第二話
カーターの酒場は賑やかな笑い声に包まれていた。
その中心にいるのはクーで、こんがり焼いた山鳥のもも肉を頬張って、それを酒で流し込んでいた。
「どう? 酔ってるかい?」
クーは酒で赤らめた頬を、リットの頬にくっつけるように近付けて聞いた。
「酔えるかよ……」
リットが不機嫌に言うので、クーはむくれた顔の頬を人差し指でつついた。
「なに拗ねてるの? せっかくご馳走してあげてるんだから、みんなみたいに陽気に酔いなよ。遠慮せずにさぁ」
「人の過去の恥部をペラペラ話すからだろ。ケツの穴でも見られた気分だってのに、酔えるかってんだ」
「私は本当にリットのお尻の穴を見てるけどね。それどころか玉の裏だって見てるよ。それなのに、今更なにを恥ずかしがることがあるのかね?」
「それはな、コイツはオレのケツの穴を見たことがねぇからだ」
リットに指を差されたカーターは、クーに奢られて飲んでいた酒を吹き出した。
「おい……変なものを想像させるなよ……。オレまで酔いが醒めちゃうだろう」
「勝手に想像するなよ。金を取るぞ」
リットのぶっきらぼうな物言いに、クーは子供をあやすように頬を軽くつまんで動かした。
「木に登って降りられなくなることなんて、誰にでもあること。恥ずかしくなんかないって。そこで漏らしちゃうことも……まぁ――人によってはあることだよ」
「オレはないぞ」と、カーターはクーに翻弄されるリットを見てニヤニヤ笑っていた。
「気分の悪い話題に安酒ときちゃ、とても酔えるもんじゃねぇな……」
リットがため息をつくと、クーが頭を優しく撫でた。
「別に高いお酒でも良いんだよ。遠慮しないでさ。Dグイットでもなんでも好きなの頼んじゃってよ」
クーが「みんなもね」と酒場にいる客達に向かって陽気にコップを掲げると、カーターはこのチャンスを逃すまいと高い酒を客に注ぎに行った。
「なんだってそんなに金払いがいいんだ? まさか一山当てたのか?」
大盤振る舞いを心配するリットに、クーは得意げに口の端を吊り上げた。
「そのとおり。だって私だよ。そこいらの冒険者と一緒にして貰っちゃ困るってもん。なにも見付けないで帰ってくるはありえない」
「無理やり見付けようとするから、いつも面倒事を起こすんだろ。見ろ、この過去に巻き込まれた時についた傷を」
リットはシャツの袖をまくると、子供の頃クーに引っ張り回された時についた切り傷を見せつけた。
「そんなのもうほとんど見えなくなった傷じゃん……。それより――リットってば、まさか精霊とまぐわったの?」
クーは子は親に似るのだと言いたげに、呆れたという視線をリットに送った。
「なんの話をしてんだよ」
「その腕。ウンディーネの魔力が流れてるよ。精霊に紋章を入れられるなんて、あんまり聞いたことないもん。まぁ、ほとんど消えて残り香があるみたいなもので、影響はないみたいだけどさぁ」
「そんな大層なもんじゃねぇよ。淹れられたのは茶くらいのもんだ。魔女の酒を作ろうとした時に色々あったんだよ。別に縄で引っ張って無理やり協力させたわけじゃねぇよ」
デルージを作った時のことを話し終えても、クーがなんとも言えない顔のまま見てくるので、リットは言いたいことがあるなら言えと付け足した。
「引いてるの……それもドン引き。過去には、ヴィクターの愚かな行いを散々見てきたけど、それより最悪だよ。お城に忍び込んで、逢い引きしてたお姫様を孕ませるより最悪。人間の一人なんて、精霊の気分一つで消滅させられることもあるんだから、気を付けないとダメだよ。噴火や大嵐と一緒。人間にはどうしようもないこともあるの。わかった?」
クーの瞳は真剣そのものだった。まるで子供を叱る親のような目で咎めた。
「その目で思い出した! オレを木のてっぺんに登らせたのはクーだ! 冒険者なら木登りは出来て当たり前だって、三つのオレを無理やり木に登らせただろう」
今までずっとリットの目を見ていたクーだったが「……いや」と目をそらした。「私はそんなことしないよ。優しいお姉ちゃんだもん」
「いいや、完璧に思い出したぞ。オレが漏らしたら、ようやく迎えに来てこう言ったんだ。人間どうしようもないこともあるから、無理しちゃダメだって。良い教訓になっただろって。それがトラウマになって、木登りが出来るようになるのが一番遅かったんだ」
今度はリットが責めるような目で見るが、クーはその目から逃れるようにしてリットを抱きしめた。
「ほら、これでご機嫌直ったでしょ? 子供の頃はこうやって仲直りしたもんねー」
「直るかよ……。オレをいくつだと思ってんだ」
「大人になったら、それはそれで機嫌良くなるものじゃない? 女に抱きつかれてるんだよ」
「誤魔化されてるってわかってるのにか? だいたいよ……どこ行ってたんだよ。草と土の匂いがすげぇぞ」
「いい匂い?」
「臭えって言ってんだ」
「しょうがないでしょ」と、クーはリットから離れると、髪をかいて汚れを落とした。「洞窟を逃げ回ったり、草陰に隠れたりしてたんだから」
クーは「おっと」と口を押さえて失言を取り消そうとした。
「なにがおっとだ。今回の宝探しでも、どうせ面倒くさいことになったんだろ」
「まぁね。だからこそ、二人で獣人のお酒を手に入れて、しばらくはのんびりしようって話さ。悪くない話でしょ?」
「悪くはねぇけどよ。その話、本当に詳しくする気あるのか?」
「あるよ。でも、話をするのは明日。カーターの店も久しぶりだし、今日はこの町のみんなと酔い潰れるって決めたの。酔うつもりがないなら、しっかり私を家のベッドまで連れて帰ってよね」
「そのつもりで、オレの過去の失態を話したんだろ」
クーは「さぁ、どうだろうね」と肩をすくめた。「ベッドまで運ぶからって、私が寝てるすきにエッチなことしちゃダメだよ」
「するかよ」
「本当に? ……ちょっとくらいならしてもいいんだよ」
「するかよ。これ以上、酒の席でバラされる秘密が増えてたまるか……。なにを言われるかわかったもんじゃねぇ……」
「あら、そう? ざーんねん」
クーはにっこり微笑むと、コップを高く掲げて、酔っ払い達と今日何度目かわからない乾杯をした。
翌日。泥酔したクーは昼になっても起きる気配がなかったので、リットは店を開けて暇をつぶしていた。しかし、こんな時に限って客はやってこない。
昨夜少しでも話を聞いていたら、獣人の酒について考えて暇つぶせたのだが、今聞こうにも聞こえるのはクーとノーラの二人分の寝息だけだ。
あまりにのどかな秋の日盛りに、リットも思わずウトウトし始めた頃。店のドアが遠慮がちにキィっと鳴くように開いた。
小さな音だが、閉じかけていた目を開くには十分な音だった。
リットは数回まばたきを繰り返すと、店に入った来た客に目を向けた。
いかつい顔をした犬の獣人で、小さな丸メガネをかけているその顔は見覚えのあるものだった。
「なんだ、ハスキーじゃねぇか。しばらくだな」
「お久しぶりです。リット様」
ハスキーは堅苦しく頭を下げて挨拶をした。
「ランプの修理か? まさか遊びに来たってわけじゃねぇだろ」
真面目で礼儀正しいハスキーが、連絡もなく訪ねてくるには珍しいので、なにか事情があるのだとリットは察した。
店ではなく家で話を聞いたほうがいいかリットに尋ねられたが、ハスキーすぐに終わる話なのでここでいいと断った。
「実はですね。リット様にお力借りたいことがありまして」
「なんだあらたまって。エミリアの真面目さが嫌にでもなったか?」
「いえ! まさか。エミリア様は最も尊敬する上官です。話というのは、リゼーネのことは関係なく。自分の故郷の村の話です」
「故郷って言うと、パッチワークと一緒だったか?」
「そうです。誇れませんが、パッチワークとは幼馴染というものです。それで、本題なのですが……リットは様は『狂獣病』という獣人だけが発症する病気をご存知でしょうか?」
「聞いたことねぇな。流行り病か?」
「流行病とは違います。狂獣病とは『先祖返り』とも呼ばれている症状なのですが……獣人が理性をなくし、獣のように振る舞ってしまうのです」
この症状は獣人全員が出るものではない。一生症状が出ない獣人もいる。一度症状が出れば、それ以降は狂獣病が発症することはなくなる。
獣人に流れているわずかな魔力が暴走して発症することはわかっていて、それを治療するには月の光をよく浴びるだけでいい。
たが、ただ月の光を浴びるわけではなく、月の力を増幅させた光を浴びる必要がある。
そのために使われる道具が全て盗まれてしまったというのが、ハスキーの話だった。
「そりゃ、大変だな。ハスキーは大丈夫なのか?」
「はい、大丈夫です。自分は子供の頃に発症済みなので、もう一度発症することはありません。一度発症して完治しなければ、村から出られない決まりなので。お気遣いありがとうございます。それで、リット様に治療のための光を作ってもられないかと相談に参ったのです」
「月の光といえば、闇を晴らす時にも使った『ヨルアカリグサ』のオイルがあるけどよ。効果があるかわからねぇぞ」
リットはヨルアカリグサのオイルの余りを地下の工房に保管してあることを思い出したので、ハスキーについてくるように指で招いた。
カウンター後ろのドアを開けてリビングに入ると、鼻を鳴らして知らないニオイを嗅ぎ取った。
「お客様でしたか? 自分の話は、お客様が帰られてからでも構いませんが」
「気にすんなよ。親戚みてぇなもんだ。それより、オイルが足りるのかを心配しろ。足りなかったらラット・バック砂漠まで発注だから、時間も金もかかるぞ」
「それは重々承知しております。見本があるだけでも天の助けです」
「天の助けもいいけどな。エミリアに助けを求めりゃ、こんな国境くんだりまでわざわざ足を運ぶことなんてなかったんじゃねぇか?」
「自分の村の問題ですので、エミリア様を頼るわけには行きません」
「なら、パッチはどうした? アイツのほうが人脈はあるだろ。同じ村なのに、アイツはなにもしてねぇのか?」
「パッチワークはなにか別の頼まれごとを村長からされているみたいで、寝る暇どころか宿舎に帰る暇もなく走り回っています」
「アイツが忙しくしてるってことは、結構な面倒事なんだな」リットは「ほら」とヨルアカリグサから抽出したオイルの入った小瓶をハスキーに渡した。
「これは……どのようにして使ったらいいんでしょうか?」
「そんなの……」とリットは言い淀んだ。「そういや……ノーラの力が安定しちまったから、もうこのオイルには火をつけられねぇんだったな。まぁ、でも安心しろ。これは使えなくても、砂漠の医者に注文すりゃ手に入る。結晶を溶かす毒が見付かったって言ってたからな。なるべく早く届けるように手紙を出してといてやるよ」
「それは助かります。ですが、連絡方法を教えていただければ、自分が手配しますが」
「オレが頼んだほうが確実だ。ちょっと特殊な医者と植物学者のコンビだからな。それより、なんて名前の村だった? たしか……前に一度聞いたことあったよな?」
「自分の故郷の村ですか? 名前は『ポンゴ』です」
ハスキーが村の名前を口にした瞬間。二階のベッドから人が落ちる音がして、天井が大きく揺れた。一瞬の静寂の後、走る音が響き渡り、その足音はスピードを上げて階段を駆け下りて来ると、一直線にハスキーの元へ向かってきた。
「今なんて言った!?」
クーが血相を変えて詰め寄ってくると、初対面のハスキーは困惑の表情を浮かべて「あの……」とリットに助けを求めた。
「これがさっき言った親戚みてぇな奴だ。安心しろ噛みつきやしねぇよ」
「ですが……」と、ハスキーはメガネごと目を手で覆っていた。
「おい、クー。こっちは正真正銘の客だ。頼むからズボンくらいはいて降りてこいよ……」
クーの格好は下着に、びろびろに伸び切ったリットのシャツ一枚の姿だった。
目のやり場に困ったハスキーなど無視して、クーは更に一歩詰め寄った。
「そんなことより、今なんて言ったって聞いてるの! さぁ! 言いなさい!」
「ポンゴですが……」
「えいの――やー!!」
クーはハスキーの故郷の村の名前を聞くと、指ですりつぶした見たことのない草のニオイを嗅がせて気絶させた。
リットは「なにやってんだよ……」と言いながら、倒れないようにハスキー床に寝かせた。「こいつはリゼーネの兵士だぞ。それも小言の多い飼い主付きの」
「そんなの私には関係ないもん。関係あるのはリットを取られそうになったこと。まったく油断も隙もないんだから。躾のなってないワンちゃんだよ」
クーは腕を組んで憤慨していたが、リットはクーがなにをしたいのか皆目見当もつかなかった。
「もういいから……一から説明しろよ。まさか、もうオレを面倒事に巻き込んでんじゃねぇだろうな……」
「まぁまぁ、もうちょっと待ちなさいな。着替えてくるからさ。どうしても我慢できなかったら、ドアの隙間から覗いてもいいよ」
リットが「わかったから……早く着替えてこい」と言うと、クーは「はいはい」とマイペースな足取りで階段を上がっていった。
二階で軋む足音を聞いて、リットはまたはぐらかされたと肩を落とした。