校正者のざれごと――「引退」とサングラスをかける理由
私は、フリーランスの校正者をしている。
今年の夏、悲しい出来事があった。強烈な日差しのなか、たいして本気で泳ぐつもりもなく、お気に入りのサングラスをかけて海に入った。すると、思いがけず強い波に足をさらわれて、次の瞬間サングラスはあっという間に海の底へ。探しても見つかるはずもなく。
私はふだんから外出時は常にサングラスをかけている。いちばんの理由は目を守るためだ。強い日差しを直接浴びたあと、白い紙に印刷されたゲラ(校正紙)を見ると、目がちかちかする。それに強い紫外線は目を傷める原因にもなる。仕事を続けていくうえでも目は守らないと。サングラス、また新しく買わなきゃいけないなあ。気分はすっかり深海に。
「仕事」に対する向き合い方というのは人それぞれで、仕事はあくまでお金を得る手段と割り切っている人もいるだろう。一方、仕事が好きで「生涯現役」を希望する人もいる。私はどちらかというと後者で、校正は体力を使う仕事ではないし、フリーランスは定年もないのでいつまでも仕事が続けられる。そんなふうに思っていた。
ところが最近、校正を引退したという女性の話を聞いた。理由は仕事が嫌になったというのではなく「目」の問題。彼女は自分の見え方に不安を感じ、迷惑をかけてはいけないと引退する決断をしたという。他人事ではない、切実な問題だ。やはり、将来に向けての予防策はしておかないと。
「目を守る」のはもちろんだが、サングラスをかける理由はほかにもある。
校正者のなかで「社交的な人」というのを私はあまり見たことがない。校正プロダクションの事務所へ行っても、会話はあまりなく、しんと静まり返っている(まあ、仕事の内容から言って当たり前なのだが)。ゲラに向かい、何日も人と接することなく作業をするような仕事なので、社交的な人にはあまり向いていないのかもしれない。
かくいう私自身も、人と話すことに強い苦手意識がある。あまり親しくない人と二人きりになったときの、あの何ともいえない気まずい感じ。学校での保護者どうしの会話など、ずいぶん苦労してきた。みんな、どうしてあんなに滑らかに会話できるんだろう。今PTAで広報の担当をしているが、それもあまりに人と接する機会が少ない自分に対するある種のリハビリのようなものだ。苦行を課している、というか。
サングラスには目を保護する以外に「心のバリア機能」というのもあり、相手との距離感の調整の意味合いがある。それほど日差しが強くなくても思わずサングラスに手を伸ばしてしまうのは、そんな心理の表れなのかもしれない。
日本人はサングラスに警戒心を抱きやすい、という記事を目にしたことがある。一方、欧米ではサングラスに対するそういった感覚はあまり見られないという。それは、日本人(アジア人)は相手の表情を目から読み取るのに対して、欧米人は口元から読み取るからだそうだ。確かに、欧米人の笑顔は歯を見せて口角を大きく上げるのが印象的だ。日本人の場合、口を大きく開けず、目元で表情を表す。日本人にとってサングラスで目を隠すのは、相手とのコミュニケーションを避けているように思われてしまうのかもしれない。
「小山さん、これってどう思います?」
たまたま事務所に出社して作業しているとき、別の校正者から声をかけられた。ふだんは、そう言った会話をすることはほとんどない。少なくとも自分からは。そっとゲラを覗き込む。彼の気になった表現というのが「……これでは集客もおぼつきません」というもの。「確かに、違和感ありますよね」二人で、首を傾げながら考える。「おぼつかない」は「おぼつく」の否定語ではなく全体として一語の形容詞なので、「おぼつきません」「おぼつくまい」などは誤用となるのだ。違和感の正体がわかって、すっきりした気分になる。
こんなふうに言葉について議論し合えるのっていいなと、このとき思った。なんか校正者っぽい。そこで、自分も疑問に思ったことを別の校正者に尋ねてみた。
「こういう調べものって、どのサイト使ってますか?」
すると、彼女は自分がよく使うサイトや、会社に置いてある蔵書のなかから使いやすいものをていねいに教えてくれた。そうか、今まであまり話さなかったけど、この人、こんなに明るく話す人だったんだな。思い切って自分から話しかけたことで、新しい発見をした気分になった。
ある日、いつものようにサングラスをかけて納品に向かった。紫外線から目を保護するサングラスは色が濃すぎてもいけないそうだ。私はふだん近視用の眼鏡をかけていて、サングラスにも同じように度が入っているので、どちらをかけていてもあまり違和感がない。
「この度はご依頼ありがとうございました」
ゲラを手渡し、ていねいにお礼を言って編プロを後にする。外へ出て、さっそくもう一度サングラスをかけようと眼鏡をはずすと、今はずしたほうがサングラス……。
――え、もしかして、サングラスのまま納品してたってこと?
うわあ、やっちゃった。どうして気づかなかったんだろう。先方の担当者はもちろん何も言わなかったが、きっと何かしら思うところがあったに違いない。おしゃれな人ならサングラスもファッションの一部といえそうだが、私の場合は絶対あてはまらない。後悔してももう遅いよね。ああ、しばらくはこの編プロの仕事、来ないといいなあ。




