第3話 剣は笑い、星は黙す
石畳を踏む音が、昼の市場に軽やかに響く。
冬の日差しは冷たさの奥に温もりを潜ませ、屋台からは焼きたてのパンや香草の匂いが漂っていた。
露店の女将が、大きな籠を抱えた青年に手を振る。
「おや、リオスじゃないか! また剣の手入れかい?」
「ええ。刃が鈍れば命に関わりますから」
朗らかな笑みと共に返す声は、通りのざわめきにすぐ溶けていった。
籠の中には磨き終えた剣や小刀が光を返している。きっと城下の鍛冶屋に向かうのだろう。
少し離れた角の陰からそれを見ていたセラは、胸の奥で小さな棘が刺さるのを感じた。
──あんなふうに笑う人を、私は失うのか。
その思いが喉元まで上がってきて、冷たい空気と一緒に飲み込む。
角を曲がると、リオスの隣には弓手のナランがいた。
「巫女様、いい天気ですね」
「ええ」
笑顔を返すと、ナランが悪戯っぽく眉を上げる。
「お前、最近この人の顔ばかり見てないか?」
「バカ言え」
リオスの耳がわずかに赤くなる。
その赤みすら愛おしいと思う自分を、セラは叱った。
感情に名前を与えれば、運命を覆す力が弱まる気がした。
名前をつければ、それはただの個人的な想いになってしまう──星の線を動かす力ではなく。
夜、塔に戻ったセラは星図を開く。
昨日試みた位相ずらしは、彼を外せなかった。
けれど記録の中に、一瞬だけナランの名が“死の座標”に現れた瞬間がある。
それは偶然か、それとも……。
彼を救うために、代わりに誰かを座標に置く。
──それなら、運命を逸らせるかもしれない。
その発想に、自分でも背筋が冷える。
だが運命は等しく残酷だ。選ばれる者が変わるだけなら、その選び先を変えるのもまた手段だ。
翌朝、ナランに声をかけた。
「明日の布陣、あなたの位置を少し変えたいの」
「え? まぁ、巫女様が言うなら」
軽く頷いたその笑顔は、何も疑っていない者の笑顔だった。
喉の奥がひりつく。
この変更が彼の死に繋がるかもしれない。
戦場では、一歩の位置、一瞬の遅れが命を奪う。
それを誰より知っているのは自分なのに──私は今、その一歩を彼に踏ませようとしている。
リオスを救うために。
星図の線の上で、彼を“犠牲”と書き換えているのは私だ。
それでも、唇は頷きを返していた。
「お願いね」
その言葉が、彼を崖へ近づける命令になるのだとわかっていても。
★
作戦は、一瞬だけ成功した。
死の座標はナランに移動し、彼が矢で敵の注意を引く間に、リオスは安全圏にいた。
矢羽根が朝日を反射し、戦場の空気を切り裂く。
セラは塔の上から、その動きを息を詰めて見守った。
──このまま、流れが変わる。そう思った。
だが、星図の線が揺れた。
銀の糸が二つに割れ、座標が二人分に広がる。
ナランとリオス、同時に死の位置へ移動する。
何が起きたのか理解するより早く、リオスはナランを庇って飛び込み、刃を受け止めていた。
★
治療所の窓から、雪混じりの光が差し込む。
包帯の上からじわりと赤が滲むのを見て、セラは息を飲んだ。
指先が震える。
「俺は大丈夫です」
そう笑った唇の端が、少しだけ青ざめていた。
その笑みは、痛みに耐えている者の笑みだった。
ナランは無傷でそこにいた。
その事実に、安堵と罪悪感が同時に押し寄せる。
──結局、私は二人とも死の座標に押しやってしまっただけ。
★
塔に戻り、星図を広げる。
運命は、誰かを救えば必ず代償を求める。
そして、その代償は等価ではない──望まれる者を最初に選ぶ。
線を繋ぐ針先が、冷たく揺れていた。
その“望まれる者”の名が、星図に何度も記されるのを、もう見たくなかった。