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真夏の夜中の十二時。しんしんと沈んだ田舎の夜中に鳴く音など、巡回中のパトカーが鳴らすサイレンの音ぐらいだ。公道から遠い場所であれば、そのサイレンの音は遠くの空に響いているだけであって、間近に聞こえることもない。空が明るい。どこかで火事でも起こっているのか。「火事です、火事です」隣の民家から火災報知機のリフレイン。しかし、遠くの空は赤いが、隣の家は赤くない。誤作動だろう。
誤作動だろう火災報知機の音が鳴り止みしばらくして気づいた。再び夜の静寂が降っていた。標高が高いため、見上げればオリオンが輝いている。それを取り巻く星々。まとめて見れば、リアルプラネタリウム。北極のオーロラ、都会のように遮蔽物がないため、見上げた視界の二百三十度は大きな弧を描くようでもあり、大きな楕円を描いているようでもあり、コンタクトレンズのような半球体の様にも見えた。
辺りは深々と耽っている。自宅に面した道路の脇を流れる小川の音は、動画サイトにアップされている流水音とは程遠いリアル。耳鳴りのようなしんしんという耳の触り。これ以上ない真夜中の自然を堪能できる場に、異物が紛れ込んだ。
数百メートル、数キロメートル離れた場所でのパトカーのサイレンの音すら耳に届くのが田舎の静けさだ。近くで聞けば耳障りなサイレンの音も、数キロメートル離れた場所で聞けばなんてことはない。寧ろ、哀愁さえ帯びて聴こえる。目と鼻の先から放たれているエンジン音。小一時間続けたアイドリング。昼間の公道沿いを歩いて居れば気にもしない音が、静寂の降る田舎では異物と思わせた。なぜだろう。それは私有地、人様の庭に無断停車しているからか、一時間近くアイドリング状態を保っているからか、それとも一時間も車の中で何をしているのだろうと懐疑に駆られたからなのか。
とにかく心が居た堪れなくなった。数千回鳴らしたジッポの開閉音すら嫌々しい。彼が田舎に越してきたのは、荒々しいもの、毛羽立つもの、そういったとげのある事物空間から逃れるためであった。軽井沢のペンションに憧れた。軽井沢は別荘地だというが、彼はそこに住みたかった。山奥にひっそりと、誰にも見つからず、人気も感じず、外界を遮断し、その他の干渉、五感から意味もなく必然と反射的に伝わってしまう事象を恐れ、ただ己の中身のみとひたすらに葛藤したかった。
それが、彼の生きる意味、すなわち信念だった。
彼は煙草の火を消し、庭へと歩いた。停車していたのは車高の低いミニバンだった。近づくにつれ、彼の心臓は沸き立った。これは恐れている心か。それともわくわくてかてか。近づくにつれて、車内でかかっている音楽の音が大きくなった。重く響くベースの振動。運転席の横に立ち、ドアガラスを二回ノックした。ガラスにはフィルムが張られているようで、中の様子はほとんど見えなかった。彼がサングラスをしていたというのもかえって中の状況を見にくくしていた。彼は常にサングラスをしている。威圧感を与えたいから、それとも自分が恥ずかしいから、外界が眩しいから、おそらくそのすべてが該当する。
彼がノックしてから数十秒後、運転席の窓がゆっくり降りた。顔を出したのは若い男だった。金髪に派手なネックレス、なんてことはなく、いかにもと言った大学生の顔だった。
垢ぬけず、まだ幼さが残る表情と雰囲気。彼は窓が開いても黙っていた。「なんですか」運転手の声は小さかった。助手席には女が座っていた。彼はサングラス越しに目を凝らした。運転手とは不釣り合いな厚化粧。彼とは目を合わせず、そわそわと身支度を整えているようだった。まるで出勤前の模様。同伴か? 多分違う。
「ちょっとどいてもらえますか」彼は言った。
運転手は悪びれもせず、「は?」と呟いたが、数秒黙り、思い至ったのか、ハンドルに手をかけた。
「私有地を勝手に使ってもらうのは構わないですけど、訴えられて敗訴しても文句は言えないことだけは覚えておいてください」ギアを入れる運転手は、彼の言葉に反応しなかった。助手席の女が睨んでいた。「馬鹿か、民事に警察は介入できねえよ」空言が聞こえた。
「ああ、無断停車ならな。人んちの庭に不法侵入しておきながらなんですかその態度は。公然わいせつ罪だけじゃ物足りないですね」
逃げようとリバースにギアの入っていたミニバンは、クリープで後退し始めていた。彼の声を聴いた運転手は「は?」と彼に振り向いた。
それが合図だった。
拳は運転手の顎を捉えた。それは一瞬のことだったはずだ。あらかじめ運転手が殴られることを予期していたかのように、運転手が殴られ助手席側に身を預けるのを避けるように助手席の女はドアを開け、飛び降りた。
車はクリープのまま後退していく。ゆっくりと、ゆっくりと。その速度に歩調を合わせ、彼は運転手に目をやっていた。運転手はハンドルを握ろうとしなかった。運転手はブレーキを踏もうとしなかった。気絶していた。
やや左に切られていたハンドル。轍は緩やかに左に弧を描いた。右の後輪が最初に沈んだ。左の後輪が落ち、車体が斜めになった。がりがりと車の底を路肩が削った。そのまま車は大きな音を立て、路面から十メートルはある底の浅い小川へと落ちていった。ガソリンが漏れていたかはわからない。落下する最中に火が消える可能性が高かった。しかし、そうせずにはいられなかった。素早くポケットに手を突っ込み、取り出したジッポに火をつけ、車へと落とした。
そしたら燃えた。
燃えた後で気づいた。免許証を奪うことを忘れていた。そもそも運転手の顎を殴る予定ではなかったのだから必然だろう。公然わいせつ罪になる、写真は撮った、ナンバーも、そうやって脅し、免許を奪うつもりでいた。
「やべ」
また別のカーセックス最中の車を見つければいいだけの話であったが、彼は焦った。燃えているとはいえ、炎上はしていない。川に飛び降り探す手間の方が少ないと判断した。路肩から足を放そうとしたとき、腕を掴まれた。振り返れば厚化粧の女が立っていた。猫に猫じゃらしをぶら下げるように、彼女は顔の前に何かをぶら下げていた。サングラス越しに目を凝らした。
「麻村忠義……」
なんて不釣り合いな名前だろうと和久井は思った。