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即身像  作者: 面映唯
第一章
16/48

16

 五限が終わったとき、片丘が「のみいこ」と誘った。片丘が沢田を誘うのはこれが初めてのことだった。沢田の背筋が伸びた。やっぱり――人のことはいくらでも知った気になれる。でも本性だけは誰も知り得ない。手を掴まれた。片丘が小走りに講義室を出ようとする。沢田は一瞬振り返った。講義室後方にいた彼の表情が「頼むよ」そう言っている気がした。



 池袋――大学生ご用達の安い居酒屋に入った。カウンター式のテーブルに片丘と沢田は横に並んで座る。片丘は一杯目から黒霧島のロックだった。沢田がレモンサワーを頼もうと現れた店員に声をかけようとすると、片丘は沢田の口を遮り、「八海山の冷やを二合、おちょこ二つで」と微笑みかけた。つまみはエイヒレとほっけ。焼酎と清酒が届くと乾杯もせずに彼女は口を付けた。沢田が二つのおちょこに注いでいると、それを見た片丘はまるで子どもがあれもこれもとお菓子に手を出すように、おちょこへ手を伸ばした。テーブルに置かれたおちょこの中身は空だった。片丘の箸がエイヒレを掴んだ。湯気が立つほっけの身をつまんだ。ここまで、片丘は注文以外で口を開かなかった。


 居酒屋にたどり着くまではいくらか話した。服のブランドについて、ピアスのブランドについて、大学の講義について、夏休みは実家に帰る? 片丘の実家は山梨だった。


 しかし、いざ居酒屋についてみれば片丘は黙ったままだった。――察してほしい。そう思ったのかもしれない。よくわからない。沢田の頭は回転した。無言は余韻を残して沢田の脳に問いかけた。

「片丘は今何を考えている?」わかるはずもない。それが人間ってものだ。


 店内はうるさいほどに騒音が鳴り響いていた。誰かの笑い声が、誰かの笑い声が、誰かの陽気に話す声が相まって騒音と化す。店員を促すベルの音が鳴り響く。隣の席の大学生二人の元に店員が現れた。店員の声は騒音でかき消される。


 気づけば、沢田と片丘は会話していた。他愛もない会話だ。春に実家に帰ったときに車を運転した。高速道路は怖い。初心者マークが外せないね。あおり運転の人こないだ捕まったんだっけ。車に乗っている時点で犯罪者予備軍だよな。それを教えてあげたい。うん、私、良くドラレコの動画見る。当たり屋って知ってる? 子どもが飛び出してくる奴? ちがうよ、わざとぶつかってくる人たち。いくら人間が飛び出して悪かろうが、車に乗っててぶつかった方が悪い。脅して、免許の写真撮って、その人の所持金奪うの。でも車を運転するってことは当然そういうの含めてよね。


「何が正しいのかわかんない」


 袖に雫が落ちた。


 隣の席で女が泣いているのに、隣の見知らぬ大学生は自分たちの会話に夢中なようだった。気づいていなかった。片丘は静かに泣いた。嗚咽を上げることも、鼻をすすり上げることもなかった。少しずつ涙を流した。鼻の筋を通り、鼻の先から一つ落ちた。顎の先に達した。また一つ零れ落ちた。


「じゃあ俺たちも当たり屋やるか」沢田は快活に言った。「やるのはあおり運転の人だけ。でもあおり運転の人が都合よく現れたりしないもんなー、どうするか。あ、そうだ雲河……」片丘が沢田の口を塞いだ。手ではなく、口で。芋の匂いが鼻腔を刺した。髪からはシャンプーの香りがした。相手の口から液体が流れ込んできた。ぬるかった。


「彼氏とエッチしてたの、昨日」沢田の口から離すと片丘は言った。


 すでに酔いは回っているようだった。黒霧島のロックを三杯飲み終え、八海山を飲み、久保田へと進んだ。


「ゴム着けてくれなかったの。それだけだったけど怖かったの。ゴム着けるのと着けないのとでそんなに変わらないじゃない? アフターピル持ってるからって思ってもその怖さが消えなかった。私が仰向けで、彼は上からかぶさってて、照明の影になって彼の顔は暗くてよく見えない。その顔が今も思い浮かぶ。怖気が止まらない」


 沢田は片丘に彼氏がいないことを知っていた。それとも数日前、「彼氏ほしー」と嘆いたあの日から今日までの間にできたのだろうか。


「初めては、やっぱり怖い?」


「え?」片丘は素っ頓狂な声を上げた。「いつでも怖いよ」凝った表情が柔らかい表情に変わる。

「だから、興味ない人には股開かないよ」


 その言葉は、沢田に片丘が優しい人だということを教えてくれた。興味のある人が多い、それは無意識に「興味がある」人を選んでいるのではなく、「興味がない人ではない人」を選んでいるからだ。無意識の選別。興味のない人が少ないというのはいかがなものか。まるで他人は視界に入らず、己の中での選別対象にも入らない。悲しいことだ。そして、沢田は自分がそのどこに当てはまるのか知りたくなった。片丘にとって選別対象にも入っていないのかもしれないと思うと、胸がきつく締め付けられた。


「じゃあ俺とはできる?」


 この言葉が失敗だった。


 自宅に帰った沢田は片丘と寝床を共にし、同衾した。腰を動かす動作はひどく億劫なものだった。自慰の方が悦を得られるような気がした。同時に、片丘の肌が恋しかった。ずっと触れていたいような柔らかさだった。性器の舐め合い――それもまたいいのかもしれない。ただ、股座に棒を突き刺す運動、女性側の感覚はわからないが、沢田にとってそれは長距離走の最後の四百メートルに該当した。ただただ疲れる筋トレ。肌をまさぐり合うところまでは同意できた。穴に突き刺す行為――そこまでしてしたいとは思わなかった。



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