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居酒屋の一階を貸し切りにして飲み会をする。何の集まりなのかを女学生たちは言わなかった。だから聞かなかった。知りたいとは思わなかったからだ。
ただ、なぜ浅比が呼ばれたかということについては、女学生は話した。
「ひとりこれなくなっちゃった子がいるんだけど、キャンセルしてもお金は払わなきゃいけないから誰か誘おうと思ってて……」
本当に誰でもよかったのなら手短な顔見知りを誘っていたはずだ。じゃあ自分が呼ばれた理由は? 浅比には考える余地もなかった。どうでもいいことに時間を割いている暇などない。どうでもいいことに脳のキャパシティ埋められては困る。ではどうしてその誘いに乗ったのだ? 経験の一部になるだろうからだ。え?
矛盾だらけの自分に浅比は心底呆れる。早く家に帰ろうと思った。少なくとも家に帰れば矛盾は消える。矛盾していると頭に浮かぶことも、矛盾している自分に呆れることもなくなる。
浅比に声をかけた女学生二人は、奥のテーブルで互いに隣に座っていたはずだったが、いつの間にか片割れがいなくなっている。空いた席には知らない男が座っていた。
浅比は立ち上がった。残った片割れの前に行き、彼女が振り向くよりも先に「帰ります」と報告した。金は事前に払っていた。一言伝えれば止められる筋合いもない。声すらかけないで帰ったっていいくらいだ。寧ろ親切なくらいだ。
「待って」と後ろの方で声がしたが、今の浅比は家に帰りたかったため、振り向かなかった。肩に女学生の手が触れたときには居酒屋のトイレに向かっていた。「もう少し話していこうよ」彼女は酔った目つきでそんなことを言ったが、もう少しも何も彼女とここで話した覚えが浅比にはなかった。だからそのままそれを伝えると、「いいじゃんいいじゃん」と駄々をこねるように浅比の右手首を持って引っ張った。
「浅比くんトイレに行きたいの? こはるが一緒に入ってあげようか?」
「はい?」
意味が分からずボケーっとしている間、小春はすでに身障者用トイレの取っ手に手をかけていた。
しかし、その扉は開かなかった。
ちっ、と舌打ちが聞こえた気がした。トイレ内の人物が「使用中の文字と赤い色が見えねーのかよ」と怒ってしたのだろうかとも思ったが、違った。浅比は前屈みになっている小春の顔を見下ろしていた。酔い方に似合わない舌打ち。おそらく彼女が酔っていないということだろう。
「また、学校ででも」小春と目が合った。
浅比は小春に向かって微笑んだ。いつの間にか握られていた手首に小春の手はなく、そのまま居酒屋を出た。よたよたと歩く酔っ払いが、浅比の肩をかすめて通り過ぎて行った。去った後に酒の臭いがした。街灯とネオンが光る居酒屋の通りを歩きながら、自分の右手首に視線が行く。
「ありゃ、思い通りにいかなかったときの顔だわなー。僕が空気読まなきゃいけないときにする顔」
無駄な時間だったなあ、と浅比はぼやいた。経験の一部、そう思って何か初めてのことをするときは、大抵時間の無駄だったと事後思う。本当に経験の一部、糧となる経験は、経験の一部と態々思うまでもなくその事象に飛び込んでいる。飛び込めずにはいられないものなのかもしれない。
「まあ久々に昼飯食っただけでも良しとするかあ。いえかーえろー」
あからさまな独り言に通行人は皆首を傾げた。浅比の独り言を耳にした酔っ払いの一人が、「おれに帰る家なんかねーんだよー」と半べそかきながら浅比に絡んだ。いい年した男が大学生の浅比の腹に飛び込んで泣いていた。
「俺の隣の部屋空いてますけど来ますか?」慈悲の目を向けてやると、酔っ払いは鼻を啜りながらうずめていた顔を見上げた。
「ふざくんな! かねがねーんだぼけ!」唐突に突き飛ばされた。後ろから駆け寄ってきた背広の男が酔っ払いの肩を持った。「すみません」と腰を数回折って去っていく。「いえいえ」浅比は手を振り二人を見送った。背広の男は必死に酔っ払いを介抱しようとしたが、酔っ払いはそれを拒否しているようだった。「お前に何が分かる」そういった風に。
リストラされた酔っ払いも、彼の後釜として会社に残る後輩も、この社会が無慈悲だと思うには十分の光景だった。
「金ならかかりませんよ」酔っ払いに聞こえないくらい小さく、浅比は呟いた。