田川昂胤探偵事務所 ウォンジャポクタン 第二章
10.韓国旅行
東京。
田川昂胤探偵事務所。
いつも六時に閉めているが、今日は五時に閉めた。
母の翔子の誕生日だ。外で一緒に食事することになっている。翔子は三十八歳になった。しかし、とてもそうは見えない。肌が驚くほど綺麗で艶があり、夕実が見ても綺麗だった。夕実は、翔子が十九歳のときの子だが、いっしょに出かけると、よく姉妹と間違われる。翔子はそれが嬉しいらしい。間違われたら、そのまま姉で通している。
誕生日プレゼントを何にするかずいぶん迷ったが、靴にした。翔子はレストランのオーナーだ。立っていることが多い。足が疲れないようにローヒールにし、中敷きも靴も翔子の足に併せて専門店で作ってもらうことにした。足の形状を型どるために翔子をその店に連れて行かないといけないのでそれを言ったら、気持ちだけありがたくいただいとくよ、と言われて説き伏せるのに難儀した。
その靴が二日前に完成した。色もデザインも気に入ってくれた。ハンドメイドだから、サイズもぴったりだ。いい革を使っているので軽いし、何より中敷きが足を包みこみ、靴擦れも起きないし疲れもない。よく似たデザインで赤系と黒系の二つだ。
翔子は、夕実の心遣いをまぶしいくらい喜んでくれた。
待ち合わせの時間は六時半。夕実は、いつも翔子と書店で待ち合わせる。
約束時間より早めに行って、本を物色する。夕実は歴史小説が好きだ。短編ものは好まない。長編が好きだ。今日は三冊買った。歴史もので、上中下巻だ。
レジカウンターに行くと翔子が並んでいた。翔子も手に数冊持っていた。
今日は、韓国料理で有名な店を予約してある。予約したのは夕実だ。
予約時刻の五分前に着いた。夕実は、誰と約束しても、時間に遅れたことがない。
受付で名乗ると、スタッフが出てきてご案内しますと先導してくれた。
店内に入ると、満席のようだったが、スタッフはどんどん奥に誘導した。
一番奥に扉があり、そこに入った。そこは長方形の部屋で板の間になっていた。入り口から奥まで続く広い通路の左右に六人用の座卓が五卓ずつ並んでいて、半分ほど埋まっていた。ほとんどが二人連れだ。
入り口で靴を脱ぎ、案内された奥から二番目の座卓に翔子と夕実は向き合って座った。何気なく見ると、通路向かいの席にはおいしそうな料理が乗った小皿が数十枚並んでおり、年配の女性が二人向かい合って座り楽しそうに会話をしながら食事していた。
多数並んだ小皿は、韓流ドラマで見た通りだった。
「母さん、楽しみね」
《韓定食》のことだ。
翔子が数年前から韓流ドラマにはまっており、宮廷で王様が食べる《韓定食》を一度食べてみたいと以前から言っていたので、食べさせる店を夕実がネットで探したのだ。本格的なものを食べさせる店は一軒しかなかった。
「ああ。楽しみだよ」
翔子は、目をまん丸にし、食卓の上にのせていた夕実の両手をぎゅっと握って満面に笑みを浮かべて言った。夕実は、母の笑顔が好きだった。
「この部屋は《韓定食》専用室みたいだねえ」
翔子が夕実に言った。
「あら、どうして?」
「皆さんの卓を見てご覧よ」
言われて夕実が見ると、どの卓も小皿がびっしり並んでいた。一人前で二十皿以上ありそうだ。
「そうみたいね。 《韓定食》って給仕が大変よね」
待っていると、大きな板敷の台車をゴロゴロとスタッフが押してきた。
ちょうど今座っている座卓くらいの高さで、板敷の上にはいろんな料理が入った小皿が多数きれいに並んでいる。なるほど、これなら一度に運べる。と思って見ていたら、その台車を夕実たちの座卓にピッタリくっつけた瞬間、夕実たちの目の前に数十枚の皿が並んだ。
マジックでも見せられたようなあざやかな手際だった。
「うわぁ、すごい!」
「こりゃ便利だ!」
料理を乗せたまま座卓に板敷をスライドさせるとは、考えたものだ。これなら、回収もあっと言う間だ。
「母さん、おいしそうねえ」
「あぁ。さっそくいただこうかねぇ」
夕実は翔子の顔を見た。頬がほんのり赤く染まっている。
「韓国の季朝鮮時代にはね」
翔子が語り始めた。機嫌がいい証拠だ。
韓国の伝統食文化の結晶が「宮廷料理」で、季朝鮮時代には、王様の料理を作る部署が宮廷にあって、王様が何を食べるかわからないから、色とりどりの料理を準備して一度にお出ししたのだそうだ。
王には地域の特産品と初物の食材が献上されたので、宮廷料理は全国各地の新鮮な珍味と季節の料理、また節句料理が発達した。調理技術に優れた厨房尚宮の最高の腕によって仕上げられ、伝承されてきた。
そして、季朝鮮時代の王様の料理を現代風にアレンジしたものが 《韓定食》と言われるもので、少しずついろんな料理を楽しめるのが魅力だ。しかも、油の炒めものがないからヘルシーだ。
「さすがに母さん、詳しいわね」
翔子の語りが一段落したとき、夕実が言った。夕実は、韓国ポップスは好きだが、韓流ドラマにはまったく興味がなかった。翔子は、数年前から毎年韓国旅行しているし、二年ほど前から韓国語会話教室にも通っている。昨年は、会話教室の生徒八人と先生で韓国旅行をした。今年もまた行く気らしい。
夕実はふと思った。
その韓国に、今、昂胤が居る。行ったままになっている。
昂胤と雄大が不在中、夕実が一人で事務所を守ると言った。不在中は事務所を閉めておけと昂胤には言われたが、連絡場所に必要だからと夕実が開けておくことを主張したのだ。
アンダーソンからも定期的に電話が入るし、昂胤からも十日に一度くらい連絡があった。
ところが、昂胤からは、先月一度帰国してからまったく連絡がなくなった。夕実は心配でたまらなかった。一カ月を超えた。
「夕実、顔が暗いよ。またコーちゃんのことを考えていたんだろ」
「ち、違うよ、母さん」
いきなり声をかけられて夕実はあわてた。否定したが、夕実のことをよく知る翔子をごまかせない。
「だいじょうぶだよ。コーちゃんなら心配いらないよ」
「誰が心配するものですか。一カ月も連絡くれないヤツのことなんて」
内心を隠し、夕実は怒って見せた。
「忙しいのさ。便りがないのは元気な証拠って言うじゃないか」
今までも海外出張は何回かあったが、夕実は心配したことがなかった。しかし、翔子には務めて明るく言ったものの、今回だけはなぜか夕実も不安な気持ちが消えなかった。さすが翔子だ。母親はごまかせない。
「母さん、せっかく《韓定食》食べに来たのに、ごめん」
これでは、誕生祝いがだいなしだ。夕実は素直に謝った。
「夕実、飲むかい?」
翔子が訊いた。
「母さん、ここはしっかり《韓定食》を楽しもうよ。飲むのは、別のお店にしない?」
食べきれないほどいろいろ出ている。ここではしっかり食べておきたかった。
「わかった。じゃ、そうしよう」
王様の気分を味わいながら、おいしい料理を堪能した。話は、翔子が韓国旅行をしたときのことが中心だった。
「母さん、今年また行くんでしょ?」
夕実が訊いた。
「ああ。行きたいと思っているよ」
「だったら母さん。私と行かない?」
夕実は、自分で言って自分で驚いた。翔子が韓国旅行のエピソードを多数話して聞かせたから、行ってみたくなったのか。いや、そうではない。
「何言ってんだい、夕実。行ったって、コーちゃんにゃ会えやしないよ」
翔子は夕実の狙いがわかったように言った。昂胤に会いに行くつもりだと思ったに違いない。
「うわぁ、そんなのじゃないわよ、母さん。観光よ、か・ん・こ・う!」
夕実は笑って強く否定したが、目は笑っていなかった。
「事務所、開けておくってコーちゃんと約束したんじゃないのかい、夕実。もし連絡が入ったらどうすんのさ」
翔子が夕実に言った。
「だいじょうぶよ、母さん。今さら所長から連絡なんてないわよ」
夕実はだんだんその気になってきた。
「バカなこと言ってないで、飲みに行こう!」
翔子が元気よく言った。
「うん。行こぅ!」
「夕実、ごちそうになったね。おいしかった~。次のお店はアタシが持つからね」
「じゃ、たか~いお店に行こっと」
二人で飲むのは久しぶりだ。夕実のリクエストで、高級ホテルの四十八階にあるラウンジに席を移した。客席はほぼ半分程度の入りだった。一番奥の窓際が空いていた。ここは、東京の街が展望できる。
星をちりばめたような光の海が目を吸いつける。一千四百万人の都民の生活が光の中にある。しかし、昂胤はあの中にいない。
眼下の輝きを見つめながら飲んでいると、つい思ってしまう。昂胤は今頃何をしているのだろう。なぜ連絡をくれないのだ。無事なのか。ここに昂胤がいたらどんなにいいだろう。
――所長、会いたい……。
夕実は、腕やうなじがうずくように感じ、胸がしめつけられた。
気持ちを入れ替えるつもりで目を閉じて深呼吸をしたとき、
「夕実!」
声をかけられた。翔子が呼んでいるのに気づかなかったようだ。
「あ、ごめん。なに?」
翔子が、夕実の手の上に自分の手を重ねた。
「大丈夫かい?」
ふいに優しく言われて、夕実の目からつっと一筋の涙がこぼれた。翔子の誕生祝いにせっかく二人で外出したのに、何のために来たのかわからない。
「ごめんなさい」
「謝んなくていいよ。だけど、あんまり思い詰めないほうがいいよ」
「うん」
夕実は、重ねられた翔子の手の上に、自分のもう片方の手を置いた。
「夕実、行くかい」
夕実の手の上に置いた手に力を込め、翔子が言った。
「え、もう帰るの?」
ここに来てまだ三十分も経っていない。
「何言ってんだい。行きたいんだろ?」
「って、まさか⁉」
「行ったって、コーちゃんにゃ会えないよ。わかってるだろ? それでいいなら、行こうか」
思いがけず、翔子が韓国行きを提案している。
「え~? ほんとなのぉ⁉」
一緒に韓国に行かないかと韓定食を食べながら夕実が言ったのは、半分冗談だった。でも、誘われてみると、本当に行きたくなってきた。
「ああ。本当さ」
「やったーっ、母さん。行く行く。行きた~い!」
夕実は、翔子に抱きついた。さっきまでの重くて暗い気持ちが、いっぺんに明るくなった。梅雨どきに訪れた真っ青な空を仰ぎ見たような気分だった。
韓国に行ったところで昂胤に会えるわけではない。そんなことはわかっている。だが、日本でやきもきしているよりはマシなような気がする。同じ空の下に居ると思えるだけでいいのだ。せいぜい一週間ほどの韓国旅行だが、行くと決まって夕実はアドレナリンが高まって元気が出てきた。満面に笑みが浮かぶ。手足がうずいて身体中温もりに包まれていた。
韓国。ソウル特別市弘大。
昼過ぎには宿に着いた。早いものだ。日本国内を移動しているようなものだった。この旅行は、すべて夕実が手配した。大人になってから翔子と旅行するのは初めてなので、夕実は喜んでいた。
仁川空港からまっすぐホンデまで来た。空港から高速バスに乗って約四十分。ホンデは、音楽の街・芸術の街・若者の街だ。宿は、地下鉄ホンデ駅から徒歩五分のところにあった。翔子が宿泊するのは、いつもソウルホテルだそうで、ハウステルに泊まるのは初めてだという。
四階建ての建物で、各階に三つの部屋があり、三階には食堂がある。ホテルのイメージとはずいぶん違う。形態は、マンションというよりはペンションだ。
費用は、一般のホテルに比べると驚くほど安いが、入ってみると部屋は意外に広かった。セミダブルベッドが三つあり、クローゼットがあり、五十インチほどのテレビが壁にかけてある。大きな冷蔵庫があり、洗濯機があり、ここで利用しようとは思わないが台所もあった。風呂はシャワーだけなのが不満だったが、一般的なワンルームマンションより広く、新しくて綺麗で清潔なのが嬉しかった。
韓国滞在中はここが拠点となる。ホテルと違い生活感に溢れ、翔子と二人で宿舎として過ごすのには最適だった。ホンデ駅まで近いし、ホンデ駅からソウル駅まで約二十分だ。宿舎の近所にコンビニや果物屋などがあり、宿舎前の六メートル道路を隔てて、おしゃれなカフェなどが並んでいる。ショットバーも並びにあるというナイス拠点だ。いいところを見つけた。だが、この程度のことなら夕実にとってはお手の物だった。
夕方六時に屋上に来てくれと女性オーナーに言われた。今夜は、晩餐会に招待してくれるそうだ。片言の日本語を話す四十歳代の朗らかな女性だ。ワンレングストロングの髪をうなじのあたりで一本にまとめ、少しきついくらいの澄んだ美しい目をしていた。
部屋で、二人ともラフな服に着替えて屋上に上がった。
屋上に行くと、大きな縦長のテーブルが出ており、十五人ほどがすでに着席していた。男性は四人しかいなかった。その四人はスタッフで、宿泊客は全員女性らしい。席につくのは夕実たちが最後のようだった。
オーナーが挨拶をした後、乾杯した。
全員が順に自己紹介した。ほとんど韓国の学生だった。二~三人のグループで、地方から来ていた。一組三人だけ中国人だった。やはり学生だった。オーナーは中国語も話せるようで、中国語の自己紹介を韓国語に通訳していた。中国語も韓国語も夕実には判別が難しい。
順番が夕実たちにまわってきた。
翔子は韓国語で、夕実は日本語で自己紹介した。夕実の日本語はオーナーが通訳してくれた。日本人は翔子たちだけだった。
オーナーが日本語で話しかけてきた。
「アオイサン。カンコク、トウシテ、スキデスカ」
翔子が、韓国が好きだと自己紹介で言ったのだろう。
「韓国は歴史があって観光するところがたくさんあるし、なにより、韓国の人は皆さん親切で素敵だからです」
と日本語で言った。
「ソレ、チガウ。ヒトニヨルヨ」
オーナーが、笑みを返しながら言った。
「高齢者を大切にしますでしょう。それに、幼い子でもきっちりと挨拶ができるし」
翔子が言うと、オーナーがうなずいた。
「ソレハソウネ。メウエノヒト、タイセツニ、シマス」
オーナーはホテルでコックの経験があり、今夜はオーナーの手作りということだ。おいしそうな料理がたくさん並んでいた。
さっそくいただいた。
少し辛い物もあったが、どれもおいしかった。食べても次々に色々出してくれるので、食べきれなかった。ストップの声をかけるまで出てきた。
オーナーは太っ腹で、いい人だ。女子学生たちも、明るくていい子たちだった。中には日本語を勉強している子もいて、翔子や夕実にさかんに話しかけてきた。
料理もおいしく、雰囲気もよく、このハウステルに決めて良かったと夕実は思った。
ふと見上げると、きれいな満月が出ていた。静かに青白く光っている。この月を、この地のどこかで昂胤も見ているのだろうか。
女子学生が、それぞれ戻って行った。
「夕実、私たちも戻ろうか」
翔子が言った。お腹がいっぱいになっていた。
「夕実、明日はどこに行きたい?」
部屋に戻ると、シャワーの準備をしながら翔子が訊いた。
「母さんはどうなの?」
「アタシは三回目だからね。夕実が行きたいとこに行けばいいさ」
「行きたいとこはたくさんあるんだけど、まず明日は国立中央博物館に行こうかな」
「そうかい。じゃ、そうしようかね」
「母さんも行くの?」
「おや、一人のほうがいいのかい?」
翔子は、夕実と行動を共にしたいみたいだ。
「そうじゃなくて、もう行ったことがあるのじゃないかと思って」
「いや、まだ行ってない。アタシも行きたかった場所の一つさ。でもね、お前が行きたいとこならどこでもいいんだよ」
「いいの?」
「ああ、いいんだよ」
「じゃ、八時に出ようか」
話がまとまるのが早かった。
大人になって初めてする母親と二人きりの五泊六日の旅行は、あっという間に時間が過ぎた。来たと思ったらもう最終日だ。翔子と夕実は、金浦空港のロッテマートにいた。
「母さん、ここは高いわねぇ」
値札を見て歩きながら夕実が言った。
「そうだね。今まで安かったから高く感じるね」
来て良かったと思う。母娘で旅行したことがなかったし、韓国にはもともと興味があるので、とても充実を感じていた。
「日本じゃこれが普通よね」
「そういうことだね。夕実、お土産は買ったのかい」
「うん。明洞でネックレスを買ったよ。可愛いいのをみつけたんだ」
「あぁ、あれって和美ちゃんのお土産だったのかい」
「ネックレスは和美の分で、ピアスは、わ・た・し」
和美とは、夕実の親友だった。
「和美ちゃんだけでいいの? 佐々木さんとか、買ったほうがいいのじゃないかい?」
「そうだ。佐々木のおじさんには世話になっている。買って帰ろう。でも、何がいいかなあ」
「タバコとかお酒なら、佐々木さんも受け取りやすいかもね」
「わかった。そうするわ。母さんは佐々木のおじさんに、お土産買ったの?」
夕実は知っていた。翔子が、パイプを買っているのを見たのだ。あれはおそらく佐々木への土産だろう。
「夕実。免税店に寄るなら、もうゲートに入ろうか」
「そうだね。母さん、入ろう」
フライトまでまだ一時間と少しあったが、二人はゲートに向かった。
「母さん、佐々木のおじさんのおみやげ買ったら、コーヒー飲みたい」
「いいね」
二人はゲートに並んだ。
「どうしたんだい、夕実?」
ゲートに入る直前、突然振り返った夕実を見て、翔子が訊いた。
「今、誰か私を呼ばなかった?」
「まさか」
「そうよね……。気のせいよね……」
二人はゲートに消えた。
11.青い壺
「昂胤さん、どうするんすか」
雄大が昂胤に訊いた。
ダンの一言で始まった武術大会だ。ただのお遊びだったが、けっこう盛り上がっている。昂胤も雄大も参加する気がなかった。少し離れた場所で覚めた目で見ていた。
アンダーソン教官に頼まれてダンに接触したものの、ここまできたら、後に引けなくなっている。
「教官には、もう連絡できないっすね」
雄大は昂胤の顔を見て言った。昂胤の目は遠くを見ていた。
「無理だな」
訓練中なら抜けだして連絡できたが、今はそれができない。
「阻止しろと前はどう思う」
「もう、やるっきゃないっしょ」
雄大が言った。ソンヒョンの話しを聞いて、雄大は頭にきているようだ。首領はまるきりヤクザだ。いや、ヤクザ以上に陰険だ。俺が殺ってやろうと雄大は熱くなっていた。
「俺は、ダンの本当の狙いが気になる」
何ら見返りなしにダンが協力するとは、とても思えなかった。
ダンの本当の狙いがどこにあるのか。
「昂胤さん、考言われたとしても、ここまできたらそれもできない」
「そうっすよね」
「雄大、お
えすぎっすよ」
「ああ。そうかもしれん。ここまできたら、改革に協力するしかないだろうな」
「そうこなくっちゃ!」
「しかし雄大。絶対に突っ走るなよ。ヤクザの出入りとは違うんだ」
「そうっすかぁ? 屋台が大きいだけで、一緒のことっしょ!」
「バカヤロー。頭を殺って終わりってわけじゃないんだぜ」
「ダメっすか」
「当たり前だろ!」
単純な雄大らしい発想をする。ヤクザの出入りとはわけが違うのだ。雄大は、乗り込んで暴れまわってやろうと思っているのだろうが、クーデターは、タイミングがすべてだ。だから、チームワークが非常に重要になる。誰かの勇み足で、作戦は失敗する。全員が計画通りに動いてこそ、成功の目があるのだ。
「雄大、俺の傍を離れるなよ」
「オッス!」
元気よく雄大が返事した。
《ビン詰レター》事件のときより数段危険なオプションだ。命の保証はないし、生き残れる確率も低い。ターゲットは、精鋭部隊二万人に護られているのだ。成功率一%未満。
試合は、いつの間にか勝ち抜き戦になっていた。マイトチームが、勝ち進んでいるようだ。命をかけた戦いの前のいっときの安寧だ。
「ボス、ダンボスが探してましたぜ」
昂胤チームの狙撃手ニックが昂胤を呼びにきた。
「ダンが?」
昂胤はダンのいる宿舎に急いだ。
中に入ると、ダンはマイトと話していた。
「ダン、俺を探してると聞いたけど?」
「おお、来たか」
話しを中断し、ダンが昂胤を見た。マイトは、昂胤と入れ替わりに出て行った。
「至急ソウルに行ってくれ」
「ソウルへ?」
「ああ。ホン・サンイルという男に会って品物を受け取ってきて欲しいんだ」
「了解。しかし、俺、韓国語を話せないから周を連れて行くぜ」
「それはいいが、あいつが一緒だと遅くなるのじゃないか」
「周なら大丈夫だ。俺についてこれるよ」
「じゃ、頼むぜ」
「ダン、大きさは?」
「ポケットに入る程度だ」
「いつ出発すれば?」
「すぐに発ってくれ。何日あればいい? 」
「往復には十日あれば。あとは向こうでその男に会えるかどうかだな」
「おお、さすがだな。やはりお前が一番早い」
チーム移動なら日数がもっと必要だが、周と二人なら十日もあれば充分だろう。雄大に事情を説明したら、自分も行きたいと言って騒いだが、連れていくと遅くなるので居残りを命じた。すねている雄大を無視し、周を連れてすぐ出発した。
昂胤と周はソウルに着いた。出発して四日と半日だった。深夜だったがダンから頼まれた人物に連絡したら、ホンデにいるので今すぐ来てくれと言う。
「ボス、その人物って何者ですか」
周に訊かれたが、昂胤も知らないので答えようがない。
タクシーを飛ばして三十分で着いた。ホンデの駅前の交差点でタクシーを降りた。男が一人、深夜の交差点に立っていた。その男に周が声を掛けた。話している間、昂胤は少し離れたところで見ていた。
周が昂胤を手招きした。
「ホン・サンイルです。待っていました。これ、頼まれていた物です」
その男は流暢な日本語で言った。男が差し出したのは、高さ四~五センチ、直径もそれぐらいの青い壺だった。固く栓がしてある。
「これだけですか。これ、何です?」
周が男に訊いた。
「それは、ダニエルさんに訊いてください。私は、渡すの、頼まれただけですから」
知っていて知らない振りなのか,本当に知らないのか、わからなかった。
「今夜はどうしますか。宿、ありますか」
男が訊いた。宿を世話してくれるつもりのようだ。
「ボス、俺たち、どうします? このまま戻りますか」
「もう遅い。明日の朝早く出発だ。今夜は久しぶりにベッドで寝よう」
「はい。じゃ、宿を頼みますか」
周が、男と話した。宿を世話してくれるようだ。ついて行くと、古いアパートに案内された。安宿のようだった。ここを良ければ使ってくれと一室開けてくれた。
「ボス。寝るのは少し早いですよ。一杯やりますか」
部屋の鍵は郵便受けに入れておいてくれと言って男が帰った後、周が言った。
「俺は二~三カ所電話する。どこか近くにコンビニあるだろ。探してお前、何か買ってこい」
昂胤は周を買い出しに行かせ、その間、アンダーソンに連絡しようと思った。ダンに使いを頼まれたとき、まずこのことを考えた。連絡できないものと思っていたのでラッキーだった。今しておかないと、この後はもうチャンスがない。ネバダ州との時差は十六時間だから、今は朝の九時だ。教官はまだ寝ているだろうが、起きてもらうしかない。十回、コール音を聞いて切った。もう一度、掛けた。今度は、コール音二十回。切った。二日酔いでもしているのか。
夕実にも連絡したかったが、時間が遅すぎる。昂胤は、念のため事務所に電話してみた。二回コールで留守電メッセージに変わった。聞いて驚いた。夕実が韓国に来ていると言う。宿泊先がホンデなら、ここだ。同じ街にいるとは、なんという偶然だ。もう寝ているだろうから明日の朝一番で連絡してみよう。
しかし、何しに来たのだろうか。まさか俺に会いに? いや、そんなことで来るわけがない。誰と来たのだろうか。翔子と一緒か。一人では来ないと思うがなどと考えてみたが、明日になればわかることだった。
もう一度、アンダーソンに電話した。十回コール。切る。二十回コール。ダメだった。
「ボス。買ってきました。やりましょう」
周が戻ってきた。二合入り焼酎を十本ほど抱えていた。マッコリも肴もあった。アルコールは久しぶりだ。もともと昂胤はビール党だから焼酎は日本ではあまり飲まないが、韓国ではやはり焼酎とマッコリだ。
「乾杯!」
周が言って、瓶のままラッパ飲みをした。昂胤もそうした。
何本か飲んだころ、周が、伝説の武術家の話を始めた。
浪士燕青が好きだという。ひそかに目指しているのだそうだ。
燕青といえば、水滸伝の豪傑百八星の一人だ。武術秘宗拳の達人で、特に弩は百発百中。それだけではなく、多芸多才な人物で、音楽舞踊に精通し、頭の回転が非常に速い。体格は小柄で細身、色白で絹のような肌を持った美青年だ。全身に刺青を入れている。
周も全身に見事な刺青を入れているが、燕青と同じところはこれだけだと自分で嘆いた。
「いや、おまえは燕青と同じで、いたって誠実で忠誠心が旺盛だ。それに、決して人を裏切らない」
と昂胤が言うと「似ていますか」と周が満面に笑みを浮かべた。。
「ああ。似てないのは、燕青はイケメンだがお前はイケメンじゃないってとこだけだ」
「ボス!」
周が睨みつけた。
周は、誠実で実直な男だった。義理堅い。雄大とタイプが似ている。ただ、雄大はよく喋るが周は寡黙だった。余計なことは言わない。二人きりの道中でもほとんど口をきかなかった。ひたすら歩いた。ここに来るまで、かなり急いだ。だが、周はぴたりとついてきた。それだけでもたいしたものだと思う。たいていの者は昂胤にはついてこられない。
昂胤の徒歩は普通の者なら走行スピードだ。しかも、山道杣道ともに速度を落とさない。この三日間で九時間しか眠っていない。ダンのチームの者なら一週間かかる距離を四日半で走破した。
周の話が、子供のころの話になった。寡黙な周にしては珍しいことだった。
周は、両親の顔を知らないと言う。生後三カ月のときに少林寺の門前に置き去りにされた周は、少林寺の僧に拾われ育てられた。幼少のころから、規律の厳しい質素な生活をしてきた。五歳から拳法を習い始め、二十歳のころには少林拳法を一通り習得していた。
どうしても外の世界を見たくなった周は、それまで世話になった少林寺に別れを告げ、外の広い世に出た。
しかし、世の中は周を受け入れてはくれなかった。少林寺を出発するとき渡されたわずかばかりの餞別を、少林寺の紹介で預けられた老舗の絹問屋の番頭に騙し盗られたあげくクビ同然のように追い出され、次に自力で見つけた大手の酒問屋では、店の金を使い込んだと無実の罪を着せられ警察に突き出される寸前に逃亡した。
そのころ一緒に行動していた男の連れに傭兵出身者がいて、誘われてダンの仲間になった。その男はダンの過酷な訓練についていけず逃げ出したと聞いた。だが、訓練中に死んだというのが本当らしい。
しかし、ダンの仲間になってからは、自由だった。
特に昂胤チームに入ってから、周は、家族愛とはこんなものではないかと感じていた。これは少林寺にいたころとは違う感情だった。昂胤を心から尊敬していた。周が昂胤にかなうものは何もない。武術はもちろんのこと、人間的にも昂胤は周より一回りも大きかった。周は、自分のことを人に語ったのは初めてだ。なぜ話す気になったのかはわからない、と言った。
周は酔っていた。焼酎もマッコリも飲んでしまった。久しぶりのアルコールはよく効いた。昂胤もかなり飲んだ。
「ボス。その壺、何が入っています?」
周が、少しろれつの回らなくなってきた舌で言った。
「俺は使いを頼まれただけだぜ。中身まで知るか」
「若返りの秘薬。違いますか」
周は、かなり酔っている。口が軽い。
「おまえ、飲んでみるか」
昂胤が軽く言った。
「飲みませんよ」
キッとした顔で周が言った。
「若返ってガキになったら面倒みてやるよ」
「え? ほんとですか」
周の表情がパッと明るくなった。
「ああ。俺の息子にして、厳しく育ててやる」
「ううっ!」
周が突然泣き出した。
「お? なんだよ」
「あ、ありがとうございます!」
「バカ。何泣いてんだよ」
「ううっ。ボス、俺、そんな優しいこと聞いたの初めてです。ほんとに息子にしてください」
「若返ったらな」
「う、嬉しいです!」
電話しなければと、昂胤の頭の中で誰かが言っていた。酔っていても、それだけは覚えていた。
「俺、もっと、飲みたいです」
そう言って横になったと思ったら、周はいびきをかいていた。
昂胤も、眠くてたまらなかった。さすがに疲れていた。アルコールは、昂胤を強烈な眠りに誘った。それでも、アンダーソンに電話した。だが、コール音を数えながら、ハッと気づいて時計を見ると、朝の九時だった。
ネバダ州は真夜中だ。承知で電話したが、やはりアンダーソンは出なかった。昂胤の事務所の留守番電話に、もうしばらく雄大と共に行動するとだけメッセージを残した。
次は、夕実だ。だが、夕実の携帯は通じなかった。宿泊先のハウステルに電話した。英語が通じなかったので日本語で話してみたら通じた。少しなまりのある変な日本語だった。
「そちらに泊まっている葵さんをお願いしたいのですが」
翔子でも夕実でも、どちらが電話口に出てくれてもいい。せっかくだから、声が聴きたい。
「葵さん、出発したね」
予期しないことを言われた。
「え、いつですか!」
「今朝ね。朝御飯、食べたね」
「どこに行ったかわかりますか」
「帰ったね、日本に」
「そうですか! 空港はどこでしょうか」
「金浦空港と言ったね」
「何時のフライトか言っていましたか」
「十一時四十分と言ったね」
「わかりました。どうもありがとうございました」
昂胤は礼を言って電話を切った。
あと二時間半ある。今すぐ行けば間に合う。しかし、金浦空港に行けば半日使う。ダンとの約束は十日間。あと五日だ。これで半日使えば、あと四日半。
「おい、起きろ!」
昂胤は周の枕を蹴り飛ばした。
周が飛び起きた。
「行くぞ、五分後に出発だ!」
「イエッサー!」
さすがに慣れたものだ。昂胤が言った通り、五分後には出発した。
「ボス。道が違います」
周が昂胤に言った。
「金浦空港に行く」
「金浦空港へ?」
「夕実が来ている」
「えーっ⁉」
「十一時四十分のフライトで日本に帰る」
周が時計を見た。
「急ぐぞ!」
「イエッサー!」
空港に着いた。
十時二十分だ。フライトまで一時間二十分。間に合った。だが、どこを探せばよいのだ。
「搭乗口だ!」
昂胤は、走り出しながら叫んだ。
「ボス! あそこに居るの、ユミさんでは?」
見ると、ゲートに入ろうとしているのは夕実だった。隣に翔子も居る。
「夕実~っ!」
昂胤は、走りながら大声を出した。気づかない。
「ユミさ~ん!」
周も叫んだ。だが、二人の背中はゲートの中に消えてしまった。
昂胤は、夕実の携帯に電話した。
通じなかった。
12.裏切り者
【首領】
神龍隊長バンウォンに官僚の調査を命令してちょうど一カ月目に、バンウォンが報告に来た。
「ソク・ジョンス同志が亡命する?」
首領は、顔が険しくなった。
「はい、恐らく間違いないものと思われます。これが発見した手紙で、娘のヒョンジュンからソク・ジョンス同志宛になっております。筆跡は確認いたしました」
バンウォンが、つぎはぎだらけの手紙を見せた。首領は、一瞬血が引いた。。
手紙を持つ手がふるえる。
やおら立ち上がった。
「即刻逮捕だ! 家族全員だ!」
大声で言うと、拳を振りながら室内を歩き始めた。喉から絞り出す声が不気味だった。
「他には!」
首領が訊いた。指の関節をポキポキ鳴らした。
「側室を持っている同士が十一人おりました」
「なんだと!」
立ち止まって、振り返った。鼻の穴を膨らませて荒い息を吐いた。
「側室であります。これがその者たちの名簿であります」
首領はバンウォンに歩みよって名簿を引ったくった。
顔が赤くなっていくのが自分でわかった。
「むむー、許せん! こやつら、全員逮捕だ!」
「ご親戚の方もいらっしゃいますが……」
「全員と言ったら全員だ! 二度も言わせるな!」
「は。申し訳ありません! すぐ逮捕に向かわせます!」
「他にまだあるのか」
首領は、バンウォンを睨みつけて訊いた。声のトーンが低い。
「いえ。以上であります!」
「よし。下がれ」
ハエを追うように、バンウォンを手で追い払った。
「首領同志様。張り付けは、続けるのでありますか」
バンウォンが、部屋を出る前に確認してきた。
「もう良い!」
首領は、バンウォンの顔も見ずに吐き捨てるように言った。
「は! では張り付けは終了いたします!」
首領は、無性に腹が立っていた。側室を抱えている者が十一人もいたとは……。
よくも大胆不敵にも側室などを持てたものだ。
側室を持って良いのは自分だけだ。
あいつら、絶対に許さない。
血がのぼって脈がピクピクしてきた。足を大きく広げて立って、胸を突き出し、両手を腰に当てた。手のひらに爪が食い込んでいる。
しかし、一番腹立たしいのは、なんと言ってもソク・ジョンスだ。国外逃亡は裏切り行為だ。反逆罪だ。娘はすでに逃亡しているという。捕まえたいが、手が届かない。残った家族は全員極刑だ。
いや、ちょっと待て。
なんとか娘を呼び戻せないか。戻ってきたら即捕まえて、それから家族もろとも極刑にする。
それだ。
中央党のグァンス書記長に言えば、娘を呼び戻す何かいい手を考えるだろう。
そこまで考えが及ぶと、首領はすぐグァンスを呼んだ。
【グアンス】
首領から「すぐに来い」と呼び出しがかかったので、グァンスは大急ぎで首領室に走った。
「おい、ソク・ジョンスの娘を呼び戻せ」
グァンスの顔を見るやいなや、いきなり首領が怒鳴った。
「あいつら家族で国外逃亡を図っているのだ。娘はもうアメリカに行ってしまっている」
唇をめくり歯をむき出しにして言った。
「娘はすでに亡命し、後に残った家族も亡命するのでありますか」
とりあえずグァンスは復唱した。
「だから、そう言っとるだろう!」
首領はケンカ腰だった。鼻の穴を膨らませ、吐く息が荒い。
「失礼いたしました。それなりの覚悟でやっているでしょうから、呼びもどすのは難しいかと思わ――」
「バカ者! そんなことは、わかっとる! だからグァンス同士に言っている。いいか。どんな手を使っても良い。必ず呼び戻せ!」
グァンスが喋っているのを遮って、目玉が飛びだしそうなほど目を見開いて震える声で首領が怒鳴った。両手を握ったり開いたりしながら、口角に唾液を溜めている。
「は、承知いたしました!」
グァンスは、そう答えるしかなかった。
グァンスは、執務室に戻ってヨンスを呼んだ。張り付け任務が終了したとヨンスから聞いてはいたが、その余波がきたようだ。
「ソク・ジョンス同士の娘を呼び戻せと首領が言っている。処刑はそれからだそうだ」
グァンスがヨンスに言った。
「では、呼び戻すまでは、同士や家族は処刑されませんね」
「ああ、そういうことだ。首領の気が変わらなければな」
「では、いかがいたしましょうか」
呼びもどすのは論外だが、かと言ってあまり長くは放置できない。せいぜい一カ月というところか。そうなると、決行日を早めなければならない。はたして間に合うのか。
「ヨンス同士のほうの準備はどうだ」
「はい。傭兵の確保はできています」
「間違いないのだろうな」
「はい。腕はたしかです」
「うむ」
「ですが、彼らを入国させる段取りが、まだできていません」
「やはり、観光では無理なのかね」
グァンスは、できるだけ早く入国させたかった。
「とんでもありません。東洋人も数名いますが、ほとんどが西洋人か黒人で、二メートル前後の屈強な男たちばかりです。ですから、観光などと言えば疑ってくれと言っているようなものです」
この点が最も神経を使うところだ。
「今、ソンヒョンが手配してくれています」
「どのような段取りだね?」
グァンスが訊いた。
「まだ報告がありませんが、ソンヒョンならやってくれると信じています」
統戦部に所属しているソンヒョンならきっといいアイデアを出してくれるとヨンスが言った。
「とにかく急ぐように」
グァンスがヨンスに言った。
【ソンヒョン】
「親方様にまた言われたぞ。とにかく急いでくれ」
ソンヒョンの執務室に入ってくるなりヨンスが言った。ヨンスに言われるまでもなく、ソンヒョンは急いでいた。準備に忙殺されているのだ。
「あ、そうだ。例の件、首領の了解は得られたのか」
口調を換えてヨンスが訊いた。
「……ああ。そのことなら二つ返事だ」
南アメリカの国交のないグレナダ国からサッカー親善試合の申し込みが統戦部にあり、ソンヒョンが担当することになった。調べてみると、立憲君主制国家で、首都はセントジョージズ。カリブ海の小アンティル諸島南部に位置し、イギリス連邦加盟国で、人口十一万三千人という小さな島国だ。
両国の親善のためにぜひ受諾させていただきたいと言うと、「サッカーは強いのか」と首領に質問され、「チームは今年誕生したばかりで、胸をお借りしたいと申しておりました」と言うと、簡単に決裁されたのだ。 グレナダ国は小国なのでこれを機会に取り込みたいと首領が考えたのかもしれない。首領みずから出席すると言ったのだ。七万人収容の平壌サッカースタジアムで得意のパフォーマンスがしたいのだろう。
「で、親善試合はいつなのだ?」
「今、あそこは観客席の拡張補修準備中だから、それが終わってからになるな」
「なぜ今頃そんなことをする」
平壌サッカースタジアムは、世界に誇れるサッカー場だ。観客席も、世界一のはずだ。
「最近ブラジルに新しくできたサッカー場が八万席で、我が国より一万席多い」
「それで、増席か」
「ああ、十万席にせよと命令が出た」
「ちょっと待てよ。莫大な費用がいるのじゃないのか」
「ああ。そのとおりだ」
「そんなカネが我が国にあったのか」
「知らないよ。足りなきゃ人民から搾り取るのだろ」
「人民にカネがあるわけない」
とんでもないことになっていた。人民が毎年飢え死にしているのだ。そんなカネがあるのなら、人民を少しでも救済するべきだ。
「ソンヒョン同志、あとわずかの辛抱だ」
「ああ。ヨンス同志。あとわずかだ」
13 晴天の霹靂
こちらは、ヨンスの執務室。
隊員が入って来るなり言った。
「大隊長同志、た、大変であります!」
ヨンスは、中隊長と打ち合わせの最中だった。
「何事だ! ノックをしないか!」
中隊長が叱った。
「し、失礼しました! 報告があります!」
隊員のあわてぶりは、尋常ではなかった。顔色がなかった。
「どうした、落ち着け!」
ヨンスが言った。
「しょ、しょ、書記同志が!」
隊員はここで絶句した。
「お方様がどうかされたのか。わかるように話せ!」
中隊長が先を促した。
ヨンスは辛抱強く待った。
「た、た、逮捕されました!」
「何だと!」
ヨンスは思わず立ち上がっていた。
中隊長が隊員の両肩をつかんで言った。
「おい、何を言っている! お方様が逮捕されたとは、どういうことだ!」
「今、中央党の者に聞きました。先ほど警察隊が来てお方様を連れて行ったと」
「なぜだ!?」
中隊長が話を途中で遮った。
「わかりませんっ!」
そんなことが起こりうるはずがないのだ。どういうことかさっぱりわからない。
「おい、行って調べてこい」
ヨンスは中隊長に命じておいて、自分は中央党執務室に走った。
中央党は異様な雰囲気だった。最も恐れられている中央党最高権力者のグァンス書記が捕縛されたのだ。騒然とするのも当たり前だ。
ヨンスは、キョン・ヨンイル中央党副書記同志の執務室のドアをノックした。
「神龍隊のヨンスであります」
「入れ」
太くて低い声がした。
「失礼します!」
部屋に入ると、キョン・ヨンイルが両手を机の上で組み、こちらを見ていた。特に動揺している様子はない。落ち着いて見えた。ヨンスの心配は、杞憂だったのか。
「キョン副書記同志、いったいどうなっているのでありますか」
いくらか落ち着いて訊くことができたが、その答はまたもやヨンスを慌てさせた。
「グァンス書記同志が、謀反罪で捕まった」
「何ですって!」
ヨンスは呼吸が止まった。いきなり謀反罪と言われ、背中に冷水を浴びせられたような気がした。顔色を変えていないつもりだが、本当のところはどうかわからない。もしかすると顔に出たかもしれない。早鐘のような鼓動が聞かれはしまいかと気が気ではなかった。
「ああ。私も驚いている。グァンス書記同志が謀反を企てているとは……」
キョンがさらりと言った。
ヨンスは信じられなかった。いつどのようになぜ露見したのか。露見したのなら、ヨンスたち第四大隊にも警察隊が来るはずだ。
「グァンス書記同志が謀反など、何かの間違いであります!」
つい大きな声を出した。
「いいや。間違いじゃない。警察隊は、はっきり謀反と言っておった。証拠があるようだ」
「どんな証拠でありますか」
ヨンスは、合点がいかなかった。あれだけ細心の注意をしていたのだ。足がつくなど考えられない。どんな証拠が出たというのだ。それなら、なぜヨンスのところに来ないのか。最初にお方様が捕まるというのが理解できない。これからどうすれば良いのか。お方様を救う方法はあるのか。
「証拠については、私にもわからない」
「連れていかれたのはグァンス書記同志だけですか。他にも?」
「いや。今のところ聞いていない」
「キョン副書記同志、いかがなさいますか」
ヨンスが詰め寄った。
「様子を見るしかないだろう」
キョン副書記同志が言った。
ヨンスは、自分の執務室に戻った。それ以上のかばいだてをするような言動をとれば、怪しまれると思ったからだ。
しかし、いくら考えてもわからない。青天の霹靂だった。 なぜいきなりトップが捕まるのだ。普通は下位級からだろう。ヨンスは、混乱していた。
部屋には中隊長が集まっていた。
「おい、何かわかったか」
ヨンスは、調べに行かせた中隊長に訊いた。
「お方様は、謀反罪だそうです」
「ああ。俺もそう聞いた。他にわかったことは?」
「引っ張られたのはお方様だけだそうですが、お方様の居宅に検察が入ったそうです。大隊長は、何かわかりましたか」
「いや、何も。ただ…」
ヨンスは、キョン副書記同志のことがなぜか思い起こされた。
「ただ、何でありますか?」
中隊長が訊いた。
「ああ。キョン副書記同志のことでな」
「キョン副書記同志が、どうかされましたか」
「同志が、いやに落ち着いておられたのが気になって」
「落ち着いておられるのが、いけませんか」
「捕まったのが自分のトップだぞ。俺が逮捕されたとして、おまえ、落ち着いておれるのか」
ヨンスは中隊長の方を向いて言った。
「それは無理です。とても、落ち着いてなんておれません」
「だから気になったのだ」
首領を除けば北朝鮮最高権力者であり自分の直接の上司であるグァンスが捕縛されたとあれば、心尋常にあらずというのが本当だろうと思われる。いま思えば、キョン・ヨンイルのあの落ち着き振りには違和感があった。
「お方様はもしかして……」
中隊長が言った。
「謀略に?」
まさか、そんなことがあるのだろうか。しかし、それは充分考えられた。このたびの警察隊の動きには、何か合点のいかない点が多いのも事実だ。何らかの理由で世直し統が露見したのなら、ヨンスの第四大隊が真っ先に攻撃されるはずだ。しかし、ヨンスの第四大隊が無視され、いきなりトップが捕縛された。つまり、世直し党が露見したわけではないのだ。
これが謀略だとしたら、誰が仕掛けたのか。中央党書記グァンスの失脚で一番得をするのは誰か、考えるまでもない。
「ヨンス大隊長同志、 これはかなり深刻な事態です」
「なんとかお方様を救出しなければ」
中隊長が口々に言う。
「いっそのこと、クーデターを起こしますか」
「そうです。どのみち立ち上がるのですから、少し早くなるだけのことです」
ヨンスもそれは考えた。お方様を助ける唯一の手だてかもしれない。
しかし、果たしてそうだろうか。機はまだ熟していない今、計画にないことをすれば失敗する可能性が高い。ここはもう少しようすを見たほうがよいのではないか。
「皆の気持ちはわかるが、まだ動いてはいけない。猛獣が獲物を捕るときは、じっと姿を隠しておいて、いっきに仕留めるものだ。行動を起こす前にこちらの意図を感づかれてはならん。部下に言っておけ。ヘタな動きをしたら、今までの苦労が水の泡だ」
戦略は、「大胆かつ細心」だ。チャンスは一度きり。失敗は許されない。
しかし、その三日後、北朝鮮に激震が走った。グァンスが公開処刑されたのだ。
身柄拘束後三日目の処刑など、いかに北朝鮮といえど、南北朝鮮戦争以来聞いたことがない。
このニュースは全世界を驚かせた。独裁国の醜さをあらためて世界に知らしめた。
しかし、一番ショックだったのはヨンスだ。
田舎の自動車整備工場の一介の工員だったヨンスを、平壌に呼び、影に日向に支援してくれ、ここまで育ててくれたのはグァンスだ。グァンスがいなければ、今のヨンスはない。父親のいないヨンスにとって、グァンスは父親同然の存在だったのだ。深い悲しみに打ちひしがれるとともに、 腹が、怒りで煮えくり返った。首領が、心底憎かった。 しかし、今は動いてはいけない。時機尚早だ。
ヨンスは、必死に堪えた。
14.重次郎の予感
こちらは、石垣島離島。人呼んで重次郎島。
釣っているのは重次郎。
いつものように葵は見ているだけ。月に一度は来ているが、今回はまだ一カ月経っていない。
「早すぎます」
竿先を見ながら葵が言った。
「誰も来てくれと頼んどりゃせんけん」
どこかの方言で重次郎が言い返した。機嫌が悪くないということだ。
「違いますよ。私が来たことじゃありません」
「ふぉっ、ふおっ。わかっておるわ。葵くんは真面目すぎるからして」
「じゃ、何です?」
「北のお国がしでかしたことじゃろが」
「ええ。その通りです。先生はどう思われます?」
「あそこの首領さんは、李朝鮮時代の陛下にでもなったつもりじゃろうて」
「李王朝時代でも、逮捕後三日目の処刑など例がありません」
「強行してしまえるほど、病んでおるのじゃろうて」
今の首領は三代目だ。まだ若い。閣僚は古参官僚ばかりだ。首領は古参官僚の言いなりだと言う者が多い。
初代首領は、時代の流れとともに王権制度を確立した。二代目は、それを継投しながら独裁色をさらに強化し、ついには首領を神格化させた。人民に、首領は生きた神様だと思わせることに成功したのだ。
ここまでは良かった。時代の流れも味方した。だが、三代目はすることがなかった。初代や二代目に仕えてきた閣僚が全て高齢化し、三代目は自分の親ほどの歳の者に囲まれていた。しかも、親の時代の功臣ばかりだ。三代目は閣僚に頭が上がらなかった。
中央党書記の処刑はそんな中で執行された。二代目の圧迫から解放された閣僚が、私利私欲を追及しだした最初の犠牲者がグァンス書記だ、と見るむきが大半だった。閣僚の言うがままに処刑執行を首領が決裁したのだと世間は見ているのだ。
しかし、重次郎の見方は違う。
王座を世襲したが、首領は自分の地位が不安でしようがないのだ。親の七光りでその地位が手に入ったものの、先代の二人と違い、自分はまだ何の実績もない。空いている目の前の王座に座っただけのことだ。いつ剥奪されてもおかしくないほど、王座はあまりにも頼りなかった。
そこに謀反の訴状が舞い込んだ。首領にとって渡りに船だった。本当の謀反かどうか確認することもせず、王権を強行発令し、王の王たるゆえんを全閣僚に見せつけた。独裁者としての自分の存在をアピールしたのだ。反抗する者はたとえ身内でも容赦しないぞ、と。
実際、グァンスは首領の従兄弟なのだ。
これが重次郎の見解だった。
「世界の批判を無視して核実験を繰り返していることといい、逮捕後わずか三日目の処刑といい、この国は何を考えているのでしょうか」
「それらはみな同じ根っこじゃ。何も考えておらんのじゃ、自分のことしか。李王朝時代のままじゃよ」
「本当ですね。国民のことを誰も何も考えていないようですね」
葵は、遠くの海原を眺めていた。かつてここに瓶詰めレターが流れてきたことがある。気の遠くなるような物語の始まりだった。
「ところで、いつもより来島が早いのは、そんなことが言いたかったのじゃなかろう」
「あ、はい。実は……」
葵は、世界五指に入るコンピュータソフト会社の経営者だ。そして、世界一を誇る情報センターを持っている。
「私の情報センターで、妙な情報をキャッチしたのです」
韓国で五十超のリクルートセットが注文された。スーツ、ワイシャツ、ネクタイ、靴下、革靴、手提げ鞄などだ。しかも、ビッグサイズばかり。これ事態はさほど気にならないが、注文したのが韓国の大手新聞社の記者というのが引っ掛かかった。その記者を徹底調査したら、北朝鮮出身だった。
「いかがです?」
葵は、説明した後、重次郎の顔を見て言った。
「ふむ。昂胤くんを思い出した。その後、何か言ってきたかの」
重次郎は、葵の言ったことには触れず、昂胤のことを訊いた。
「先日、昂胤くんの事務所に本人から電話があったようです」
「ほう。して何と?」
「それが、電話があったのが真夜中で、留守電です。元気にしているが今後は連絡がとれない、と言って切れたそうです」
「それだけか」
リクルートセットは、なぜか昂胤と関係がありそうな気が、重次郎はした。
「ちょうどそのとき、翔子と夕実は二人で韓国に旅行中だったそうです。昂胤くんから電話があった翌日に帰国したようですが、もしかしたら向こうで会えていたかもしれませんね」
「ふむ。会えなかったのじゃな。おしいことをしたの。じゃが、会えずに正解じゃったかもしれんぞ」
「会えなかったのが、なぜ正解なのです?」
「何となくそんな気がするのじゃ」
昂胤が、何かとてつもない事件に巻き込まれているような気がしてならない。重次郎は、しきりにいやな予感がした。
「その記者とやらを、パクに探らせてみるかの」
パクは重次郎の秘書の一人で、重次郎島と石垣島を結ぶヘリコプターの操縦士でもある。
瓶詰レター事件では、昂胤と行動を共にしている。
重次郎は、さっそくパクをソウルに行かせた。
15.パク韓国へ
パクは、故郷の韓国に帰ってきた。久しぶりだった。だが、里帰りではない。仕事だ。
昂胤といっしょに韓国に行った雄大がうらやましかったが、自分も行くことになって張り切っていた。
まずは、重次郎から聞いた新聞記者に会わなければならない。名前はわかっている。ピルスだ。北の人間だという。
新聞社は明洞にある。新聞社に行き、面会を申し込んでピルスが出てきたところを顔だけ確認して会わずに帰った。ピルスは、三十歳前後の精悍な感じの男だった。 パクは、退社を待って尾行した。
ピルスは、ロッテホテルに入った。そして、まっすぐエレベーターホールに向かった。数メートル後ろにパクも続いていた。同じエレベーターに乗った。ピルスが階ボタンを押す前にパクが先に最上階のボタンを押した。ピルスは黙ってそれを見ていた。ピルスも最上階に行くようだ。
最上階にはレストランが一軒あるだけだ。
ピルスが先に出るようにパクは奥の壁にもたれた。
最上階に着いた。
ピルスは、レストランに入った。パクも続いた。幸い隣の席に座ることができた。ピルスは誰かを待っていた。ほどなく待ち人が来た。ピルスより少し年長のようだ。スーツを着ていたが、サラリーマンというより、警官か官員のように見えた。
二人は小声で話していたが、パクにはよく聞こえた。
「ソンヒョン同志、お待たせいたしました」
――ソンヒョン同志? この男も北の人間か!
「ピルス同志、揃ったようだね」
パクは緊張した。ソウルのロッテホテルで北の人間二人が会合している。何かの作戦展開中か。
「目立たないように手配するのが大変でした。第一数が多くて 」
「で、荷物は?」
「はい。いつもの定期便トラックに乗せるよう手配しています」
「ピルス同志、ご苦労だった」
荷物の中身は重次郎から聞いている。ビッグサイズのリクルートセットを数十も何に使うのかまったく想像できなかったが、ピルスが手配し、指令を出したのがソンヒョンというこの男だとわかった。
「で、決行日は結局どうなりました?」
ピルスが訊いた。
「工事が完了しないことにはな」
「何でまた今頃そんなことを始めたのか、まったくもって上の考えることは……」
「ピルス同志、ちょうどいいのだ。お方様があんなことになって若い者が血気立っている今、実行するわけにはいかない」
「そうですね」
「ピルス同志、ちょっと耳を貸してくれ」
ソンヒョンがピルスと顔を寄せて何かボソボソ話していたが、聞こえなかった。
それから十分ほどで、二人は別れた。パクはどちらをマークするか一瞬考えて、ソンヒョンの後をつけた。
ソンヒョンは、明洞市場に向かって路地伝いに歩いていたが、いつの間にか人通りのない所を歩いていた。
路地を左に曲がったのでパクも曲がった。が、ソンヒョンが消えていた。しまったと思って辺りを見回したが見当たらない。後ろに殺気を感じてその瞬間前に跳んだ。間一髪、殴打をかわしたパクは、振り返ると同時に一歩踏み込んで鳩尾に蹴りを入れた。
別の男が左からタックルしてきた。かわして腹を蹴りつける。最初の男が後ろから腰に抱きついてきた。振りきれず共に倒れる。上になり下になり、互いに一撃ずつ放つ。離れて同時に立ち上がった。睨みあいになった。二人は、連携に慣れていない。というより格闘そのものに不慣れなようだ。賊は二人。ソンヒョンとピルスだった。
「おい。なぜ俺を襲う!」
パクが言った。
「おまえこそ、なぜ後をつけた!」
腰にしがみついたほうの男が言った。ソンヒョンと呼ばれていた男だ。二人から殺気は消えていた。
「それは誤解だ。俺は後をつけていない!」
「嘘をつくな。おまえはロッテホテルのレストランにいた男だ」
バレていた。
油断した。それともパクの腕が落ちたのか。
「俺は怪しいものじゃない。日本から来たのだ」
「おまえは日本人か」
「違う、韓国人だ。だが、今は日本に住んでいる」
「日本に住んでいる韓国人が信用できるか」
ピルスだった。
「一度だけ見逃してやるから、もう帰れ」
二人がそのまま去ろうとした。
「おい、ちょっと待ってくれ」
パクはあわてた。
「俺はパク・ウォンサンという者だ。 人を探している。俺の命の恩人だ」
パクはとっさに言った。
「人を探している者が、なぜ私の後をつけた!」
ソンヒョンが言った。
「あんたたちは北の人間だろう」
「なんだと!」
再び、殺気を感じた。
「心配するな。通報したりはしない」
パクが、両手を広げるようにして言った。二人が左右からじわじわ近づいている。
「やめておけ。悪いが、あんたたちでは俺には勝てない」
パクの言ったことを無視して二人が迫っている。
「なあ、本当に人を探しているのだ」
「名前は?」
「さっき言ったろ。パク・ウォンサンだ」
パクは即答した。
「おまえじゃない。おまえの恩人の名だ」
ヒョンスが思いがけないことを言った。
「昂胤だ。田川昂胤。日本人だ」
名前を聞いて、ソンヒョンが意外な反応を示した。
「タガワ・コーイン?」
目を丸くして、信じられないという顔でとぎれとぎれに言った。
「知っているのか」
パクはまさかと思ったが、聞いてみた。二人の殺気は消えている。
「どんな男だ」
バクの問いには答えず、ソンヒョンが訊いた。ソンヒョンは、同じ名前の男を知っているのだ。
「年齢は三十代半ば、日本人。身長は俺ぐらい。引き締まった体をしている。韓国に来ているはずだ」
パクが説明した。ソンヒョンは昂胤に会ったのだ。思わぬ僥倖にパクは歓声をあげそうになった。
「数ヵ国語を話すが、韓国語は話せないと思う」
パクがつけ加えた。体がうずいてきた。
「おまえも傭兵か」
ソンヒョンが訊いた。やはり会っている。両手をぎゅっと握りしめた。
「いや、俺は違う。だが、昂胤は元傭兵だ」
ヒョンスとピルスが昂胤の敵だったら、パクはしゃべりすぎている。しかし、ヒョンスたちは味方だと勘が言っていた。
「俺はあんたたちの敵じゃない。昂胤に会ったのだな」
首筋をまっすぐ伸ばし、顔を上げてパクが続けた。
「会ったとしたら、どうする」
「どこにいるのか教えてほしい」
こんな形で昂胤の影が見えるとは、パクは思いもしなかった。
「ちょっと待て」
ソンヒョンとピルスはパクから少し離れた場所に行って小声で話していたが、まとまったのか戻ってきてパクに言った。
「ついて来い」
そう言って二人は先に歩き出した。パクは後に続いた。
着いたところは、明洞のカラオケルームだった。ここならどんな話しも気がねなくできる。
「俺たちは、おまえのことを信用しているわけじゃない。タガワ・コーインとどういう関係か、話してもらおう」
飲み物が届くのを待って、ソンヒョンが言った。
「命の恩人だと言っただろう」
これは嘘ではない。瓶詰めレター事件では、何度か助けてもらっている。
「どういうことだ」
「話せば長くなる」
「いいさ。時間はある」
パクは、一口ビールを飲んだ。
――どこから話せばいいのか……。
「俺は、日本のある老人の秘書をしている」
二人に見つめられながら、パクは話し始めた。
ある老人の個人所有の島が日本の南の端にあり、その老人はそこで年間の半分、釣りをして過ごしている。
ある日、老人が日課の釣りをしていたら、小さな瓶が流れてきた。中に一枚の紙片が入っており、《HELP》と書いてあった。最初はいたずらだと思って気にしなかったが、それからは月に一度流れてくるようになった。老人は気になった。気になれば金をかけてでもとことん追及するのが老人の悪いクセだった。金持ちの道楽だ。知人に紹介してもらった東京の探偵に、謎解きを依頼した。その探偵が、田川昂胤だった。
「傭兵じゃなかったのか」
片方の眉を上げてソンヒョンが訊いた。
「元傭兵だ。十年で退役して帰国。始めたのが探偵業なのだ」
パクは、ここでまたビールで口を湿した。
「昂胤はまず潮の流れに注目し、フィリピンに飛んだ。そのとき老人が、助手に使ってくれと俺を昂胤の供につけたのさ。実際は昂胤の見張り役だったのだがな」
パクは、事件解決までの詳細を語り、その道中で昂胤に命を助けてもらったことを説明した。
「そんなことがあったのか。ピルス同志はその事件のことを知っているか」
パクの長い話が終わった後、ソンヒョンがピルスに訊いた。
「いえ。俺も知りませんでした」
ピルスが答えた。
「すべて裏の世界の話しだ。一切、報道されていない。知らなくてあたりまえだ」
パクが言った。
ソンヒョンの目付きが変わった。
「わかりました。私は、キム・ソンヒョンです」
ゆっくりと微笑んで、ソンヒョンが言った。どうやら信用されたらしい。ソンヒョンが手を伸ばしてきた。パクがその手を握った。
「俺はピルスです」
若いほうも名乗った。ピルスとも握手した。
「先程は失礼しました。私たちは今、ある作戦を展開中で、神経過敏になっているのです」
ソンヒョンが頭を下げた。ピルスも習った。
「いや、俺のほうこそ失礼しました」
パクも頭を下げた。
「パクさんも傭兵だったのですか」
「俺は傭兵ではありませんが、元は軍人です」
ソンヒョンとピルスは北朝鮮人、パクは韓国人だ。だが、元をただせば同胞だ。一部の人間のボタンの掛け違いで南北にたまたま分かれてしまっているが、それは自分たちの意思じゃない。望んで分かれたわけでは決してないのだ。家族が南北に別れて交流もままならないなんてことを、どこの国の誰が望むと言うのだ。
カラオケルームで、三人は打ち解けていた。
しかし、今展開中の作戦については、ソンヒョンの口からもピルスの口からも、語られることはなかった。作戦展開中なら、用心するのがあたりまえだ。だだ、ソンヒョンがなぜ昂胤たちと会うことになったのかということは、話してくれた。
「私たちは、いま大きな作戦を展開中なのです」
ソンヒョンが言った。
最初はパクを警戒していたソンヒョンが警戒を解いたのは、昂胤の存在があったからだ。昂胤とパクの関係を信用したからに他ならない。
「作戦には、傭兵の皆さんの力が必要なのです」
ソンヒョンとピルスが神龍隊員数名とX地点を訪れたのは、一カ月前。傭兵が数十人白頭山に居るというピルスが持ってきた情報に基づき、傭兵を探し出すために訪れた。ある依頼をする目的があるからだ。
「パクさん。昂胤さんに会いに行きますか」
ソンヒョンが訊いた。
「ええ。会えるものなら会いたいと思います」
パクが日本を発つとき、まさか昂胤に会うことになろうとは全く思っていなかった。ところが、妙な流れになってきた。
「昂胤さんたち傭兵の皆さんは、白頭山のX地点に居ます。行かれるなら、ピルスに案内させます」
ソンヒョンが言った。
「はい。俺が案内しますよ」
ピルスが続けた。パクは、昂胤に会う気になっていた。だが、行くなら一人で十分だ。それを言うと、登山道具一式その他必要な物をすべてピルスが手配してくれた。
出発する前に重次郎にあらましを伝えた。そして、昂胤と合流できるかどうかわからないが、いずれにせよしばらく連絡できない、と。どんな作戦なのかパクにはまったく見当がつかなかったが、重次郎は、何か感じたようだった。
「もしかすると、昂胤くんはとんでもないことに巻き込まれているかもしれんぞ。合流できるものなら合流して、昂胤くんに伝えてくれ。必ず生きて帰って来いと」
どういうことか重次郎に訊いたが、そこで電話が切れた。
パクは、中国と北朝鮮の境界に横たわる白頭山の密林にいた。
登山具一式と十日分の簡易食糧と大型ナイフは、ピルスが手配してくれた。ピルスは案内すると言ってくれたが、パクが辞退した。磁石さえあれば目的地に着けるだけの訓練は積んでいる。X地点は、北緯▲▲度、東経△△度とわかっているのだ。
ピルスは十六日かかったと言っていたが、パクは十日で行けるとふんでいた。食糧も十日分しか持たなかった。
しかし、実際に山に入ってみると、それが甘かったと思い知らされた。パクは現役軍人ではないのだ。思うほどに距離をかせげなかった。
気になることがあった。ぼちぼち食糧が底をついてきているのだ。節約してもあと一日しかもたない。現役時代、サバイバル訓練をさせられたことがある。大型ナイフだけ携帯して入山し七日間を一人で過ごすのだ。だから、このことに関してパクはさほど心配していない。それに、もうX地点にかなり近づいているはずだ。
考えても仕方がないことだが、気がかりなのは、X地点に今も昂胤が居るのかどうかだ。
そのときだ。ほんのわずかだった。小枝の揺れを左目の端に感じたのだ。パクは即座に腰を落とした。様子をうかがった。そのまま数分経過した。何も変化はない。気のせいだったか、と思った瞬間、頭に銃口をつきつけられた。不覚だった。まったく気づかなかった。
「ヘタに動くと命はないぜ」
英語だった。パクは静かに両手をあげた。屈強な男が二人いた。白人と黒人だ。
「そのまま歩きな」
銃を突きつけられたまま、しばらく歩かされた。言われたとおりまっすぐ歩くと、突然、視界が開けた。狭いが広場のような場所に出た。一抱え以上ある木に縛り付けられた。
パクの思考が答えを求めてフル回転している。
「おまえは何者だ」
白人が訊いた。パクは、キム・ソンヒョンに聞いていた傭兵に違いないと思った。
「田川昂胤に会わせてくれ」
「何だと?」
「田川昂胤だ。居るだろ」
「おまえは何者だと訊いている」
「俺は、パク・ウォンサンだ。田川昂胤に会わせてくれたらすべてわかる」
パクを無視し、男は黒人を残してそのままどこかに消えた。
「おい、田川昂胤に会わせてくれと言っているだろう。そしたら俺が怪しい者じゃないってわかるんだよ」
昴胤に会わせろと何度言っても相手にされず、無視されたままほったらかしにされた。
「パク⁉」
十分ほど経過したころ、名前を呼ばれた。声がした方を見た。昂胤だった。パクは息をのんだ。先ほどの白人と一緒だ。
「昂胤さんっ!」
ついに会えた。パクは、目の奥に涙が溢れるのを感じた。体中の筋肉が緩んで、大きく息を吐き出した。
「何してるんだ、パク!」
「昂胤さんに会いに来たんですよ」
口が渇いていた。
「おい。解いてやってくれ。俺の連れだ」
昂胤に、キャンプ地に連れて行かれた。巧妙に隠されていて、パク一人で発見できたかどうかわからなかった。
このキャンプ地のボスという白人の男を一人紹介された。睫が長く目が青く鼻筋の通った、男のパクでも魅力的だと感じる顔つきの男だった。名前はダン。ここまで来たいきさつを訊かれたので、パクは、概略を説明したが、葵の情報センターだけは伏せた。ダンは、面白がって聞いていた。
「わざわざ来たんだ。追い返すわけにゃいかないだろ」
ダンは、パクをどうするかを昂胤に任せた。
「どうするパク?」
昂胤がパクに訊いた。
「そうだ! 俺のボスから伝言があります」
「重次郎の爺さんだな」
「必ず生きて帰って来いと」
「爺さんはお見通しってか!」
昂胤は笑った。
「昂胤さん、何しているのかしりませんけど、俺も仲間に入れてくださいよ」
「帰れって言っても、帰りっこないよな」
昂胤は、あきれ顔で言った。
「雄大もいるでしょ。俺だけ仲間ハズレはないですよ」
「来てしまったからには、しかたがない。よくここまで来たものだぜ」
昂胤は、それだけパクに言うと、ダンに向かって言った。
「ダン。バクを俺のチームに入れてもいいのかい」
「ああ。おまえがいいならそれでいいぜ。入れてやんな」
パクは、昂胤のテントに連れて行かれた。
「うわぉ、パクさん!」
雄大がパクを見つけて飛んできた。雄大とパクはハイタッチをした。
「雄大! 元気か!」
パクは、大きく息をついて、はやる心を落ち着かせた。
「どうしたんすかいったい!」
雄大が、信じられないと言わんばかりに軽く頭を振りながら微笑んだ。目が輝いていた。
「おまえが昂胤さんの足をひっぱってんじゃないか心配で、見に来てやったんだよ」
「何言ってんすか。パクさんこそ一人で日本に残されて寂しくて泣いてたんじゃねえっすか」
「バカヤロー!」
二人は仔犬のようにジャレあった。雄大が本当に嬉しそうだった。
「昂胤さん、ソンヒョンさんからダンさんに手紙を預かってます」
真顔になってパクが言った。
「早く言わないか」
昂胤は言ったが、パクは最初から昂胤にまず報告するつもりだった。
「おい、雄大。俺はダンのとこに行ってくるから、おまえはパクに説明してやれ」
「オッス!」
昂胤は、ソンヒョンの手紙を持ってダンのテントに向かった。
雄大は、パクに説明を始めた。話を聞いてパクは、突然体の中心が冷やされるような感覚になった。思考がぼやけてきちんと考えられなくなった。だが、昂胤も雄大もそのためにここにいる。
昂胤が返ってきた。
「Xデーが決まった」
「いつですか!」
「九月九日だ」
「まだ二カ月も先じゃないっすか」
雄大がうなった。
16.サッカースタジアム
バンウォンは、今朝は緊張していた。 なぜか胸騒ぎがするのだ。こんなことは初めてだった。
今日は、南アメリカのグレナダと北朝鮮のサッカー親善試合が予定されている。
その親善試合を首領が観戦するとあって、平壤市内は朝からものものしい。幹線道路はすべて通行禁止になっており、道路両側に立ち並ぶビル群と交差点には銃を携帯した特殊部隊員が張り付き、厳重に警戒している。
その警備隊は、宮中から平壌サッカースタジアムまで続いていた。スタジアムには、武装兵一万人が投入されている。 さらに、神龍隊五百人も出動している。特殊部隊員と違って神龍隊は私服だ。民衆の中に消える。
万全な体制だ。
バンウォンが控室でコーヒーを飲んでいると、晩さん会に首領が出席するかもしれない、と警護責任者が言ってきた。試合後、平壌高麗ホテルで歓迎晩さん会が予定されているが、首領は出席しないことになっていた。
ただ、北朝鮮では首領が法律だから、予定が突然変更されることはよくある。だが、今回のイベントは、外国人を招待しているので直前の変更はあり得ないと思っていた。発表どおりだ、と。
バンウォンの胸騒ぎはこれだったのかもしれない。
「バンウォン大将軍同志!」
第四大隊長ヨンスが入ってきた。
「首領同志が晩餐会に出席されると聞きましたが、本当でありますか!」
「まだわからないが、可能性は高い」
バンウォンも早く知りたい。しかし、指示を待つしかない。
「また首領同志のわがままでありますか!」
「ヨンス同志、口を慎め!」
バンウォンがたしなめた。
「申し訳ありません。つい……」
ヨンスは視線を下げた。
「首領ご臨席となれば、ホテルじゃありませんね」
バンウォンの目を見てヨンスが言った。
首領が出席するなら、開催場所は、おそらく宮中晩さん会となるだろう。
「バンウォン大将軍同志」
ヨンスが続けた。
「先に半分あっちに走らせますか」
「いや、まだ良い」
晩餐会がどちらで開催されようと、首領はこの試合会場にまず顔を出す。そのあと宮中に移動するなら一緒に行動するまでのこと。考えても仕方のないことだ。
観客席はびっしり埋まっている。首領が観覧するのに会場が閑散としているわけにはいかない。大動員されていた。
十万人集まると、さすがに熱気に満ちる。
もうすぐ首領が入場する。
ピッチには、選手が相手チームと共に一列に並んでいる。同志チームは整然としているが、グレナダチームは列が乱れてだらしない。
そのまま十分ほど過ぎたころ、アナウンスが首領の到着を告げた。その瞬間、ざわめきが消え、その直後、ザンっと胸に響く低くて重い音がしたと思ったら、 客席の人間がいっせいに立ち上がった。そして直立不動の姿勢をとった。場内は静まりかえっている。十万人が集まっているのに物音が全くしないのは異様だった。
音が途絶えたまま、また十分ほど経過した。
観客席は全員直立不動のままだ。一列に並んだ同志チームの選手も直立不動だ。グレナダチームだけは相変わらずふらふらしている。非常に腹立たしいが、バンウォンは、その気持ちをぐっと押さえていた。
そのとき、軍服を着た男が二十人ほど観客席中央VIP席に入ってきた。先頭を歩いていた首領が客席に向かって手を挙げた。それを合図に、観客がいっせいに拍手を始めた。首領は、立ったままゆっくり百八十度手を振って応えた。拍手は、やまなかった。
席に着いた首領がマイクを手に取ると同時に、拍手がぴたっと止まった。首領が喋り始めた。場内は静まりかえっている。数分後、首領が座ると客席からまた轟音のような拍手が湧いた。首領が手をあげると拍手がすっと消え、観客も全員座った。そしてまた、静まりかえった。
両チームが、ピッチに散った。
グレナダチームのボールだ。
ホイッスルが鳴った。
どっと歓声がわいた。
17.ヒョンソン忙殺
ダンのキャンプ地。
ダンは、各チームのリーダーを集めて言った。
「北朝鮮が、国交のないグレナダ国のサッカーチームと親善試合をすることになった」
ダンはここで話しを切った。誰も口を挟もうとしない。
「グレナダ国は小国で、サッカーが盛んではない。というより、サッカーを知らないと言ったほうがいい。その国から、わざわざサッカーの指導を受けに北朝鮮に来るのだ。親善を図ろうとしているわけだ」
背筋をまっすぐ伸ばして顔を上げ、しっかりと皆の顔を見た。
「では、役割を発表する」
はっきりとした口調で言った。
「ちょっと待ってくれ、ダン」
ここで、マイトが遮った。マイトは、ダンの右腕のような存在だ。
「話しが見えねえんだが」
「俺たちは全員、グレナダ国民として北朝鮮に入国する。」
ダンが続けて説明した。
「俺たちは、グレナダ国のサッカー選手団というわけだ。半分は選手で、その他の者は、政府関係者、報道関係者、それにサッカー協会の人間になる。質問は?」
マイトが手を挙げた。
「ストーリーはわかったが、具体的な作戦は?」
「そいつは、現地を見てからのことだ」
ダンはいつもそうしていた。現場に合わせた作戦を立てる。できるかぎりシンプルに。
「ところで、グレナダ国って何語なんだい?」
また、マイトが訊いた。
「英語圏だ。公用語は英語だ。皆、英語を使って大丈夫だ。他には?」
ダンが答えた。他に質問する者はいなかった。
団長はダンで、マイトが副団長だ。
「平壌サッカースタジアムは今、増席工事をしているらしい。それが終わり次第、決行する」
ダンが言った。
「じゃ、ボス。俺たちはサッカースタジアムで暴れるんで?」
リーダーの一人が訊いた。
「御前親善試合だ。首領がスタジアムに来る」
ダンが言った。
「警護が厳重でしょうね」
別のリーダーが言った。
「ああ。特殊部隊が出るはずだ。首領は、二万人の精鋭部隊に守られる」
「そいつは豪勢だ」
「しかし、本当にやっかいなのはそいつらじゃない」
「この前ここに来たヨンスとかいうヤツの部隊ですね」
別のリーダーが言った。
「そうだ。神龍隊だ。ヨンスの第四大隊の百名は俺たち側だが、他の四百名が首領側だ」
神龍隊の存在。
全員が精鋭中の精鋭。
ダンは皆の反応を確認するように一同を見まわした。そして、続けた。
「しかもやっかいなのは、ヤツらは軍服を着ていないということだ」
全員が人民の中に溶け込んでしまう。敵の存在が見えないことほど難儀なことはない。観客席十万人の人民すべてを敵と想定するわけにいかないからだ。仮に存在が見えていても、ヨンスの大隊百人だけで四つの大隊をカバーするのは無理だ。ダンのチームを全員つぎ込んでも難しい。
「ボス。お手上げじゃねえっすか!」
「だからおもしろいんだよ。この前みたいに簡単なら、おもしろくないだろ」
ダンに何か考えがあるのか、こともなげに言った。
「他に質問がないなら、役割を発表する」
ダンが続けた。サッカー経験者が十七人いたが、経験者は全員選手。後は、政府関係者、報道関係者、それにサッカー協会の人間などに割り振った。
そのとき、ソウルに遣いに行っていた昂胤が入ってきた。
「ボス。いま帰りました」
「おお、昂胤。戻ったか。さすがに早いな」
「これが受け取った品物です」
昂胤は、預かった小壺をダンに渡した。
「おお、サンキュー。ごくろうさん」
小壺を受けとると、席に着けとダンが言った。ダンは、これまでのいきさつを昂胤に説明した。
「ダン。俺たちはフリーにしといたほうがいいんじゃないか」
ダンの説明を聞いて、感じたことを昂胤は言った。
「おお、そのことだ。おまえたちには別の重要な任務があるのだ」
ダンが昂胤に言った。白人や黒人は、この国では目立ってしょうがない。その点昂胤たちなら違和感なく溶け込める。
「昂胤、四人で首領を拐ってくれ」
ダンがサラリと大胆なことを言った。
「俺たち四人で……」
「おまえのチーム全員連れて行け」
ダンは最後まで昂胤に言わせなかった。
「作戦はお前に任せる」
「イエッサー!」
傭兵をサッカーチーム団に仕立てて入国させる。
これなら不自然さはない。サッカー選手としては傭兵たちがあまりに屈強すぎるが、観光旅団とするよりましだろう。最終的に、御前サッカー親善試合を開催することに決めたのがつい先日のことだ。北朝鮮と国交のない小国を探した。見つけた。南アメリカのグレナダ国だ。グレナダサッカーチーム協会から、ソンヒョンのいる統戦部に、ぜひ胸を借りたいと親善試合の申し出があったことにする。
ソンヒョンに計画を話すと、手を叩いて喜んだ。すぐ首領に上奏すると言った。
,後日、ソンヒョンから連絡があった。
首領の承諾を得た。「叡覧御前試合」と申し上げたら二つ返事でOKだった。首領が別の部署に観客席増設を命令したので、首領は確実に出席するはずだ。後はソンヒョンの仕事になる。偽造パスポート作成は得意分野だが、今回は数が多い。これまで数十名の外国人を一度に受け入れたことがない。パスポートの作成を急がせている。それから、サッカーチームのユニフォームと国旗が必要。あとはスーツに小物、その他アイテムの調達など、ソンヒョンは、準備に忙殺されている。思うようにはかどらなくてはがゆい思いをしている、とのことだった。
席の増設工事が終わるまでまだ十分時間がある。焦る必要はない。ゆっくり、そして確実にすすめてくれ、とダンはソンヒョンを落ち着かせなければならなかった。
18.会場の大画面
韓国語を解するパクが先頭になって、昂胤、雄大、周の三人が、球場のVIP室に向かった。
四人とも、ハングルで報道局と書いた腕章をつけている。パクはカメラを携帯していた。
ピッチの大歓声もここでは遠い。
首領のいない空のVIP室の前に、警備兵が四人立っていた。
「待て! お前ら何者だ!」
誰何された。
「取材ですよ」
パクたちは無造作に近づいた。
「取材など聞いておらん! ムぅっ」
言い終わる前に、警備兵は四人とも倒れていた。そのまま控え室に運び込み、軍服を脱がして奥の部屋にほうりこんだ。
警備兵になりすました四人は、VIP用トイレの前に立った。試合が始まって四十分経過している。もうすぐハーフタイムだ。首領が用を足しに来るはずだ。
「客人、早くこねえかな」
雄大が言った。
「トイレにまでゾロゾロお供を連れてくるんじゃないだろうな」
パクが言ったとき、複数の足音がした。見ると、何か話しながら首領がトイレに続く廊下に入ってきた。三人付いてきている。警備兵ではなく閣僚のようだった。話の内容はわからないが、試合のことでも話しているのだろう。身ぶり手ぶりをを交えて興奮ぎみに首領一人がしゃべっていた。
「雄大。客人が来たようだぜ」
パクが小声で言った。
「じゃ、お・も・て・な・し、だ」
雄大が口許だけで笑って直立不動の姿勢になった。
四人が近づいてきた。しかし、パクたちに気を回す者は誰もいなかった。
首領がトイレに入った。お供の三人は廊下に所在無げに立っていた。昂胤が続いて入った。
「なんだ。トイレにまで入るのかね」
お供の一人があきれたように言った。
「はい。我々は首領同志様の警護が任務であります。失敗は許されませんから」
なまりのない韓国語で、パクが応えた。
「一つお訊きしてもよろしいでしょうか」
パクが訊いた。
「試合状況だね。どう思うかね」
「はい。当然、我々の同志チームが勝っていると思います」
と、パクが言ったら、意外な答えが返ってきた。
「ところが、今のところ一対二で負けているのだ。だから首領同志様がご機嫌ななめでね。このままじゃ大変なことになる」
パクは心の中で嗤った。素人の寄せ集めチームに負けているようじゃ、北朝鮮チームもたいしたことはない。
「相手が弱いと思って油断しただけでしょう。後半は必ず巻き返してくれるはずです」
パクは、思いとは裏腹なことを言った。
そのとき昂胤が出てきて言った。
「おしゃべりはそこまでだ」
昂胤が言うと同時にパクたちが動いた。三人のお供は声もなくくずおれた。三人をトイレの個室に押し込み、倒れている首領を担ぎ上げて廊下に出た。
出口のほうから白衣を着た男が二人で緊急患者用の寝台を押して走って来た。ヨンスの部下だ。昂胤たちは、首領を寝台に寝かせ、シーツをすっぽり被せ、出口に急いだ。
「待て!」
廊下を曲がったとたん、突然呼び止められた。さっきまで誰もいなかったはずだ。私服が二人。神龍隊だ。
「どこへ行く!」
「急病人だ。急いで病院に運ばないと」
一人がいきなりシーツをまくった。
「あ!」
その男が懐に手を入れた瞬間、昂胤が男のテンプルを突いた。もう一人が拳銃を出したが、雄大が弾丸を発射させるほうが一瞬早かった。男は壁際に吹き飛んだ。拳銃を使いたくなかったが、しようがない。
「おい、急ごう!」
昂胤が言った。
外に出たところに特殊部隊員が四人いた。四人一組で行動しているのだ。
「何をしている!」
誰何された。
特殊部隊員が顔を覗きにきた。
「あ、首領同志様!」
緊張が走った。
「おまえら、所属は!?」
「神龍隊第四大隊だ」
パクが言った。
「神龍隊は私服じゃないのか」
言うのと拳銃を抜くのが同時だった。しかし、昂胤の礫が疾った。三人倒れた。残った一人は雄大が射殺した。
出口に急いだ。出口に着いたとき、建物の二時の方向から銃声がした。ヨンスの部下が倒れた。肩に被弾している。
さきほどの銃声を聞いた特殊部隊員が飛んで来たのだ。
四名。
早く処理しないとさらに集まってくる。
待機していた救急車に寝台を乗せると同時に発車した。特殊部隊員が救急車を追いかけながら発砲しているところを、パク、昂胤、雄大、周で四人ともしとめた。パクたちは救急車に乗っていなかった。首領を拉致して五分と経っていない。
昂胤らは ダンたちと合流するためにすぐ観客席のVIP席に戻った。ダンと目が合った。昂胤は無言でうなずいた。
歓声が起こった。後半戦が始まったのだ。
後半戦試合開始時刻が、作戦開始時刻だった。各要所で待機しているヨンスの大隊が一斉に蜂起する。
警察署、報道局、空港等、おもな機関はすべて抑える。同時制覇が、蜂起成功の絶対条件だ。
傭兵の任務は、首領拉致と閣僚を制覇することだが、首領拉致は済んだ。上位閣僚は
全員VIP席で試合を観戦している。制するのはたやすい。一網打尽だ。
また大歓声が起こった。
北朝鮮が打ったロングシュートがゴールネットに突き刺さったのだ。まだ後半が始まったばかりだ。これで二対二の同点となった。北朝鮮チームが本気モードに入ったようだ。
そのとき会場の大画面に男が写し出され、場内に大音声が流れた。
「ヨロブン、アンニョンハセヨ!」
得点に沸いていた客席が、何事が起ったのかと、ざわめきに変わった。大画面の男が、にっこり笑って手を振っている。中央党書記長クム・グァンスだった。大物中の大物だ。知らない者はいない。しかし、公開処刑されたはずだ。これはいったいどういうことだ。
試合が止まっていた。
そして、グレナダ国のサッカーチームが、いつの間にかピッチから消えていた。
「同志諸君!」
大画面の男が言った。
「私は、中央党書記長のクム・グァンスだ。今から私の言うことをよく聞いて欲しい」
場内は静まり返った。
「この国に『世直し党』ができたのを知っている者は少ないと思う。私が、その世直し党の党首だ」
『世直し党』という名称を聞いたとたん、場内にまたざわめきが起こった。しかし、VIP席の閣僚は誰一人として動こうとしない。その気配すらなかった。動きたくても動けないのだ。VIP席の閣僚全員に、ダンたちが貼り付いている。
閣僚の顔はどれもこわばっていた。後ろから銃を突きつけられているのだ。
「今日は記念すべき日となる」
グァンスは続けた。 ざわめきは、大きなうねりとなった。一呼吸置いてグァンスが言った。
「本日、首領同志は失脚した」
とたんに場内に重いどよめきが起こった。試合が始まる前に、首領は元気に手を振っていたはずだ。失脚とはどういうことか。処刑されたはずのキム・グァンス中央党書記同志がしゃべっている驚きよりも、首領同志様が失脚したと聞くほうがショックは大きい。
「首領は、今ごろはもう北朝鮮にはいない」
この国民放送は、国中の人間が観ている。
グァンスは、ざわめきが静まるのを辛抱強く待っているようだった。
場内が次第におさまってきた。十万人が、いや国中が、グァンスの次の言葉を待っている。
「この国には、今夜の食事ができない同志が多数いることを知っているだろうか。餓死者が毎年何万人もいるということを」
グァンスは、ここで言葉を切った。会場は水を打ったような静けさだ。何が起きたのかまだ理解できていないのかもしれない。
「その一方で」
グァンスは強く切り出した。
「ぜいたくに暮らしている者がいる。それは、ほんの一握りの者たちだ。失脚した元首領同志にいたっては、口にするのもおぞましいほど贅沢三昧だ」
大画面には、首領邸が映し出された。北朝鮮の平民が喰うや喰わずの生活をしいられているのに、首領邸の食卓には、平民が見たことのない豪華な食べ物ばかり並んでいた。場内にまたざわめきが起こった。
そのとき入り口で銃声がした。
特殊部隊と世直し党の銃撃戦が始まったようだが、銃声に気づいた者はいないだろう。
今度は、大画面に、プールで楽しそうに水浴びする子供たちが映っていた。首領婦人も映っている。首領邸にはブールがあることを、国民は初めて知った。
「首領同志は、決して神様などではない。人間だ。 本人は、李王朝時代の陛下以上の存在だと思っているようだが、強欲、無慈悲、利己的なだけのただの人間だ」
グァンスは言い切った。
これまで誰一人として思いもしなかったはずだ。生き神様だと信じて疑わなかった首領同志様が、ただの人間だと言う。中央党書記長の言うことだから おそらく間違いないのだ。会場内はもちろんのこと、今テレビを観ている北朝鮮の全国民が、強い衝撃を受けているだろう。
「もう首領はいないのだ。首領中心の国は終わった。北朝鮮は、今日から、人民のための国になる。人民は皆が平等だ」
グァンスは、かみしめるようにゆっくり言った。わかりやすい説明だった。よけいな説明は、人を遠ざける。
人民は、半信半疑というところだろうか。だが、会場内の雰囲気は、あきらかに変わっていた。
※物語はいよいよ佳境に入ります。
続きは「田川昂胤探偵事務所 ウォンジャポクタ④」でお楽しみください。