19
どうやら大柄の坊主の部屋は北の棟にあるようだった。足が速いのか沢田が走って追いかけても彼の背中には追い付けなかった。背中を見失わないようにするので精一杯だった。おかげで沢田は息が上がっていた。
通路の窓から住宅街が見えた。浅比のいた部屋からほぼ真反対の位置にいることが分かった。大柄の坊主はこの扉の向こうにいる……。沢田は一息に扉を開けた。
開けた途端、その匂いに沢田は口と鼻を手で覆った。臭い――生ぬるい風と一緒に鼻腔に届いたのは何とも言えない匂いだった。嫌な臭いではない。誰もが臭いと思う生臭さとは違う、煙草だったりガソリンだったりきつい香水だったり、あれらに近い独特の臭いだった。
色んな匂いがごちゃ混ぜになっているような香りだった。エタノールの香りが薄っすらと感じられ、病院のような部屋だと錯覚する。かすかに血の臭いも混ざっているようだ。真夏の電車のシートに染み付いた汗臭さも感じるが、それほどきつくはない。かすかにフレグランスの臭いもする。
室内は暗かった。部屋の中央に明かりが灯っている。歯医者や手術で使うような手で動かせる類のものだった。その明かりの下にはやはりと言うべきか、ベッドのようなものがあった。そこには人が寝かせられていた。
「片丘!」
言わずにはいられなかった。近づこうとした瞬間「おい」という威圧的な声が聞こえ、沢田は怯んだ。
「これは、お前の女か?」
大柄の坊主は手に何か持っているようだった。持っていた何かをステンレスの器に落としたようで、かしゃん、と音が響く。歯医者、オペ――そんな言葉が頭に浮かんだ。
「何、してるんだ?」
「愚問だな。見りゃわかるだろ」
この距離でははっきり見えたわけではないが、沢田にもなんとなく想像はできた。ベッドに寝かされている片丘は、遠目にも服を着ているようには見えなかった。
「わかんないから聞いてるんだろ」そう言った途端、大柄の坊主が右手首を振り、投げられた何かが沢田の頬をかすめた。数秒して頬に軽い痛みが走り、触れると手には血が付着していた。
「やっぱり人間は馬鹿だな。すぐ近道を探したがる。学校教育もそうだ。人に教わったものなんてすぐに忘れる。人に聞く前に自分で理解する努力をしたらどうだ? たとえそれが人に教わる数十倍の時間がかかったとしてもな」
「じゃ、じゃあ、見るよ」
皮肉られて正論で反抗するかと思いきや、出てきたのは素直な言葉だった。沢田は案外素直な自分に驚きつつ、一歩一歩、ゆっくりとベッドへと近づいた。近づくにつれて片丘の身体の輪郭が鮮明になっていった。白い明りのせいか、身体はより一層白く見えた。
完全に大柄の坊主の横、ベッドの脇に立ったとき、なぜか気持ち悪いとは思わなかった。片丘の顔は、顔という原形をとどめていなかった。目玉が飛び出し黒目は上を向いている。鼻はそぎ取られ、口角は大きく裂かれていた。
「で、これはお前の女か?」
「いや……」
「そうか」大柄の坊主はペンチのようなもので片丘の歯を抜き始めた。一本一本抜かれてはステンレスの器の上に転がる音。軋むような音とともに抜かれる歯。器の上に乗った歯のほとんどが血濡れになっており、片丘の口腔内も同様だった。血で溢れているが、それを吐き出そうとも飲もうともしない。
彼女はすでに死んでいた。
もしかして浅比が六階から蹴飛ばして落とそうとしたときも、すでに死んでいた?
「いつ……死んだんだろう」
「俺がいじり始めたときにはすでに死んでいたと思うが」
やっぱりそうか。だがそれを知ったところでどうなのだ。すでに死んでいるのにあたかも生きているように見せかけ、自分の元に片丘を返してきた浅比を恨むのか?
「人の身体をいじるのが好きなのか?」
大柄の坊主は片丘の歯をすべて抜き終え、今度は身体の方に手を付け始めていた。乳房と乳房の間に大きくメスを差し、切り開く。血がどっと溢れて、水玉をストローで吹いたように白い肌を赤い筋が染めた。
「車と同じだ」大柄の男は腹を切り開きながら言う。「車が好きな奴はオイル交換を自分でするだろう。カーオーディオも同じ型番のものを見つけて配線から自分で取り換えるだろう。エアロパーツを自分で取り付ける。車高を低くする術を知っている。エンジンスターターの付け方を知っている。車のあらゆる構造を知っている。船が好きなら船でもいい。帆の大きさ、生地、船首の形、船底の厚さ、材質。それらの組み合わせ次第で同じ船でも同じ船にはならない。テセウスの船だな。車ならレストア。杉田玄白、緒方洪庵。亀谷了、山口左仲。尊敬する人間は皆研究した。だから俺も研究する」
沢田はてっきり身体をいじるのが趣味な気持ち悪い男かと思っていたため、真面目な返答に戸惑った。「研究してどうするんだ?」と疑問を投げかける。
「助けたい奴が二人いる」
「二人?」沢田は振り向いた。
「せめて年を取らせてやりたい」
「え、え、どういうこと?」
「寄生虫でも薬でも何でもいい。とにかく老いさせてやりたい」
そう言った直後だった。大柄の坊主は手にしていたメスを後方に向かって素早く投げた。その動作が見え、沢田は残像を追った。この部屋の入り口付近、そこにメスは飛んで行ったはずだが、半開きのドアに刺さった音も、コンクリートに当たって跳ね返った音も落ちた音もしなかった。
ドアの横に人が立っていた。「おいおい乱暴ですね、丑首くんは」
そこにいたのは浅比だった。浅比の指と指の隙間には今しがた丑首の投げたメスが挟まっていた。
「危ないじゃない。こんな物騒なものを人に向かって投げるなんて」
「何しに来た」今まで沢田と話しながらも解剖を止めなかった丑首が、手を止めて浅比の方を向いていた。
「何何、いつになく冷たいじゃないの。僕、そんなに嫌われるようなことしましたっけ?」
「いい。用件だけを言って立ち去れ」丑首は明らかに浅比に対して敵対心を抱いているようだった。
「まあいいか。今に始まったことじゃないしね。大した用じゃないですよ。そこにいる僕の友達に用がありましてね。今日は丑首くんに頼みたいことはありません。ほら、沢田くんだっけ。早くこっちに来な。そんな物騒な漢の近くに居たら物騒が移っちゃいますよ」
いつから友達になったんだろう……と思いながら、言われたとおりに沢田は浅比の元へ行こうと足を踏み出した。それを丑首が左腕で制し、沢田は脚を止めた。
「あれ、おかしいなあ。丑首くん、そんな趣味あったっけ? 若い女の子だけだと思ってたんだけど」浅比が喋る間、丑首は何か言った気がしたが、声が小さすぎて沢田は聞き取れなかった。「え?」と耳を近づけ聞き返すと、先程より少し大きい声で「行けばお前は塀の中に入るはずだ」と言った。
どういうことだ? 塀? 刑務所ってこと? なんで俺が――そうして今自分が法の及ばない雲河にいることを沢田は思い出した。
はっ、として浅比の方を見ると、彼はけたけたと笑っていた。
「いつからそんなに仲良くなったの? まだ出会って一時間も経っていないはずだけど。おかしいなあ、どう考えても人の身体をぐちゃぐちゃにする彼より僕の方が信用できると思うんだけどなあ」浅比は顎に手を当てながら首を傾げた。「でもまあいいや。和久井は殺しちゃったし、片丘はもうぐちゃぐちゃだし、もう今生きてるのって君しかいないんだよね、沢田くん。力ずくでも生け捕りさせてもらうよ」
直後、浅比が飛んだ。気づいたときには目の前に上裸の背中があった。
「おかしいなあ。丑首くんが一般人に固執するなんて。どうしちゃったんですか、らしくないじゃないの」浅比と丑首が組み合っているようだった。拮抗している二人の筋肉が小刻みに震えていた。浅比は本気で向かってきており、丑首もまた本気で彼を止めようとしているのが目に見えたわかったことで、沢田は腰を抜かし、後ろにあったベッドに寄りかかる形になった。
「お前に俺は何も望んでいない。でも数百年、いや、数千年生きて来て初めてのことが今日起きた。浅比の言う通り、俺はおかしくなったかもしれない」丑首はこちらを向いていなかったが、浅比ではなく沢田に向かって言っているということは、沢田自身もわかっていた。
「南に行け。映画館がある」
沢田の頭は真っ白だった。だが、とにかく逃げなければ自分が生け捕りにされることはわかった。浅比の顔を一瞥する。彼は本気だ。
這い、立ち上がり、一つしかないで入口へと走った。浅比の横を抜ける際、何かしてくるかもしれないという恐怖があったが、何事もなく扉を抜けた。丑首が静止してくれたのだろう。
「いいの? 行かせちゃって。刑務所入った方が飯も寝床もあってましだと思うんだけど」
「関係ない。俺には何も」
「あーあーそんなにむきになっちゃってどうしたんですか? らしくないですよ、丑首くん」そう言うと組み手を解き、降参とでも言うようにパッと両手を上げた。
「やっぱり敵わないですね、丑首くんには。やめです」
浅比はゆっくりと後ずさり、扉の方へ向かい始めた。
「でも彼、逃げきれますかね。この雲河で自生で生きてるのって僕と伊都、丑首くんとららちゃんくらいですよ。丑首くんはとちくるってしまったのか、一般人の沢田くんの味方に付いたようですが、他の子たちはどうでしょうか」そう言い、浅比は扉を抜け通路まで後方に大きく飛んだ。
「待て!」
「まーたーなーいーー」
丑首はきゃはきゃは笑う浅比の声を追いかけるため、部屋を出た。