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黎明大学に入学して一年が経ったころだ。周りの学生たちは皆サークルに入ったが、沢田は騒がしいのが苦手なためにどこにも所属していなかった。かといって交友関係が希薄なほどでもなかった。学科の講義を受ける際、ゼミ、会話をする人物はそこそこいた。今思えば、それがいけなかったのかもしれない。孤独を突き通し、誰とも会話をしなければ片丘と寝ることもなかったのだろう。
話す会話と言えば、女、についてが大半だった。彼らは別の世間話をしていても、頑なに女についての話題へ変えようと試みた。「彼女できた?」毎回会話に出てくるワードだった。しかし、誰一人として会話をする学生の中で恋人を持つ者はいなかった。性行為、そのワードだけが彼らの話題の中で一際熱を持っていた。
誰誰とやった――今度サークルで飲みがあるんだ――酔った勢いで――お持ち帰り――。講義が始まる前に話を聞き、出てきた名前の学生を見つけようと講義室内を見渡す。あの人真面目そうなのに――陽気に教えてくれる男子学生と、教壇近くの席で隣の学生と話している女学生を見るととても不思議だった。普段学校での関係は軽薄だが、裏では濃密な関係を結んだ。そのギャップが面白く、沢田は講義前、退屈することがなかった。
「沢田はないのかよ。なんかそーゆーの」
言われるたびに「俺には触れないで」と自嘲染みた返事をした。「沢田モテそうだからなー。裏ではハッスルしててやらしいねえ、これだからムッツリは」そんなことはないのだが、自ら自分が童貞だと告白する気にもなれなかった。
ある日の講義前、いつも通り話題は下の話だった。誰誰が誰誰を酔わせてホテルに連れ込み、避妊しなかった、そういった話だった。講義室には二人とも同在していた。右端に座る彼と、中央付近に座る彼女とを沢田は交互に最後段の席から見ていた。彼は隣の学生と談笑している。彼女も隣の学生と談笑している。彼女の背中は昏く見えなかった。寧ろいつも通りと言った様子だった。
「かわいそうだねー〇〇ちゃん」男子学生の一人が言った。それを聞いても、彼女の背中は重い荷物を背負っているようには見えなかった。当然、第三者からはそう見えないだけであって、当人の内面は陰鬱かもしれない。
「でも〇〇ちゃん、ちゃんとお願いすれば股開いてくれるって××が言ってた」
「マジで! 俺頼もうかな!」
「やめとけよ。さすがの俺も強姦まがいされた後に上書きできる様な玉じゃねーや」
その彼女こそが片丘だった。
陽気で明るい。それが彼女の印象にぴったりだった。セミロングの髪は下され、前髪は薄く、揃えられている。清楚でかわいらしい雰囲気の彼女は、百数十人の学科内でも顔は知れていた。
「そういえば沢田、片丘ちゃんとゼミ同じじゃなかったっけ?」
「あ、そーじゃん。てか、一年の頃の最初のグループで一緒じゃなかったっけ? 二人で話してるの見かけて嫉んでた記憶が……」
「馬鹿!」頭をはたかれていた。恐らく気を使ったのだろう。仲のいい友達が彼氏でもない学科内のちゃらけたやつに襲われたなんて知ったら、少しは気を遣わずにはいられない、そう思ったのだろう。しかしなんてことはなかった。あ、そーなんだ、それだけのことだった。お願いすれば簡単に股を開くのに、お願いされないで酔った勢いでされると悲しむなんて同義だろう。生だったから? あーそういうこと。沢田は楽観的だった。
会話はそこで途切れた。講義後、それと言った話もなく、「次の講義〇号館だから」あっさりと別れた。先程頭を叩いた男子学生と沢田は次の講義が同じだった。同じ棟の七階に移動するため、二人でエレベーターに乗り込んだ。普段なら大勢乗り込み、ぎゅうぎゅうになるはずのエレベーターだが、先頭で乗り込んだ彼は、沢田が乗りこんだのを見て素早く「閉」のボタンを連打した。乗り込もうとしていたいかにもオタク風の学生はドアに挟まれた。勝手に開いたドアは、ボタンを連打しているせいか再びゆっくりと閉まろうとした。右手でボタンを押しながら、無理にでも乗り込もうとするオタクを、彼は左手で追い出していた。
エレベーターの扉は閉まった。しかし再び開いた。恐らくオタクがむきになって外のボタンを押したのだろう。再び扉がゆっくりと閉まっていく。また開くかなと沢田は思ったが、開くことはなく、エレベーターは上昇し始めた。
「これだからオタクは。空気が読めない」確かに、むきになっているのはあのオタク一人だった。後ろで待っている学生たちは、隣のエレベーターへと乗り込み始めていた。
「沢田、片丘ちゃんと仲いいの?」唐突に彼は言った。
「いや、別に、仲いいって程でもないよ。一年の頃なにかと講義かぶってたから少し話すぐらいの顔見知り」
「そうか……いや、うん……」彼は何か言いたそうだったが、それが言葉になることはなかった。エレベーターが七階に着き、扉が開く。講義室へ向かう廊下を歩いた。
「俺の杞憂だったらいいんだけど……」前置きを据えたうえで彼は話し出した。「お前ってさ、いつも俺たちと話すとき、その、なんていうか……無理してるような気がするんだよ。沢田は沢田でいいんだからな。別にそれで俺たちとはもう話さなくなるってことはないからな」
講義室の扉を開けた。この講義は席が決まっている。沢田は最前列右の席に、彼は後ろの左後方の席へと進んだ。
沢田は席に座るなり、鞄から筆記用具と教材を取り出す。教材のページを意味もなくぺらぺらとめくった。隣の席の椅子が引かれた。シャンプーの匂いが漂った。
「さっきの何あれ。二人してエレベーター独占しちゃって」
片丘の横顔が微笑んだ。とても昨日乱暴されたようには思えなかった。