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「雲河」という名を付けたのは外界の者たちだった。河のように塵やガラクタが捨てられる場所、それが名前の由来だった。しかし、河というには乏しく、雲のようだ、と誰かが言った。あるようでない、そしていつの間にか姿形を変えているといった意味合いから名付けられたようだが、通称であり正式な名前ではない。
というのも、ここはないはずの場所だからだった。日本地図を見た際の琵琶湖のように、東京都の一部分がぽっかりと穴の開いた状態――琵琶湖であればそこは湖なのだが、ここは違う。地図に記載されていない架空の場所。空白。あるはずのない場所だった。
あるはずのない場所――当然、法は及ばない。故に、不法投棄、死体遺棄、挙句の果ては人身売買。雲河で暮らす者たちには戸籍がない。彼らも実際には存在しているが、存在していないはずの人間なのだから無断で働かせようが、理不尽に殺そうが何をしても罪に問われることはない。死体遺棄に関しても、雲河はないはずの場所なのだから、雲河に遺体が存在していたとしてもそれはないものと同義だった。消えた、若しくは神隠し、現代ではそういう理屈で罷り通っている。
形式上は。
もし本当に法が及ばず、何をしても許される無法地帯であればとっくのとうに雲河で暮らす人々は絶滅し、不法投棄されたガラクタは溢れ、近隣の住宅の傍にまで達し、都合のいい人々によって捨てられた死体でいっぱいになっているはずだ。そうならずに済んでいるのには勿の論、理由がある。
強いと知っている者に対して牙を向けないのは当然の道理だ。彼らがいるからこの国が成り立っている。彼らに歯向かえばこの国は破綻する、すなわち運河の住人は強かった。確かなのはこの一点のみだ。
雲河では国民の生活の水面下で様々な取引が数多く行われている。政治家や傲慢な富豪にとって都合がいいからだ。雲河に住む彼らはその取引で得た金で生活している。しかし、彼らの取り分は必要最低限だ。むやみやたらに金をふんだくろうとはしない。それが未だに有権者たちとのコネクトを保ち続けている理由なのかもしれない。有権者たちからしてみればたった数万、数十万円で、法治国家の現代ではどうすることもできないことを実現させてくれるのだから安い話だ。
一見ハイリターンのように見えるがしかし、ハイリターンの一方で、一歩間違えば奈落の底へと落ちることになる。雲河はないはずの場所だ。法が及ばない無法地帯。警察も、医者もいない。ここに立ち入れば弁護士だろうと弁護士バッチはただのファッションであり、一般人と化す。取引を行いに雲河に訪れて何かあっても助けてくれる者はいない。
皆、雲河で何かあったら……と考えるため、実際はハイリスクハイリターンだ。雲河で起きたこと、雲河の住人にかかわることは法で裁けない。要するに、雲河の住人が雲河の敷地内で、悪意を持って人を殺したとしても、それは突然死として処理される。仮に携帯電話で助けを呼び、軍隊が雲河に押し寄せてきたとしても、大した利益は生まれない。助けを乞うた人間は救われるかもしれないが、これから先都合のいい取引相手は失われることになる。取引をする界隈で、そういう暗黙の了解があった。
それに、たとえ軍隊で押し寄せたとしても、数人は確実に死ぬということを軍隊全員が明確に理解している。そして実家に自分の骨が帰らないことも理解している。両親が葬式を開いてくれることも、仏壇に線香を立て祈ってくれることも、永遠にない。突然死どころか失踪者として扱われるのだ。
不利益しか生まないのである。そうであれば、有権者一人が死んでくれるだけの方がまだましなのだ。
それぐらい、雲河の住人は強かった。
強い者は、強いからといってむやみやたらに暴力を行使しない。そのため、頭を下げ、数万円さえ支払えば大抵の取引は成立する。
いつからここが地図に存在しない場所になったのか――知る者はもう現代にはいない。先人たちは雲河に関する書物を多くは残さなかった。
ただ、現代には知る者がいないというだけで、知っている存在はいるのかもしれない。雲河の住人――彼らはどうして自分がここに居るのかを知っている。育児放棄が大半だが、中には雲河で生まれ雲河で育った者もいる。
歴史は受け継がれるものだ。雲河には、住人たちも出入りしていない秘密の部屋があった。そこにはどうして地図から消えたのかという謎が解ける書物があるだろう。しかし、住人すらその部屋の場所を知らない。というのも、住人たちはそれほど秘密に対して好奇心を抱いていないためだ。現状にそれほど不満がないのがその理由。
不法投棄されたガラクタを囲うように建っている高層アパートは、「コ」の文字みたく三つ建っている。その部屋一つひとつを調べるには、根気がいる。先人たちは「我々の隠していることを探せ」と言ったそうだ。先人たちは、自分たちが隠していることの正体を明かさなかった。「隠していることから探せ」先人たちが残した時代を跨ぐ宝探しゲーム――参加する者は今の雲河にはいなかった。