第7話 星が墜ちるとき
東の平野は、もう霧を失っていた。
朝日が昇る前に、戦場は黒い影と赤い土に覆われている。
墜ちた星たちの群れは、まるで空の裂け目から流れ出した墨のように広がり、
人の形を模したものもあれば、翼や尾を引く異形もあった。
リオスは盾兵の列から踏み出し、背の高い影──鉄仮面の巨影と剣を交える。
刃がぶつかるたび、腕に痺れが走る。
仮面の隙間から噴き出す闇は冷たく、息を吸うだけで肺が凍るようだった。
(まだ倒れるわけにはいかない)
背後には仲間たちがいる。
前には、王都へ通じる平野の道。
この道を破られれば、あの塔のある街も、あの人も……。
巨影の腕が振り下ろされる。
剣で受けた衝撃が肩を焼き、足元の土が抉れる。
その時、遠くの鐘がひとつ鳴った。
★
塔の天文室。
セラは星図に両手を押し当て、必死に銀糸の線をずらしていた。
死の座標はリオスを中心に据えたまま、黒い印の群れの中へと向かっている。
「……お願い、動いて」
息を詰め、星の配列を逆転させる。
方位を入れ替え、時刻を削り、別の星座を起点に組み直す。
だが線は、何度も戻った。
まるで運命そのものが、彼を掴んで離さないかのように。
(なら、最後の手を使うしかない)
星詠みの巫女に禁じられた術──命の交換。
支払う者を、自分に置き換える術だ。
机の上に白布を敷き、蜂蝋を溶かす。
そこに自分の髪と血を混ぜ、星図から抜いた銀糸を沈める。
護符の中心に鏡片を置き、自らの名を刻み始めた。
「ここに来るのは、私」
「支払うのは、私」
★
戦場。
リオスの脇腹に鋭い痛みが走る。
視線を下げると、鎧の隙間から血が滲み、足元へ落ちていた。
それでも退かない。
巨影が再び剣を振り上げる。
(ああ、これで終わるのか)
一瞬だけ、塔の窓辺で笑うセラの顔が浮かんだ。
その光景があまりにも鮮やかで、口の端が僅かに上がる。
「まだ……終わらせない」
全身の力を剣に込め、前へ踏み込んだ。
★
天文室。
護符の鏡片が震え、ひびが走る。
セラはその上から両手で押さえ込み、魔力を流し込む。
視界が白く霞み、耳の奥で星の鼓動が速くなる。
──もうすぐ届く。
指先の熱が、線を塗り替え始めた。
だが、その時。
星図の上で黒い印が膨れ上がり、護符の鏡片が砕けた。
「っ……!」
破片が飛び散り、指先に小さな切り傷が走る。
血が紙に落ち、その赤が銀糸に染み込む。
★
戦場。
巨影の剣が振り下ろされる。
避けきれない──そう思った瞬間、
リオスの視界の端で光が弾けた。
その光は星の破片のように白く、温かかった。
体を包む何かに押され、刃はわずかに逸れる。
代わりに、胸の奥で強い衝撃が弾けた。
息が詰まり、膝が土を打つ。
(……セラ?)
遠ざかる意識の中で、確かに彼女の声を聞いた気がした。
「また、必ず会おう」
あの夜と同じ言葉が、光と一緒に胸に残った。
★
天文室。
星図の中心から、リオスの名がゆっくりと消えていく。
代わりに、セラの名が浮かび上がる。
死の座標は、彼から外れ、自分へと繋がった。
膝が震え、机にもたれかかる。
窓の外では、東の空が薄く明るくなっていた。
星々はもうほとんど見えない。
けれど、自分の胸の中には、彼の光がまだ残っていた。
「今度は……あなたが生きる番」
風が塔を抜け、紙の端を揺らす。
星図の銀糸は静かに震えながら、夜明けを迎えた。