18
「なんか乱暴したんだって? 避妊せずに」浅比は表情も声音も変えずに言った。
「馬鹿な。まさか……」
間違えたのだ。和久井は勘違いで沢田に報復しようと企てていたのだ。
「見当違いにもほどがあるだろう。というかまず、片丘に聞けば……」そこまで言いかけて、片丘も和久井とグルだったのか? という疑問に思い至る。もし仮にそうだったとして、じゃあ初めから片丘は和久井と手を組んでいたということか? 片丘は和久井の企てに気づいていながら否定しなかったということか? 様々な憶測が頭に浮かんだ。
「ほんの数日前だよ」浅比は片丘の頬をつついた。沢田が「何が?」という前に「そこに転がっている顔の男が来たのは」と浅比は言った。
「彼はこの部屋に入るなり『殺してほしい奴がいる』と言った。誰だ? と聞けば黎明大学に通う沢田という男だという。彼はひとりでにべらべらと話し始めたよ。片丘という女への愛なのかなんなのか知らないが、妬み嫉みばかりでつまらないったらありゃしない。お前は他人の未来を操れるほどできた人間なのか? って質問したら黙ってたよ。そこで黙っちゃいけなかったんだ。黙った上に彼は何と言ったと思う? 『殺してくれないってことか?』なんて言ったんだ。早とちりにもほどがある。僕はまだ彼と会話をほとんどしていなかった。部屋に入るや否や、自分のしてほしいことを端的に述べるこの沢田という男に心底呆れたよ」浅比は片丘の両頬を両手で引っ張っていた。
どういうことだ? と聞く前に浅比は答えを話した。
「挨拶は日本人どころか人間の基本でしょう? 何か人に頼みたいことがあるなら礼儀は大切だよね? 僕間違ってるかな?」浅比は振り返り沢田に問いかける。「ええ、それが普通だと思いますが」
「だよね!」浅比はにっこりと笑う。「僕は、誰だ? と聞いたんだ。まず名を名乗って、って。そしたら彼は何を勘違いしたのか殺したい男の名前を言った。彼の名前は話の流れ的に沢田じゃないだろうけど沢田だと仮定して話を進めた。それで殺したい男の名前は? と聞けば、『だから沢田だって言ってんだろう!』となぜか苛立ちながら答えたんだ。そうかそうか、自分じゃ死ねないから自分のことを殺してほしいと頼みに来たんだな。だから僕は言われたとおりに沢田を殺したんだ。彼は沢田ではないんだろうけどね」
浅比は上機嫌なのか快活に喋った。表情を見ずともそれが分かった。今までの無表情で話していた彼の顔が想像できないくらいに声音が高かった。
「君とは話が合いそうだ」浅比は立ち上がった。「僕は今気分がいい。無償で取引を受けてあげるよ。君の取引内容は何だったっけ? あおり運転の常習犯の情報かな? それとも……」浅比は足元にいる片丘の腹の上に右足を乗せた。
「こいつをここから落とす?」
浅比はにんまりと笑っていた。
浅比は今にも片丘を蹴り落とそうとしていた。
「待って!」沢田は反射的に声を張り上げていた。沢田は片丘が自分を陥れようとしていたとは思えなかった。浅比の話を聞く限りでは和久井は勘違いしていたとはいえ、俺に恨みを持っていた。対して片丘は何か恨みを持っていただろうか。和久井と共謀して俺を陥れるほどの理由があったのだろうか。
沢田は自分の手首を見た。先程和久井が殺された直後、片丘はこの手を引っ張って逃げようと言った。恨みを持っているのであればそんなことできるはずがないのではないか。かといって恨みがなかったという保証もない――。
「片丘を……返してほしい」
「君を裏切ったのに?」
「裏切ったかどうかわからない……」
「大学で疑わしきは罰せよって習った気がするんだけど」
「え、逆じゃない? 疑わしきは罰せず、でしょ?」
「あ、そーなの?」浅比は驚いていた。「僕間違って覚えていたみたいだね。じゃあこの女は君の元に返そう」浅比はしゃがむと、気を失っている片丘の身体を抱き上げた。沢田の前に来て「ほら」と手渡す。
片丘の身体が沢田の腕の中に入っていたのは数秒間だった。いつからこの部屋にいたのか、それとも今しがた入ってきたのか、坊主で大柄の男が片丘を沢田から取り上げた。あまりに当然のように取り上げたせいで、沢田は呆然と上裸の彼の背中を目で追っていた。彼は部屋を出ていこうとする。
「おい! 待て!」我に返った沢田は追いかけようとした。しかし、浅比に手を掴まれた。「駄目だよ」
「どうして!」
「どうしてってそりゃあ……あ」
浅比の手から沢田の手が抜けていた。そのまま沢田は部屋を出た。
「あーあー僕知らないぞー。ここどこだか知ってんのかよー。お巡りさんいないんだぞー。泣く子も黙る丑首さんだぞー」
浅比は手でメガホンを作り、すでに出ていってしまった浅比の背中に呼びかけた。