第6話 流星が、記憶をほどく
鉄扉の鍵が、夜の講堂に乾いた音を落とした。
日下部湊から借りた鍵は、思ったより重い。錆の匂いと、冬の金属の冷たさが指先にしみる。
扉を押し開けると、屋上の空気がいっせいに頬へ流れ込んだ。風が高い。街のざわめきが遠くに沈み、かわりに耳の奥で自分の鼓動が大きくなる。
先に上がっていた星野凌央が、フェンスの近くに立っていた。
暗がりでもわかる黒髪の影、マフラーの端、コートの肩に積もる粉雪。振り向いた瞳に、街の光と星の粒が混ざって、色の名前を失っている。
「寒くなかった?」
「……平気。ありがとう、鍵」
風にコートのすそが鳴り、ふたりは自然とフェンス端のくぼみに寄り添う形になった。
見下ろす街は金色の地図のように灯り、吐く息は白い雲になってすぐ解ける。遠くに電車の音。屋上の床は昼間の熱をすっかり失い、石の冷たさが靴底から真っ直ぐ伝わってくる。
「あと十分くらいで、極大」
凌央が空を見上げたまま言う。
「うん」
紗良も同じ方向へ顔を上げる。
澄んだ夜だ。視界の端から端まで、星が細かい砂のように散り、どこかの星座が線を引けば今にも結ばれてしまいそうだった。
ふいに、紗良のマフラーの端が風でほどけ、凌央のコートの肩にかすった。
彼が反射的に手を伸ばす。手袋越しの掌が布をそっと押さえ、結び直してくれる。
その間、ふたりはほとんど言葉を持たなかった。近すぎる距離と、心臓の音が台詞を奪う。
(言わなきゃ)
紗良は息を吸う。冬の匂いは、夜の紙みたいに乾いていて、すこし甘い。
「ねえ」
「うん」
「ここに来るまでに、変なこと考えてた。
……“今日、何かが終わって、何かが始まる”って」
声に出してみると、胸の奥で固くなっていたものが少しだけ動いた。
凌央は、ゆっくり頷いた。
「俺も同じ。終わるって言葉、怖いのに……すこし、安心する」
紗良が顔を向ける。
「安心?」
「ずっと探してたものが“見つかる前の怖さ”が、ようやく終わる気がして」
ふたりは笑う。どちらも少しだけ、心細い笑い方だった。
雲が裂けるように、最初の流星が落ちた。
静寂が、目に見えない音になって広がる。
一筋、二筋。夜の天幕に傷がつくたび、空が近づく。
★
流れ星を見上げているのに、視界に別の光が差し込んだ。
燭台の炎、石壁に揺れる影。冷たい塔の窓枠。
背中に感じるあたたかさ──同じ呼吸の速さ。
剣帯の金具がかすかに鳴る音。
(……知ってる)
胸の奥がきゅうっと縮まって、そこへ名前のない痛みが流れ込む。
「凌央」
呼んでから、違うと思った。舌の上に乗る音が、しっくり来ない。
ここじゃないどこかで、私は別の呼び方をしていた。
それを口にするのが、たまらなく怖くて、たまらなく恋しかった。
星は容赦なく落ち続ける。目を閉じてもまぶたの内側が青く光る。
風が強くなり、髪の先が頬を打つ。
それでも紗良は、目を逸らさなかった。逃げたら、また何かを見失ってしまう気がしたから。
★
星が落ちるたび、重さの記憶が帰ってくる。
右の肩に馴染む感覚。鉄の冷たさ。刃の光。
誰かを庇って半身をひねったとき、肋骨の内側で空気が暴れた。
血の匂いと、祈りの声。
風の音に紛れて、鐘が遅く鳴る。
(手入れを怠らない。刃が鈍れば命に関わる)
口の中で古い自分の声がした。
その声が向かう先に、白い衣の人影が立っている。
紗良じゃない。もっと遠い名だ。
けれど同じ瞳の色。星を飲み込んだみたいな紫。
「紗良」
自分の声が少し震えた。
「もし、俺が“知ってるはずのない場所”を知ってたら、笑う?」
「笑わない」
即答だった。
「私も、きっと同じだから」
そのとき、空がまたひとつひらいた。
★
流星群は、予報の数字よりも多かった。
青白い線が幾重にも重なって、夜空は刺繍みたいにきらめく。
白い息が重なり、ゆるく寄り添う肩のあたりで、ほんのり互いの体温が混ざった。
ふいに、紗良の耳の奥で音がした。
紙が焦げる小さな音。
護符。鏡片。ひび。
“支払う者は、既に指定済み”。
言葉の形だけが、はっきり蘇る。
喉が痛む。
(違う──指定を、動かす鍵を探して)
凌央の胸にも、別の音が広がっていた。
乾いた土に膝をつく音。剣を地面に突き立てる震え。
戦いのあと、顔を上げたとき、塔の窓に立つ白い影。
声は届かないのに、唇だけで交わした言葉。
“また、必ず会おう”。
その直後に、光になって消えた彼女。
胸の奥に残った熱。
(生かされた。託された)
世界がふたつ、ぴたりと重なる。
足元のコンクリートと、石畳。
街の灯りと、塔の窓明かり。
マフラーの繊維と、星刺繍の縫い目。
ふたりの呼吸は、同じリズムで速くなる。
「……やっとだ」
凌央が息を漏らす。目尻に星の粒が映って滲む。
「やっと、見つけた」
その言葉の形を、身体が先に覚えていた。
紗良の唇が震え、遠い名がそっと零れる。
「リオス」
呼んだ瞬間、胸の痛みがほどけ、代わりに熱が満ちる。
言えた。ずっと探していた音を、取り戻せた。
凌央──いや、リオスは、目を閉じて笑った。
頬に一筋、涙が滑る。
「セラ」
その名は、たった二音で、世界をまるごと呼び起こす合図だった。
指先が触れる。
手袋を外す。空気に触れた皮膚がぴりりと冷え、すぐに相手の温度で温まる。
ふたりの手が、まるでそこに“もともとそうあるべきだった”形で重なった。
「どんな世界でも、必ず」
紗良──セラが言う。声はかすれていたが、質量を持っていた。
「今度は、絶対に離さない」
リオスが応える。言葉は刃ではなく、誓いの布のように柔らかく、強く二人を結う。
風が一段強く吹いた。
マフラーの端と、見えない巫女衣の裾が同時に揺れる。
星は落ち続け、世界の縫い目が光でなぞられていく。
二人の周りだけ、空気が少しだけ暖かい。
それは幻想でも錯覚でもなく、約束が現在形になったときの温度だった。
「……覚えてる?」
セラが問う。
「塔の窓から、見下ろしてくれた朝」
「覚えてる。俺は剣を地に突き立てて……生き延びた。生かされた」
「ごめんね」
「違う。ありがとうだよ。俺は、その言葉でここまで来た」
言葉を重ねるうち、二人はふっと笑った。
涙は冷えた頬で、すぐに乾く。
手は離さない。今は、離さなくていい。
やがて流星は、ゆっくりと数を減らした。
屋上には、風と遠い街の音だけが戻ってくる。
凌央が、いつもの癖で空を見渡し、笑う。
「湊に、ありがとう言わないと」
「いろはにも。……“運命では?”って、ずっと言われてた」
二人で小さく笑う。その笑いにはもう、怯えは混ざっていなかった。
帰り際、扉へ向かう足取りは驚くほど軽かった。
鍵が金属に触れるたび、短い音が夜に落ちる。
階段の踊り場で、ふたりは同時に振り返った。
屋上の向こう、星の海はまだ広がっている。
「セラ」
「リオス」
触れ合った指先が、熱を分け合う。
冬の風が、二人の間を通り抜ける。
星は何も言わない。ただ、見守っている。
背中合わせではなく、向かい合って。
あの日できなかった形で、指を絡めた。
幾筋もの流星が、まるで祝福みたいに夜空を走り続けた。




