第十一話
ふかふかのベッドでリットは深く眠りにつくはずだった。風は少し寝苦しい熱をもって吹いていたが、太陽の匂いがするシーツに、遠くで流れる水の音が眠りへと誘う。
そんな十分過ぎる環境でリットが目を覚ましたのは、隣で寝ているクーが寝返りをうつたびに、ベッドが揺れるからだ。
本来は新婚だったり、深い仲のカップルが寄り添って寝るように作られたベッドなので、寝返りも打っても同じくぼみに身を寄せているので被害はない。だが、リットはクーから少し離れたところで寝ているので、クーの寝返りの振動の波に襲われていたのだ。
クーはリットと寄り添おうが、抱きつかれようがまったく気にしないので、臆することなくベッド真ん中で寝息を立てている。
そこまでは良かったのだが、クーが寝返りを打って移動するたびにリットはベッドの端へと追いやられてしまい、とうとう端から落ちそうになると寝るのを諦めた。
逆側で寝ることも考えたのだが、もうすっかり眠るような気分ではなくなってしまっていた。
すっかり朝で、木のてっぺんにあるこの部屋は何にも遮られることなく朝日を浴びており、一度ベッドから体を起こしたら目が冴えてしまった。
リットは食べかけだったフルーツがいつの間にか補充されているのを見て、そのサービスの良さに支払いはどうするのだろうと気になったが、考えるだけ無駄だと思ったので、気分転換の散歩がてらに周囲を見て回ろうと、枝から隣の木の枝へと斜めにかかった橋を歩いていると、別の木から猿の獣人が素早く飛び移って来て、リットの隣へ並んだ。
「おはようございます。昨夜は眠れなかったご様子で」
猿の獣人の意味深な笑いに、リットは呆れつつも「まあな」と話を合わせた。
「スペシャルドリンクのサービスもあったのですが」
「また機会がありゃな。……それより少し聞いていいか?」
「お話を聞くのも仕事。それに、朝は暇なんですよ。ほとんどのお客様は疲れて、ゆっくり寝ていますから」
リットが耳を凝らすと、まるで虫の鳴き声のように寝息とイビキが響いていた。
「趣味が良いとは言えねぇな」
「防犯対策ですよ。今は朝なのでよく聞こえますが、夜は他の動物の鳴き声が混ざって気になりません。それこそ満月の夜の動物のように吠えても」
猿の獣人が勘違いして安心するようにと笑った。
「聞きたいのはそれじゃねぇよ。三本の木の間に吊るされた宝石のことだ」
木から地面へと降りたリットは、蜘蛛の巣のように張られたロープを見た。そこには中心に台座があり、宝石がはめ込まれている。大きいものではないが、朝日を反射させて足元の影に模様をつけていた。
「あの宝石はとても大事なものなんです。食べごろ前の果実を枝付きのまま取って、あの宝石の光を浴びせて最後の成長をさせるんです。すると、不思議に甘くなるんです」
猿の獣人がおひとつどうぞとバナナを渡してきたので、リットが食べてみると確かに普通よりも甘さが増しているのがわかった。
「これって狂獣病が治るのと関係あるのか?」
リットがもう一口とバナナをかじって言うと、猿の獣人は慌ててその口をおさえた。
「お客様! 困ります。そのワードはこの町では禁句です。なんせお客様も獣人がほとんどなのですから……」
その慌てっぷりに、リットは余程なものなのだろうと深く話を聞いてみることにした。
だが、猿の獣人の答えは無視だった。徹底的にその話題には触れることなく、接客を続けた。
リットはもう後のことなど知るものかと、高い酒を瓶ごと注文すると、猿の獣人は少し迷ってからリットを別の場所へと案内した。
そこは枝に建てられた部屋ではなく、根付近の木を掘って作られた部屋だった。
「本来ここは予約制の酒場なのですが……今だけ特別です」
猿の獣人はリットが注文したD・グイットの瓶を棚から出すと、ガラス製の高いコップに注いだ。
「そんな危険な話題なのか? 狂獣病ってのは」
リットがそっちも飲めと瓶を手に取って傾けたので、猿の獣人はお礼を言って酒を受けった。それを一気に飲み干すと、熱い息を吐いてから話し始めた。
「獣人が獣に戻るというのは、恥ずべきこととされています。理性を失うということですからね。自分が発症するのも、誰かが発症したのを見るのもご勘弁願いたいものです」
「でも、あの宝石が狂獣病を治すんだろ?」
「我々ここに生まれた獣人は確実に治ります。ここからは聞きかじった話で申し訳ないのですが、精霊が地域によって違うように、我々獣人の中に流れる僅かな魔力も同じものではないようです。その土地の獣人の狂獣病を治すには、その土地で生まれた宝石の力が必要になるらしいです」
「それってよ。村から離れた獣人はどうなるんだ」
「どうなるとおっしゃいましても……普通は発症し終えた獣人しか村から出ないはずです。……獣人の差別の話はご存知で?」
猿の獣人が喋りにくそうにしているので、リットは潤滑油とばかりにおかわりの酒を注いでやった。
「聞きかじった程度にはな。今も差別が残ってるのは、外からの情報が一切入って来ない辺境にある閉鎖的な小さな村くらいだってな」
「その差別の原因というのが狂獣病なのです。昼間は同じ言葉で話していた者が、急に月の出る夜になると話の通じない獣に戻る。その話の悪い部分だけが広がり、人間だけではなく、他の種族からも偏見を受けることになったのです。なので、獣人側も気をつけるようになり、今では一度発症して完治してから故郷を出るようなったのです」
「その石がない場合ってのはどうなるんだ?」
リットの問いに猿の獣人は目を丸くして驚くと、こらえ切れず大きな声で笑った。
「いや……失礼」と咳払いをして調子を整えると「それはありえない話です。確かに一生壊れないといったものではありませんが、まさか予備がないなんて」と言った。
「実はねぇんだよ」
リットが正直に言うと、猿の獣人は納得がいったと何度も頷いた。人間がここに来るのは珍しいと思っていたからだ。
人間と獣人が来ることはあるが、人間とダークエルフの組み合わせだ。なにかあると思っていたそのなにかは、二人が冒険者だと結論づけた。そして、リットがなぜ関係のない狂獣病を治す宝石のことを聞きたがっているのかも。
「我々の町も、宝石問題は抱えているところであります。たしかに今は予備の宝石がありますが、確実に定期的に入手出来るものではありませんから。盗難や損壊が重なれば、我々も冒険者に頼むことになるでしょう。同族の頼みとあらば協力したいところですが……先ほども申した通り、生まれ育った土地の宝石じゃないと効果がないのです。嘘だと思われるのならば、予備の宝石をお貸ししてもよいのですが……こちらにも必要なもの。万が一があっては困るので、巨額の担保が必要になりますが」
猿の獣人はどうするか聞いてきたがリットは断った。ここは獣人に人気の宿だ。同族に恨まれるようなことは、わざわざしないだろうと考えたからだ。
「見付けた時のことを聞いてもいいか?」
リットが酒を注いで聞くと、酔い気味の猿の獣人は機嫌良く話してくれた。
今使っている宝石の詳細は不明だが、予備に保管してある宝石は、彼のひいひいひいひいひい爺さんの頃に見付かったものらしい。見付けたのは偶然で、ジャングルに食いちぎられたような木を見付けて近付いてみると、そこにその宝石が引っかかっていたという。
その宝石の形から、一般的には『牙宝石』と呼ばれている。
「どうやら……宝石の形はどこも同じらしいな。その宝石で飲食物に影響を与えるってのは、どこの獣人の村でも同じなのか?」
「いえ、聞いたことはないですが……。やはりフルーツを?」
「依頼されたところは酒だ」
「……それは!? 『コボルドクロー』というお酒では?」
「なんだ知ってるのか」
「知ってるもなにも、獣人が作る酒といえばコボルドクローです。特に今は人気のお酒です。うちの宿にも置いて欲しいという要望がたくさん来ています」
「だろうな。あっちもこっちも大変らしいぞ。急に手に入らなくなったってな」
リットの言葉に猿の獣人は目の色を変えた。ライバルが増える前に、おそらく報酬になっているであろうコボルドクローを売ってくれるようにと交渉を始めたが、急に冷静になって落ち着き出した。
「牙宝石がなくて、不安の日々を送っているのでしたね……。同族を助けるためにも、正規のルートで入手することにします。どうか、私の情報を役立てて仲間をお助けください」
猿の獣人に頭を下げてお願いされたのでリットは困ってしまった。依頼なので、ポンゴの村を助けるのは当たり前なのだが、こうも良い人を見せられてしまっては、酒の支払いの当てがないなどとは言いにくくなってしまった。
結局言えずじまいで部屋まで戻ったリットは、急に背後からクーに襲いかかられ首を絞められた。
「なぁーにを勝手なことをしてくれちゃってまぁ……誰がお酒なんか頼んでいいって言ったの? しかも高級をウイスキーをボトルでなんて。どこの王様にでもなったつもりなのさ。うん?」
「しょうがねぇだろ。話の流れってもんがある。高い酒を買って酔わせたからこそ、警戒心を解く手間が省けたんだ。それとも、ここに何日もいて友達にでもなれってのか?」
リットは有用な情報が聞き出せたんだから仕方ないと言うが、クーは鋭い目つきで窘めた。
「私はそこを言ってるんじゃないの。情報をもってきたのは偉いし、情報を手に入れるのはお金がかかるのもわかってるよ。でも、これから宿代を踏み倒して逃げるっていうのに、そんな高級ウイスキーまで飲み逃げするなんて……リットは鬼畜だよ。せめてアクラカンくらいにしとけば、私の心も痛まないのに……」
クーが胸に手を当てて大げさな表情を浮かべて言うので、リットは不審に思った。
「ちょっと待てよ……」
「そうだよ。踏み倒す気だって言ったの」
「違う。それも引っかかったんだがよ……。なんでオレが高級ウイスキーを頼んだのを知ってんだ? それもアクラカンじゃないのを。……つけてたな」
リットが睨んで言うと、クーはリットの頬をつまんで無理やり口角を上げさせた。
「とりあえず笑って笑って。どうせこれから逃げるんだからいいでしょ」
「オレがそういう行動を取るように仕向けただろ。やたらと寝返りが多いからおかしいと思ったんだ……」
クーは「……まぁね」と観念した。「予定では、久しぶりのお酒にリットも酔っちゃって、ここらの話は有耶無耶になるはずだったんだけど……仕方ない。ほら、機嫌直ったでしょ?」と、リットを抱きしめた。
「よくねぇよ。この先の展開も手にとるようにわかる」
「手にとるようにわかるくらいじゃ……まだまだだね。手のひらで踊らせないと」
クーはにっこり笑うと、コンプリートを呼び出す木笛を吹いた。
旋風はリゼーネ城の書庫ではなく、エミリアの屋敷の庭へと舞い降りた。
一晩経ってしまったので、城の書庫に戻っては侵入者だと間違われてしまう。他にコンプリートにイメージを正確に伝えられるのが、エミリアの屋敷しかなかったのだ。
幸い誰にも見付からず、クーがこの力を使っていることは知られなかったが、その物音にすぐにエミリアが飛んできた。
「二人揃ってなにをしている……」
「それを聞くのは野暮ってもんだよ」
クーはリットを抱きしめたままわざとらしく誤魔化した。
「どれだけ私が二人を探したと思っているんだ。似顔絵を書いて捜索するところだったんだぞ」
「おっと……それは困っちゃうね」クーはさすがに似顔絵が出回ってはまずかったと内心ほっとしていた。「似顔絵って想像で描くと、大抵ブサイクにされちゃうんだよね。どうせなら美人に描いてもらいたいし」
「その似顔絵のことで話があるんだ……」とエミリアは疲れた顔でため息をついた。
「似顔絵? まさか本当に私の似顔絵を描くつもりなの?」
「違います。リゼーネに出回っている似顔絵のことです」
「リゼーネで出回っている似顔絵?」
リットとクーは、なにか覚えがあると顔を見合わせた。
だが、答えだす前に答えの方からやってきた。
「はぁい」と人懐っこい声で挨拶から入り、「珍しい組み合わせじゃん」とリットとクーを見て驚いていた。
「そっちほど珍しい組み合わせじゃねぇよ……。ここでなにやってんだシルヴァ……」
リットはよそ行きのドレスでめかしこんでいる妹のシルヴァを見て、嫌な予感がしていた。
「んー……内緒?」
唇に指を当てて小首をかしげるシルヴァの横で、エミリアは「助けてくれ……」と熱願していた。