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一週間前、レンタカーを借りて旅行しようと決めた麻村含め六人。旅行日は明日、明後日の一泊二日だった。旅行を目前に控え、「前夜祭だ。聖なる夜だ。だって金曜だぜ? 飲み行くしかないでしょ」と言った和久井の言葉につられ、講義終わりに居酒屋へ行こうとしていた。
「かたおかでーす」
キャンパス内を歩いていると、見知らぬ女が六人に声をかけた。「私もその飲み会についていってもいいですかー? だめですかー?」
見るからにあざといしゃべり方が女性陣には受けなかったようだった。「この人が来るならあたしたちはいかない」と聞かなくなった。それを上手く和久井がとりまとめ、片丘を含めた七人で居酒屋へと向かった。そこまでは麻村も確実に覚えていた。
その後、居酒屋に着き、最初は淀んでいた雰囲気も、皆、酒が入ってきてからは一切消えてしまったようだった。敵対していた女性陣と片丘は、酒のおかげもあってかすでに意気投合していた。ここまでも覚えている。
そして確か……和久井に芋のロックをあおられ、机に突っ伏していた麻村は耳だけで聞いていた。片丘が何かを口にした途端、一斉に血の気が引いたように女性陣、和久井の言葉が消え、静寂と化した。片丘が何を言ったのかはわからない。その後のことも記憶がない。
今朝ベッドの上にいた片丘は、とろんとした目でこう言った。
「わたし、麻村くんと一緒に旅行したかったの。わたしも一緒に、って言ったら女の子たちが逆上しちゃって。和久井くんまでわたしが来るなら行かないって言い始めて。わたしそんなにきらわれちゃったのかなあ」
泣きそうな声は恐らく芝居だ。鼻をすすりながら額を麻村の胸に沈めてくるのも芝居だ。自分の胸で彼女の頭を抱きながら、確かにおかしいと麻村は思った。酒の力だったとはいえ、女性陣と片丘が楽しそうに騒いでいるのは確かにこの目で見た。それに、和久井……あいつはたとえ見ず知らずの人間がグループに加わろうと拒否はしないはずだった。寧ろ、初めて会った人と次の日には長年の付き合いかのような間柄で接せるくらいな奴だ。それが取り柄であり、本人も見ず知らずの人と仲良くなることを望んでいることは、以前に聞いていた。それがナンパかどうかは別としても、和久井が女を拒むのはありえないはずだった。
「わたしのことかわいそうだと思った?」猫のような目つきだった。面倒だったが、麻村は素直に肯いた。
「じゃあ、いっしょにりょこういこ?」
そして現在に至る。
麻村はハンドルを握りながら、横目で片丘のことを盗み見た。美人だった。女も羨むくらい。第一印象が女性陣にとって最悪だったのはそれもあるのだろう。細い脚は安そうな黒スキニーで強調されていた。田舎のショッピングモールで千円程度で買えそうな白のカットソーは胸元を大きく切り取ってあった。シャツインされており、黒レザーのリングベルトが強調されていた。腰が高く、脚の長さも同様だった。着くずしたMA-1だけは多少高そうに見えたが、何より、美人は安物でも似合うのだから憎憎しい。
逆だ――似合うのではなく似合わせているのだ。
麻村はバイトで貯めた金をファッションに充てていた。ブランド品を買うたびに満たされた。しかし、横に座る美人は安物でもその服が格好いいと思わせてきた。
急に苛々とした怒りが麻村を襲った。
「うわっ、あぶな」片丘が声を上げた。左車線を走っていたSUVが幅寄せをしながら麻村の前に割り込んだ。思わずブレーキを踏む。
「なめやがって。どこまでも付け回してやるよ」
麻村は前のSUVを付け始めた。
麻村はあおり運転の常習だった。
あおりをあおるとはよく言ったものだ。SUVが右に曲がれば麻村もハンドルを切った。SUVが左尾に曲がれば同じように左に曲がった。SUVは付けられていると察したのか、細い路地を右、左と曲がり、うまく巻こうとしているようだったが、麻村は逃すことを許さなかった。
「馬鹿だよなあ。一時の感情で他人に喧嘩売って、他人が買ったら怯え始める。馬鹿すぎ」
SUVが路地を左折した。当然麻村もそれに続いて左に曲がった。そのとき、急ブレーキをかけた。無理やり前かがみにさせられる感覚を持つ。エアバッグはかろうじて出なかったようだ。片丘が「いたいー」と呟いている。「あぶねえな!!」思わず麻村は叫んでいた。視線をフロントガラスに戻したとき、驚きの者が映った。
人がバンパーの上に転がっている――。
近くから大学生らしいメガネの住人が駆けて来、バンパーの上に乗っている人に「だ、だだ、大丈夫ですか!」と必死に声をかけ、安否を確認している。
「け、警察に電話しないと」
メガネは電話をかけようと耳に当てようとした。すぐに麻村は車を降りた。「待ってくれ!」メガネの耳元からスマホをはぎ取った。
「な、な、何するんですか! か、返してください!」
メガネは執拗に麻村の右手に迫った。麻村は掴ませまいと、スマホに握られた右腕を高く上げて回避していた。メガネより幾分か背の高い麻村が上に手を伸ばせば、ジャンプしない限りはメガネにスマホが渡ることはなさそうだったが、メガネは子どもが取り上げられたゲーム機を返してくれとでもいうように何度も飛び跳ねた。見苦しい。いくら跳ねたところでそのジャンプの仕方では取れないだろう。明らかに運動神経の悪い飛び跳ね方だった。
「警察は待て、まずは怪我とかの状態を確認してからだろ」メガネの右手を搔い潜りながら麻村が諭すと、メガネは「そ、そ、そうですよね」と突然打って変わったように言葉に従った。麻村は目を泳がせた。まさか死んでないだろうな……一種の不安はすぐにかき消された。麻村は目を泳がせた。ボンネットに手をつき、右、左、車の下、辺り一帯をくまなく見た。しかし、さっきまでボンネットの上に転がっていた黒人どころか人影すら見当たらない。
「まさか、見間違いってことは……」
ふいに気が付いた。もう一度辺りを流し見た。そこに人影はない。声もない。アスファルトの上にポツンと落ちている眼鏡を拾い、見てみれば、レンズに度は入っていないようだった。
「伊達メガネか?」
ふいに思い至った。逃げなくては……。
麻村はレンタカーに乗り込み、助手席には目もくれず、アクセルをふかしてその場から逃げた。