第36話 永遠の番
ヒュドラは満足そうな笑みを浮かべて言った。
「ラングと申したな。荒神として人々から恐れられているわらわに対しても臆さず堂々としたその振舞い、気に入ったぞよ。そなたの心意気に免じて金輪際サルモン川の水を溢れさせない事を約束しよう」
この瞬間、水神ヒュドラを鎮める儀式の成功が誰の目にも明らかとなった。
当初想定していたシナリオからは大きく外れていたが結果オーライだ。
私は無意識の内にガッツポーズを取っていたが、一国の王妃としてあるまじきはしたなさに気が付いて即座に姿勢を正す。
幸い民衆たちはラングとヒュドラに注目しているので誰も見ていなかったはずだ。
これでラングから離れていた民衆たちの心も戻ってくる。
後はヒュドラを川の中に帰すだけで儀式は完了する。
しかし次の瞬間ラングはヒュドラに向けて思いもよらない言葉を贈った。
「あなたのような美しい女性を恐れる理由がどこにあるというのでしょう。今まで数々の女性と出会いましたが、ヒュドラ様ほど美しい女性を私は知りません」
当然儀式の手順にはないセリフだ。
さしものヒュドラもその言葉にきょとんとしている。
「ほう、人々が恐れるわらわを美しいと申したのか。面白い人間よの」
「もしあなたのような美しい女性を伴侶とする事ができたのなら男として至上の喜びでしょう」
ひと目でヒュドラの美しさに心を奪われてしまったラングはあろうことか私という存在を忘れてヒュドラを口説き始めてしまった。
「ラング様いけません! 早くヒュドラ様にお帰り頂いて下さい!」
私は大声でラングの暴走を止めようとするが、ヒュドラに魅了されているラングの耳には全く届かない。
「よかろう人間よ。そなたはわらわの番となり、生涯を共にしたいと申すのだな? 冗談では済まされぬぞ?」
「はい、王に二言はありません」
「あいわかった。ではその望みを叶えてしんぜよう」
ヒュドラはゆっくりとラングに歩み寄り、その豊満な身体で包み込むように熱い抱擁を交わした。
「では参ろうか人間よ」
「はい、私の王宮はあちらの方向で……」
「王宮へではない」
「えっ?」
次の瞬間ヒュドラは巨大な蛇に姿を変えた。
「う、うわあああああああああああ!?」
ヒュドラのその醜く恐ろしい姿にラングは恐怖し悲鳴を上げるが、ヒュドラは問答無用とばかりにその長い身体でラングの身体を締め上げて飛翔する。
「た、助けて……」
「くすくすくす……もう後戻りはできぬぞ人間」
そしてヒュドラはそのまま大きな水飛沫を上げながらサルモン川の中に飛び込んでいった。
「ラ……ラング様!?」
私は川岸に駆け寄って川を覗き込むが、もうラングとヒュドラの姿はどこにも見えなかった。
私はヒュドラの悲恋伝説の結末を思い出した。
あの醜い巨大な蛇がヒュドラの本来の姿だ。
ヒュドラが人間の女性の姿を取っていたのは陸上では蛇の姿よりも人の姿の方が活動しやすいというただそれだけの理由である。
かつてヒュドラの美しい女性の姿に恋をしたひとりの旅人はラング同様にヒュドラへ求婚し受け入れられたものの、その本来の醜い姿を知るとショックのあまり自ら川に身を投げたという。
そういった経緯もあってヒュドラは二度と男に逃げられないようにラングを深い川の底にあるというヒュドラの神殿へと連れ去っていったのだろう。
ヒュドラの神殿の中に閉じ込められたラングは恐らくこの先死ぬまでに地上に戻る事はできないだろう。
いや、何せ相手は神だ。
死後もその魂は神殿の中に囚われ続けるかもしれない。
「なんだったんだ今の?」
一部始終を見守っていた民衆達がざわつきだした。
「ラングが女好きとは聞いていたけどあんな化け物にまで色目を使うとは想像以上だったわ」
「とにかくもうサルモン川は氾濫しなくなったんだよな?」
「そりゃ助かる。あの馬鹿王も役に立ったな」
民衆たちは誰ひとりとしてラングを心配する様子もなく、まるで酒場の酔っ払いのように好き放題の感想を言い合っている。
折角私の計画通り儀式が成功しても肝心のラングがいなくなってしまえば何の意味も無い。
今までの苦労は全て水泡に帰した。
「そんな……私は今まで何のために……」
絶望のあまりその場に膝から崩れ落ちた私を受け止めてくれる者は誰一人その場にはいなかった。




