第1話 既視感は、冬空から
冬の午後、大学の図書館はいつもより静かだった。
外では木枯らしが吹き、並木道の葉がすっかり落ちている。
窓から差し込む光は弱く、机の上に広げた教科書の端を淡く照らすだけだ。
千崎紗良はペンを走らせながら、ページの活字を追っていた。
インクの匂いと紙のざらつき。
館内に響くのは、時折ページをめくる音と、遠くの時計の針の小さな音。
何も変わらない午後のはずだった。
──ふと、視線を上げた瞬間。
通路の向こう、背の高い青年が歩いてきた。
黒髪が窓から差す光を受けてきらりと揺れ、整った輪郭が一瞬だけ鮮明に見えた。
そして、目が合った。
一瞬だった。
なのに、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
息をするのを忘れるほど、強い既視感。
知らないはずの顔。
けれど──どこかで会ったような、いや、それ以上に「ずっと知っていた」ような感覚。
相手はすぐ視線を外し、奥の棚へと消えていった。
その背中を目で追いかけたくなったが、意味が分からずにペンを握り直す。
(……誰、あの人)
ページをめくる手が、何度も同じ段落を読み返してしまう。
「お、いい顔してるじゃん」
肩口から声が降ってきた。
振り向けば、友人の綾瀬いろはがコートを脱ぎながら隣の席に座る。
柔らかなベージュのマフラーから、微かに甘い香水が漂った。
「いい顔って?」
「なんか、今、少女漫画のヒロインみたいだったよ。あの窓からの光とか」
「……ただ勉強してただけなんだけど」
「ふーん。じゃあその耳の赤さは何?」
「え?」
無意識に耳に触れると、ほんのり熱い。
「ねえ、今さ、誰かと目合わなかった? あれ運命では?」
「運命って……」
笑ってごまかそうとしたが、胸の奥でさっきの既視感がまだ疼いている。
いろはは机に突っ伏しながらニヤニヤしている。
「冬空で目が合うとか、ベタだけど絶対なにかあるやつ」
「ただの偶然だってば」
そう口にしながらも、自分の声が少し弱いことに気づく。
その後、いろはと軽口を交わしながらも、心の半分は別の場所にあった。
あの青年の瞳、光の入り方、ほんの一瞬の息苦しさ──
まるで冬の空気の中に、長い間探していたものの匂いを見つけたような感覚。
夕方、図書館を出ると、空は薄い群青色に変わっていた。
風が頬を刺し、遠くに一番星が輝き始めている。
思わず見上げたその星に、言葉にならないざわめきが広がった。
(また、会える……?)
そんなことを思ってしまう自分に、少し驚きながらも、
紗良はコートのポケットに手を入れ、足早に駅へ向かった。




