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階段の上の方で、砂を蹴る足音がする。すぐに内鍵をかけた。階段の下ではららが口を手で覆い、嗚咽を漏らしていた。「どうした?」「大丈夫?」と訊いても返事は返ってこなかった。
アタッシュケースを持って逃げようにも、地上では足音がしている。ららは完全に冷静さを失っており、未来を見てもらうこともできない。
どうすればいい……。
そのとき声がした。
「沢田くん?」
女性の声だった。しかし、当の沢田にはその声の主が誰なのかわからなかった。
「わたし、あんた知ってるよ。覚えてる?」
勿論覚えていない。
「大学でサークルの飲み会誘ったのにあんた断ったよね。あの時話したこと――私、誰も信じてないし信じられないのは変わらないけど、大学で唯一あんただけは信用したいと思った」
信用――そこまで聞いて沢田は思い出した。あの日沢田は図書館で――。
特に何か目当ての本があったわけではなかった。ただふらっと立ち寄り、ふらっと視界に入る棚を眺めていた。なんとなく手を伸ばした。その伸ばした手が誰かの手に触れた。
「あっ」
見れば、大学生にしては小奇麗な服装の女が目を丸くしていた。見たことがあるような気がした。確かこいつは……。
「あの、ごめんなさい。あ、えっとどの本を取ろうと……あ、これかな……」女はそんなことを言いながら、背伸びをして先程手に取ろうとしていた本がある棚の上段に手を伸ばした。手にして立っている姿は何とも不似合いな姿であった。小奇麗な服を着た女が、古びて背表紙が傷んだ哲学書のような分厚い本を手にしている。その時点でこの女がこの哲学書が読みたくて手を伸ばしたんじゃないことぐらい察していた。いや、でも本当に読みたくて手を伸ばして、偶然手が当たったのかもしれない。ん、そういえば、俺の方にはこんな分厚い哲学書が読みたかった正当な理由なんて……。
それじゃあ逆に俺がナンパ野郎みたいじゃねーか。
女の持つ分厚い本の背表紙に目が行く。三文字の漢字。
そこで思考が停止した。
女は何か喋っていた。……打ち明けている? 断片的にぼんやりと聞こえてくる単語をつなぎ合わせて何とか内容を把握する。名前――小春――サークル――飲み会――正直に――偶然――信用――騙されてみる――信じてみて――。
「でも、私のことなんか信じてほしくもないっていうか……」
そこで声がはっきりと聞こえた。
沢田はゆっくりと女に近づき、彼女の手元から哲学書を取った。ぺらぺらと捲る。どのページにもワープロ文字は見当たらない。観光施設に置かれた雑記帳のようだった。落書きとも呼べるし、各々の思ったことがつづられているようにも思える。「なにコレ」「茶番?」「白紙って笑笑」「ロマンチック」「どこがだよw」「うるせーブス」「←こいつ馬鹿」「これも一つの物語にも思えるでござる」
最後のページに古びた藁半紙が挟まっていた。一つ折の今にも破れそうな紙。挟まっていたページには、矢印と「手紙」「未来への」「俺の未来は大富豪」「大貧民の間違い」「嫉むな」そんなくだらないことが他のページ同様書かれていた。
沢田は藁半紙を開いた。
「拝啓、私へ……」
十年後の自分へ、みたいな手紙を小学校の頃に書いたなあ、とぼんやり思う。
目の前で女が見つめている。
「信じてみるよ、この巡り逢わせ」そんな類のことを呟いた気がする。




