ありがとうございます!一番ほしかった贈り物です!
「本当のことを言ってもいいんですの?それなら――」
ヴァイオレットは、いつになく瞳をキラキラさせて興奮気味に身を乗り出した。
ヴァイオレット・リンデンドル伯爵令嬢と、ルーク・フォン・バルバトス伯爵子息は婚約者である。彼らの母親が従姉妹同士ということもあり、幼い頃からよく二人で遊ぶことが多かった。両親たちは幼い子どもたちが一緒に育っていく様子を見て、自然とそうなる運命だと思ったのか、二人の婚約を結んだのであった。
ルークは、幼いながらも、ヴァイオレットのことを憎からず思っていた。ヴァイオレットは美人であったし、性格も穏やかで、ルークのあとをいつもついてくるいじらしさもある。ルークはこの婚約を喜ばしく思っており、ヴァイオレットと結婚する日を今か今かと待ちわびていた。
ヴァイオレットに似合うと思えばドレスや宝石も贈ったし、定期的に開催されるお茶会も必ず出席してヴァイオレットを笑わせようとさまざまな話題を振る。話題のお菓子も必ず用意し、ヴァイオレットが食べきれないときはお土産としても渡していた。彼女はいつも喜んで、おいしかったと言ってくれる。
このように、ルークは、この幼なじみの婚約者を、彼なりにとても大切にしていたのである。
ところが成長するにつれ、ヴァイオレットは立派な淑女としてのマナーを身につけ、幼いころの無邪気な態度がだんだんなりを潜めていった。
自分と結婚するためにがんばっているのだと理解はできるものの、一抹のさびしさは拭えない。昔のように無邪気なヴァイオレットが見たいと伝えてみても、婚約者は優雅に微笑むだけである。
ルークはなんとかして、この大切な婚約者の、本来の姿を取り戻さねばならないと考えた。
ヴァイオレットは天真爛漫で、よく笑い、よく泣く、とても心が素直な人間だ。そんな彼女の心をゆさぶることができればあるいは――そう考えたルークの行動は早かった。
本来のヴァイオレットを取り戻すべく、ルークはたまたまヴァイオレットのいない夜会で知り合った男爵令嬢に相談した。
ピンク色のふわふわの髪をして、くりくりの大きな目をした彼女は、在りし日のヴァイオレットの天真爛漫さがかすかに感じられ、ルークも親近感をすぐに覚えたのだ。
「最近、婚約者が冷たいんだ」
「かわいそうなルーク様……。ルーク様がこんなにも愛しているのにひどいわ!」
男爵令嬢の言葉に、ルークは満更でもなさそうに頷く。
「ヴァイオレットは昔から照れ屋なところもあったからな」
「……そうだわ!わたしと浮気をしませんか?」
「何を言っている!?」
「もちろん、フリですよ!ルーク様が浮気しているかもとなれば、その婚約者?の方も焦るんじゃないかしら」
さすがのルークも、男爵令嬢のこの案にすぐには頷けなかった。貴族にとって醜聞はご法度である。それに、ヴァイオレットと万が一でも婚約解消はしたくない。
「ルーク様、心配いりませんわ」
男爵令嬢がルークに腕を絡め、そっと耳元でささやく。
「何かあれば、わたしからもきちんとご説明します。ルーク様にご迷惑はおかけしません」
女性とここまで近距離で話したことがなかったルークはドキドキして、思わずその甘言に頷いてしまったのだった。
幼いころに結ばれた婚約を、ヴァイオレットは子どもながらに「貴族の娘はそういうもの」と受け入れていた。母親同士の仲も良く、ルークとの仲も良好だと思われていたので、婚約が結ばれたのはむしろ当然だったとも言える。
ルークとの婚約が成立したと両親に言われたときの、両親のうれしそうな顔を、ヴァイオレットは今でも覚えていた。
婚約者になってから、ルークからたびたびヴァイオレットあてに贈り物が届いた。ピンクのふりふりしたドレスやいかにも高価そうな宝石など、あまりヴァイオレットの好みでないものが定期的に届き、身につけなければルークはひどく機嫌が悪くなる。
定期的に開催されるお茶会も、婚約者としての義務だと言われて伺えば、ルークの自慢話やヴァイオレットをいじるような発言を聞かされる。
ただ流行っているだけのヴァイオレットの口には合わないお菓子は、それを食べないと、必ず食べて感想を言うよう帰り際に持たされ、家に帰って泣く泣く口にすることも多かったし、おいしかった、ここがよかったという感想以外は受け付けてもらえない。
伯爵令嬢としての淑女教育を受けていなければ、ルークに対して怒りをぶちまけていたことだろう。
何があっても優雅にほほ笑んでかわせるようになったのは、ヴァイオレットの自衛の一つだ。
ところが、ルークが淑女のヴァイオレットを「つまらない」と感じるようになった。
昔のヴァイオレットなら、とため息をつかれるようになり、そのたびにヴァイオレットの心はすり減っていく。しかし、ルークと会う日は必ず笑顔で送り出す両親のことを考えると、婚約解消を言い出す勇気も出なかった。
そうしてこの婚約にもやもやを抱えながらも、それを言い出す勇気もなく一人でぼんやり悩んでいたときのことである。
――ルーク・フォン・バルバトスが男爵令嬢と浮気をしているようだ。
このような噂が社交界に流れ始めた。
最初のころは、ヴァイオレットもこの噂を信用していなかった。ルークは変わらずお茶会にヴァイオレットを呼んだし、嫌がらせとしか思えない贈り物も届いていたし、どうしても二人で参加しなければならない夜会には常に隣にはりつき、ヴァイオレットが仲の良い令嬢と話そうとするのも嫌がるなど、何も変わらなかったからである。
やっぱり噂は噂だわ、と落胆するヴァイオレットだったが、状況が変わり始めたのは噂が出回って一ヶ月後のことである。
「……え?」
ルークから届いた手紙に、ヴァイオレットは驚きが隠せなかった。曰く、「明日のお茶会は用事ができたので中止としたい」とのことである。
何度も何度も読み返し、末尾に書かれた署名を確認し、ヴァイオレットの頬が紅潮する。
「や……やったわ!」
思わず叫んだヴァイオレットに、側に控える使用人も何事かと驚いた。
「お嬢様?どうかなさいました?」
「ええ、明日のルーク様とのお茶会がなくなったの」
婚約者とのお茶会がなくなってなぜ嬉しそうなのだろう?
まだリンデンドル伯爵家に勤め始めたばかりのその使用人に、ヴァイオレットの気持ちなどわかるはずもなく。少し変わったお嬢様なのかしら、と余計な誤解を与えていたことにヴァイオレットは気づかない。
そんな使用人の疑問をよそに、ヴァイオレットはあの苦痛なお茶会の解放感でいっぱいだった。目の前でため息を吐かれたり、気に入らないことがあると嫌味を言われたりすることもない。
今日はなんていい日なのだろう、とヴァイオレットは鼻歌まで歌って、明日は好きなドレスを着て街に買い物に出かけようかしら、などと考えていた。
その日をきっかけに、ルークからたびたびお茶会やエスコートのドタキャンが増え、代わりに「ルークが男爵令嬢にのめり込んでいるらしい」という噂がだんだん大きくなってきた。
ヴァイオレットの両親の耳にも入ったようで、すぐにバルバトス伯爵家にも連絡を取ったが、「息子にはよく言い聞かせるので、婚約はこのままで」という返答だったようだ。なかなか婚約解消にならないのは残念だったが、ヴァイオレットは結婚までにようやく自由な時間が持てたのだと納得した。どこの男爵令嬢かはわからないが、直接お礼を言いたいくらいである。
ドタキャンが増えたとは言え、ルークとのお茶会が完全になくなったわけではない。それでも以前よりは頻度が減ったことで、ヴァイオレットにも幾分か余裕が出てきた。
「ヴァイオレット、その、噂の件だが……」
「はい」
「……それだけか?」
「ルーク様のことを信じておりますわ」
なるべく機嫌を損ねないようにと選んだ言葉はどうやら正解だったらしい。
「そんなに俺のことを……。そうだ、ヴァイオレット、これも取り寄せた菓子なんだ」
砂糖まみれのお菓子だが、心に余裕ができたヴァイオレットはためらわず口にする。
「おいしいですわ。いつもありがとうございます、ルーク様」
このお茶会が終わればまたしばらく自由になれる。そう思えば、ヴァイオレットの笑顔も、自然と心からのものになっていたのであった。
「アリア、すごいぞ!」
男爵家にやって来たルークがいつになく興奮しており、アリア・マキアベリ男爵令嬢は首をかしげる。ルークはアリアにとって退屈な男ではあったが、伯爵家というそれなりの家柄で見目も悪くなく、ちょうどいい相手であった。婚約者に対して歪んだ愛情を持っているようだが、基本的には人を信じやすく、騙されやすい。
社交界で噂が出回って、バルバトス伯爵家が必死に火消しに回っているというのに、この男は周りが何も見えていなかった。そのほうが、アリアにとっては操りやすかったのだが。
「ヴァイオレットは何があっても俺のことを信じると!しかも久々に心からの笑顔を見せてくれたんだ」
おそらくルークの勘違いだろうと思ったが、アリアもにっこり笑う。
「よかったですわ!ルーク様のお役に立てて、わたしもうれしいです」
「やっぱり、多少わからせることも必要なんだな」
満足げなルークに、アリアは内心舌を出す。お金があって顔もよくなかったら、本当はこんな男なんてお断りだ。
「本当によかったですわ。それより、次のデートですけれど……」
「デートではなく、作戦だろう」
「ええ、そうですね……。ところでわたし、新しくできたカフェなんかいいと思うんです」
「ふーん。まあ、そこはアリアに任せるよ。きっとヴァイオレットは今ごろ俺が恋しくて泣いてるかもしれないな……。よし、帰って手紙でも書くか」
「あら、もうお帰りになるの?」
「アリアにどうしても報告したかっただけだから」
「少しくらい焦らしたほうが、婚約者様ももっとルーク様のことを考えるはずですわ。おいしいお酒が手に入りましたの、よろしけばどうです?」
アリアに手を握られてほほ笑まれると、ルークはただただ頷くしかなかったのである。
ルークと男爵令嬢の噂はおさまるどころかますます広まり、とうとう事件が起きてしまった。
「……今、何をおっしゃいましたの?」
ヴァイオレットは、母の冷たい声に胸が締めつけられる。結果的に両親を悲しませてしまったのはやるせない。
冷たい目を向ける両親の視線の先には、バルバトス伯爵夫妻とルークが青白い顔をしてたたずんでいた。リンデンドル伯爵家の家令も側に控えていたが、どことなくまとう空気が冷たい。
「本当に……どうしてこんなことになったのか……」
バルバトス伯爵はぶるぶると肩を震わせ唇を噛む。夫人は懸命に涙をこらえているが、いつもの美しさは見る影もなく、虚ろな目をしている。ルークは視線をさまよわせ、時おりヴァイオレットの顔をうかがっていたが、二人の視線が交わることはなかった。
「男爵令嬢が懐妊?それもご子息がまいた種ですって?」
何があったのかはわからないが、ルークと男爵令嬢はある日酒を飲み、そのまま一線を越えてしまったようだ。そのときすぐにルークがバルバトス伯爵に相談していれば何とかなったかもしれないが、ルークは相談もせず、その三ヶ月後に男爵家が「責任を取れ!」と怒鳴り込んできたらしい。なんとも愉快な話である。
「……謝ってもどうにもなりませんが、本当に申し訳ございません。本当に……」
とうとうバルバトス伯爵夫人が泣き出す。
「卑怯だわ!泣きたいのはヴァイオレットのほうよ……」
母もたまらず泣き出すが、ヴァイオレットは「泣きたいとは思わないわね」と呑気なことを考えていた。彼女が心を痛めているのは両親を悲しませたことであり、むしろこうなったことを内心でとても喜んでいた。
さすがにこうなっては婚約解消せざるを得ないだろう。傷はついてしまったが、ルークと結婚するよりははるかにマシだ。
「ヴァイオレット……本当にすまない……。でも、俺は騙されたんだ!あの女、調子のいいことを言って俺を……!」
ルークは縋るようにヴァイオレットを見るが、ヴァイオレットはそれを無視して紅茶を飲む。
「俺が愛してるのはヴァイオレットだけなんだ!男爵家のことはなんとかするから、ヴァイオレット……」
「勝手なことを言うな!このバカ息子!」
バルバトス伯爵がルークの頬を殴りつける。この状況で「愛してるのはヴァイオレットだけ」とは、やはりルークは自分のことしか見えていないのだろう。ヴァイオレットは短くため息をつくと、淑女教育で身につけた笑顔を浮かべる。
「幼いころからのありがたいご縁で、ルーク様との結婚を楽しみにしておりましたが、こうなっては仕方ありませんわ。わたくしは身を引きますので、男爵令嬢とお幸せになってください」
バルバトス伯爵夫妻が肩を落とすなか、なぜかルークだけはヴァイオレットの言葉に俄然盛り上がったようで「やはり!」とうれしそうな声を上げる。
「ヴァイオレットも俺のことを愛してるんだな!ヴァイオレット、大丈夫だ。俺たちは必ずもとに戻れる。バルバトス伯爵家の力で何とかしてみせる!だから、ヴァイオレットの本当の気持ちを聞かせてくれ!」
この男は何を言っているんだ?
バルバトス伯爵夫妻も含め、その場にいる全員がぽかんとルークを見る。
ヴァイオレットの思考は、いつになく冷静であった。やはりこの男は、何もわかっていない。
「本当のことを言ってもいいんですの?それなら――」
ヴァイオレットは、いつになく瞳をキラキラさせて興奮気味に身を乗り出した。
「わたくし、お母様同士が仲良しで、幼なじみだからという理由でルーク様と婚約しましたけれど、ずうっと苦痛でした!ルーク様から贈られるダサいプレゼントも、まったくおいしくないお菓子も、ずっとずっとずっと苦痛でした!お茶会もお手紙のやり取りも義務なので行っていましたが、地獄の日々でした!ですから今、わたくしは心からうれしいのです。むしろ件の男爵令嬢には感謝申し上げたいくらいだわ!ルーク様を引き取ってくださってありがとう、と」
一息で言い切ると、ヴァイオレットは心からの笑みをルークに向ける。
「さようならバルバトス伯爵ご子息様。金輪際の関わりを断つことができ、大変うれしく思います。婚約解消が、わたくしが一番ほしかったものですの。何よりの贈り物ですわ」
ルークは茫然とヴァイオレットを見つめる。
「さて、婚約解消の書類はどこですか?何枚でもサインいたしますわ」
ヴァイオレット・リンデンドル伯爵令嬢は、一番の贈り物を得て、人生で最も晴れやかな気分であった。