そうな配信は』
『俺、Sランクだけどコカトリスなんて瞬殺できたことないぞ?』
『包丁さばきがヤバイ。剣聖か?』
『この肉、どこで食えるんだ!?』
画面の向こうで祭りが始まっていることなどつゆ知らず。
私は満腹になったお腹をさすりながら、明日もまた会社かぁ、と小さくため息をつくのだった。
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