第2話 運命を欺く手順
夜空は、めくるたび同じ頁へ戻ってしまう本みたいだった。
石塔の天文室にひとり、セラは星図を広げていた。羊皮紙は指先の熱を吸い、書き込んだ墨が乾く音まで聞こえそうな静けさだ。窓外は冬の風。塔壁に打つ音が、遠い波のように一定のリズムを刻んでいる。
リオスの名を見てから、眠る時間はほとんど失われた。目を閉じても、星図の線と彼の笑顔が交互に現れる。
運命の書が示したのは、ただひとつの結末──リオスが世界を救い、死ぬ。
読み返すたび、文面は僅かに言い回しを変えるのに、意味だけは頑として動かない。運命というものは、こんなにも頑固に、同じ場所へ人を押し戻すのだろうか。
あの日、訓練場で陽光の中にいた彼を見たときの鮮やかさが、未来の終わりと結びついて離れない。
いいえ、とセラは思う。戻されるなら、別の入口を作ればいい。星々の語りを、読み替えればいい。
最初の手順は、書き換えではなく読み替え。
星の宮の順序を一つずらす──北冠を先導とせず、東の乙女を起点に据える。彼の剣は守りではなく導きに、死の座標は王都北の峡谷から東の平野へと流れる……はずだった。
セラは、銀糸の針で星図に細工を施す。星と星を結ぶ線を、ほんのわずか別の道筋へ。祈りという名の微笑を添え、夜は更ける。
この瞬間だけは、運命の重さよりも、針先の繊細な手応えが勝っていた。
翌朝、王都に入った伝令は、敵軍の主力が東へ転進したと告げた。
胸の内で小さく拍手する。読み替えは働いた。運命の頁は、確かにめくられたのだ。
だが夕刻、塔の鐘が三度鳴る。別の報。
「王都北の峡谷にて、騎士の一隊、予期せぬ崩落に遭遇」
指先から、銀糸の冷たさがするりと滑り落ちた。紙の上でずらした座標は、空の上でも地の上でも、彼だけを元の位置へ連れ戻そうとする。東へ流したはずの死は、名を変え、形を変え、穴となって待っている。
まるで、彼という存在そのものが“死”にとっての座標であるかのように。
──まだ、終わりじゃない。
セラは星図の上に掌を置いた。鼓動が紙へ伝わる。夜半、灯を落とす弟子たちを下へ返し、一人で窓を開ける。冷えた空気が頬を刺し、瞳に星が沁みる。
次の手順は、位相ずらし。
戦の時刻を動かす。敵の開戦の刻を、星の鼓動に差し込んで遅らせる。鐘の音を一つ、二つ、三つ──空気のうねりに刻む術。
彼が中心に立つ前に、終わらせる。
セラは鐘楼へ上がり、手袋越しにも冷たい縄に触れる。鐘の舌に結び目を作り、魔力の糸で結ぶ。結び目は、星の呼吸と同じ速さで脈打つ。
「間に合って」
誰にともなく呟いて、縄を引く。
澄んだ音が王都を満たす。空気が一瞬、わずかに遅れる。
その夜の星は、ほんの少しだけ、いつもより遅く瞬いた。
翌日正午。
伝令は、敵の戦端が一刻遅れて開かれたと報せる。
だが同じ口で、こうも言う。「遅延の最中、前衛隊の若き騎士リオスが、自ら先陣に立ち、敵の注意を引きつけた」。
遅らせた空白は、彼の勇気で埋められてしまったのだ。
その勇気を、誇らしいと同時に憎らしいと思ってしまう自分がいた。
「なぜ……」
塔の廊下で、セラは壁にもたれた。石の冷たさが背中に沁みる。遅くしたはずの頁には、余白ができて、その余白は真っ先に彼の名前を欲しがる。運命は、誰の手でもよく、支払う者を定めたがっている。
夜、塔の階段で出くわした彼は、いつもの顔で笑った。
「巫女様。よく眠れてますか」
「……ええ」
息が白くなるほど冷たいのに、声に温度が乗ってしまう。胸の中の焦りは隠せないほど大きくなっていた。
リオスは、階段の踊り場で足を止め、帽子を脱いで頭を掻いた。
「明日も前に出ます。あんまり心配なさらないで。俺、丈夫ですから」
言葉の端に、彼自身も拭えない緊張が滲んでいる。
セラは微笑みでそれを包んだ。笑顔は祈りに似ている。祈りは、嘘にも似ている。
彼が去ったあと、セラは一段抜かしで天文室へ駆け戻った。
最後の手順が残っている。運命の支払いを、自分に差し替える。
身代わり護符。
術式は単純で、残酷だ。死の座標に刻まれた“名”を、別の“名”で上書きする。
必要なのは、本当の名前。星に呼ばれている、たった一度きりの音を、己で名乗ること。
セラは机に白布を敷き、蜂蝋を垂らす。蝋に混ぜたのは、髪を梳いたときに落ちた一本の黒い糸、そして、夜明けの露で薄めた墨。星図の余白に、セラという名を、練習するように何度も何度もなぞる。指先が震えて字が揺れた。
「怖いの?」
自分の声が、他人のものみたいに聞こえた。
護符の中心に小さな鏡片を据え、星の印を刻む。
“ここに来るのは、私”。
“支払うのは、私”。
“彼ではなく、私”。
その瞬間、鏡片に映った灯が、ふっと揺らいだ。
ぴし、と小さな音がする。
護符の縁から、ひびが走った。
「まだ、刻んでいないのに……」
嫌な予感が背骨を這い上がる。まるで星が“ふさわしくない”と突き返してきたようだった。
ひびは蜘蛛の巣のように広がり、鏡片を包む。蜂蝋の下、刻んでいないはずの別の名が、上から薄く浮かび上がった気がした。見間違いだ。そんなはずはない。
セラは掌を重ね、術を押し込む。
熱が手のひらに集まり、肌の下を流れて星に昇っていく。
──行って、私の代わりに。
火花のような光が、護符の真ん中で弾けた。
焦げた匂い。
護符が、焼け落ちた。
「……どうして」
黒く縁取られた鏡片が、音もなく崩れて粉になった。蜂蝋は真ん中から溶け、まるで見えない誰かに拒まれた跡だけが残る。机の上の星図に、すすが落ちた箇所は、不思議と王都北の峡谷の真上だった。
星は言う。
支払う者は、既に指定済み。
セラは椅子から立ち上がり、窓を開け放った。夜気が頬を刺す。塔の下の街灯が豆粒のように続いている。遠くの門は閉じ、朝まで誰も出入りできない。
彼を救う道を、またひとつ失った。
「やめない」
声は、とても小さかった。けれど確かだった。
運命が頑固なら、こちらはもっと頑固であればいい。欺く手順はいくらでも作れる。読み替え、位相ずらし、身代わりに続く第四の手順を。
星の沈黙は、返事をしない。返事をしないことが返事になる夜だってある。
扉を叩く音がした。
「巫女様?」
リオスの声だった。
セラは慌てて護符の残骸を布で包み、灯を絞る。
「どうぞ」
入ってきた彼は、いつになく静かな顔をしていた。
「眠れなくて。塔の上なら、星がよく見えるかと思って」
言葉を選ぶ彼の仕草は、剣よりも不器用で、胸に触れた。
セラは窓辺を指さす。二人で、石窓の縁に並んで立つ。
息が白い。隣に立つと、彼の体温が、こちらの寒さを簡単に上書きしてしまう。
「巫女様は、星に何を聞いてるんです」
「……未来を」
「未来は、星の上にあるんですか」
「ええ。上にあるものは、地上にもあるの。……たいていは、同じ形で」
言葉に、自分で傷ついた。同じ形──同じ結末。
リオスは、窓枠に拳を置いて、しばし黙って星を見た。
「同じなら、変えたくなりますね」
「え?」
「同じ道を二度歩くくらいなら、草むらでも泥でもいいから、別の道を選びたい。
……俺、そういうの、嫌いじゃないです」
その言葉が、星図の線をほんの一瞬だけ揺らしたように見えた。
胸のどこかで、折れていたものが、かすかに鳴った。
セラは横顔を見つめた。彼の睫毛に、夜の灯がひと粒、留まっている。触れれば落ちてしまいそうな、脆い光。
「明日、東の門の警備に回ります」
「……東?」
読み替えた先の方角。運命は、彼をどこへでも連れていく。
「寒いですから、巫女様も、風邪ひかないように」
それだけ言うと、彼は帽子を被り直し、軽く会釈して出て行った。
扉が閉まる音がして、静けさが戻る。
セラは机に戻り、布の包みをほどいて、焼け落ちた護符を見た。灰になった鏡片に指を触れる。冷たい。
冷たさの向こうに、温い記憶がある。
砂塵の匂い、剣帯の擦れる音、背中合わせの呼吸。まだ起きていない未来の光景が、胸の奥を震わせる。
──第四の手順。
彼を中心から外すのではなく、私が中心へ入るやり方。
支払う者が指定済みなら、指定そのものを動かす“鍵”を探す。鍵はどこかにある。星図の、この余白かもしれない。
余白は、言葉より多くのことを記す。いつだって、余白から物語は生まれるのだから。
窓の外で、雲が薄く切れた。
一筋の星が、遅れて夜を横切る。
鐘は鳴らない。誰も知らない間に、頁はまた一枚、めくられていく。
セラは墨をすり直し、新しい紙を広げた。
手はまだ震えている。それでも筆先は、迷わず白の上に降りていく。
「次の頁へ」
囁く声は、星の呼吸に混ざって、すぐに見えなくなった。
見えなくなるものほど、強く在る──そんな夜だった。